ブリキの心臓 | ナノ

3


「長いようで短い時間だった。ありがとう、エイーゼ。少なからず憎く思っているだろう僕の話し相手になってくれて」
 エイーゼの様子などどこ吹く風で、ジャバウォックは告げる。そして、「ああ、それと、」と淡々とした調子で続けた。
「目が覚めたあとは、僕も邪魔しないであげる。さすがに彼女にも怒られるからね」
 なんの話だ?
 エイーゼがそう思った途端、意識は浮上した。





「ねえ、エイーゼ。こんなにもいい天気なのよ。お昼寝よりもお茶会をしましょう」
 目蓋を開けると、聞き触りのよいコロラチェラの音色に鼓膜を揺らされる。その華やかなソプラノの主は、安らぐ微笑みを浮かべて、エイーゼの顔を覗きこんでいた。
 じわじわと覚醒していく最中、エイーゼは乾いた声で「アイジー、」とその名を呼んだ。
「僕の部屋まで入ってきたのか……」
「ノックはしていてよ。だけど、返事がなかったの」
「眠っていたんだから当たり前だ」
「珍しいわね。休日とはいえ、貴方が真っ昼間から寝ているだなんて。きっと疲れていたのね。お茶にしましょう? チェリーカットがストロベリークーヘンを用意してくれたの」
 瑠璃紺のブランケットをめくりあげ、エイーゼは上体を起こす。横たわっていたのは白いクッションの並ぶソファーの上だ。手には押し広げたまま懐に伏せられた本が一冊。読書をしてそのまま寝てしまったのだろうと、眠気の熱さを息苦しく思いながら、エイーゼは思い出していた。
 そして、ソファーの脇に立つアイジーを見上げる。
 目の前の双子の妹は、数年前の姿形とは違い、少女から女性へと変貌した。その美貌はさらに抜きんでたものとなり、天使のようだと称された笑みは、女神のようなたおやかさを帯びている。
 エイーゼは思う。もしも、ふさわしい婚約者を見つけ、その男のもとへと嫁ぐことがあるならば、いま己に向けているような笑みを、その男へも向けるのだろうか。それとも、貴方だけよ、と己に囁いてくれるのだろうか。そんなことを考えている時点で、ジャバウォックからの問いかけの答えは明らかだった。
「いらっしゃい。今日は風が気持ちいいから、外に出ましょう」
 アイジーに誘われるようにして、エイーゼは外へと出る。シフォンドハーゲン邸の大きな庭、薔薇の花が姦しい、モザイクタイルのガゼボの中で、アフタヌーンティーの準備は整えられていた。
「おかけになって」
 ティーパーティーの女主人らしく、アイジーは言った。エイーゼとアイジーは向かい合って座る。噎せ返るような花の匂いを、紅茶の香りが塗り潰していく。
「……キーモンか」
「ええ。グレイスの新作なのだそうよ」
「これもチェリーカットが?」
「いいえ、頭取が。貴方には、ソルノア=ステュアート殿下と言ったほうが伝わるかしら」切り分けたストロベリークーヘンをエイーゼに差しだした。「先日、久しぶりに《オズ》へ言ったのよ。殿下に呼び出されたの」
「……どんな用件で?」
「ミス・メイリア=バクギガンの論文についてよ。ほら、去年、私と貴方が《ハートの女王の呪い》の効力で不老不死になりかけていたのを解除したことがあったでしょう。あの件についてまとめ終えたらしくって、当事者である私にも確認してほしいと相談されたのよ」
 そんなこともあったか、とエイーゼは紅茶に口をつける。
「あと、それから、私の厄介さんとゼノンズが喧嘩をしたのだけれど……」
「そういえば、ゼノンズが、ハルカッタの息子に決闘を申しこまれていたな」
「そう、それよ。元を正せばブランチェスタの髪が燃えた一件に始まり、彼らの呪いの件も絡まり、ややあって、溜まりに溜まった鬱憤が爆発したのだけれど。シェルハイマーもリラも驚いていたわ。とにかく、その件にも殿下が興味を持たれて……あとは、最近、ユニコーンの角のお菓子が海外へ取引されることになったでしょう? ユルヒェヨンカも携わっているから、部下の様子も知りたいと、殿下にせっつかれたのよ。おかげで喉がからからになっちゃったわ。この紅茶は、そのときの手土産」
 アイジーとエイーゼの交友関係は大きく異なっているし、エイーゼの知らぬ名がアイジーの口から出てこようと、エイーゼはこれまで気にも留めなかった。
 けれど、いま、エイーゼは、アイジーを遠くに感じていた。このまま永遠に離れ離れになってしまうのではないかと思われたほどだった。
 そんなエイーゼの心情を少なからず感じとったのだろう。アイジーは困ったように微笑んで、エイーゼを見つめた。
「……ねえ、エイーゼ。私、貴方がなにに焦っているのか、ちっともわからないの」
 アイジーは手を膝に置いた。首を傾げると、シルバーブランドの髪が柔らかく滑り落ちる。
「私をシフォンドハーゲンの当主にと推薦する理由を、貴方はちゃんと話してくれないんだもの」
「言っただろう……僕に与えられるならば、お前にも与えられるべき、当然の義務と権利だと」
「ええ、そうね、双子の兄妹なのだからと、貴方は言ったわ。けれど、よく考えみて。貴方が私を当主にと推したことが、過去に一度だけあったでしょう?」アイジーは慎重な面持ちで続ける。「貴方が、死に直面したとき……私は不安なのよ。貴方は、また、死を選ぼうとしているの?」
 あまりの見当違いに、エイーゼは顔を顰めた。
「そんなわけないだろう」
「だって、だって、そうとしか考えられないわ! でないと、私を当主にだなんて、そんな世迷言を言うわけがないんですもの」
「これが世迷言だと? お前を当主にするために、僕がどれほど時間を割いて、考え抜いて、お父様やお母様を説得して、眠れぬ夜をすごしていると? ずいぶんと作りこまれた世迷言だな。僕もそんなに暇じゃない」
「だったらどうして? それも、私のためなんでしょう?」アイジーは悲痛な顔をした。「……貴方がそれを差しだしたときも、私のためだったわ。その義務や権利は、本来、私には与えられないものなのよ。それを無理にでも押し通そうとするなんて……私のために、自分を差しだすようなことは、しないで」
 エイーゼは、アイジーの寂しげな顔を見て、朧に「違う」と呟いた。
 エイーゼは、アイジーになにかを差しだそうとしたわけではない。エイーゼにとって、この世にある森羅万象は、アイジーと分け合うべきものだった。そんな考えのまま大人になったエイーゼなのだから、エイーゼに与えられた義務や権利を、アイジーとも分かち合うのは当然だと思った。
「僕がいないことで与えられるものなんか、受け取らなくていい。僕は、お前になにかを差しだしたいわけでも、奪われたいわけでも、ましてや捧げたいわけでもないんだ……」
 エイーゼの背はさらに伸び、母のイズを追い越して久しい。非の打ち所のない身のこなしには磨きがかかり、シフォンドハーゲンにふさわしい威厳を兼ね備えるようになった。アイジーとて、シフォンドハーゲンらしい淑女になった。細く可憐な姿は柔らかな曲線を帯び、気高い鼻筋には淡い色香が芳った。清らかに真っ白く、美しく成長したアイジーは、行き遅れさせるわけにはいかぬと躍起になったイズによって、いずれふさわしい婚約者があてがわれる。シフォンドハーゲンの娘として、アイジーは他の貴族の男のもとへ嫁ぐのだ。アイジーの最も隣にいるのは、エイーゼではない。エイーゼも、ふさわしい娘と結婚すれば、その娘を最も隣に置くことになる。
 そんなことは、エイーゼが一番よく知っている。


「――お前のためじゃない。僕のためなんだ」


 大事に大事に抱えこんだいた、エイーゼ自身ですら意識していなかった言葉が、いま、こぼれでた。
 一度こぼれてしまえば、あとは瞬く間だった。その思いは濁流のように氾濫していく。
「僕の最も隣にいるのは、お前がいい。あの日、言ったろう、八年前の続きを、と。僕はまだ足りないんだ。僕がいて、お前がいて……」エイーゼは喉を引き攣らせた。「僕が望んだ幸福は、そういうものだったんだ」
 アイジーはわずかに目を見開かせ、けれどしっかりとエイーゼを見据えていた。己と同じ青紫の瞳が震えるのを認めて、瞬きをする。
「それで……私も当主にと?」
「当然だ。僕が当主になるんだから。お前も隣にいてくれないと、嫌だ」
「近い未来、貴方の隣には、貴方の伴侶がいらっしゃるわ」
「だろうな。だが、それがどうした」
「貴方に添い遂げてくれるだろう女性は、きっと貴方のために生きるでしょう。ミス・シフォンドハーゲンにふさわしく、貴方のために全てを捧げるでしょう。貴方のために死ぬことしかできない私よりも……私のために生きることしかできない私よりも、よっぽど貴方の隣にふさわしいと、私は思うのだけれど」
「僕は“貴方のために”という言葉が世界一嫌いだ。そのことはお前が一番よく理解していると思う。僕のためでなくていい、自分のためでかまわないんだ。僕は僕のためにアイジーといるし、アイジーはアイジーのために僕といてほしい。献身はいらない、願うのは我がままだ。でないと、求められている気がしないから」エイーゼはおどけるように両手を広げた。「お前としか共に歩んでいけなくなったような僕のありさまを、おわかりいただけただろうか」
 その言い草に、アイジーは肩を竦める。
「……呆れたひと。でも、かわいいひと。私は、貴方が幸せであれば、それでよいのに」
「僕の幸せは言ったとおりだよ、アイジー。お前のために生きて、お前のために僕といてほしい」
「貴方のために貴方といたことなんてないわ。そんなに私を信じられない?」
「まさか。僕は一度だってお前からの愛を疑ったことなんてない」
 それは真実だ。あの長きに渡る冷戦のときですら、エイーゼはアイジーからの愛を疑わなかった。エイーゼに恨まれていると鬱ぎこんでいたアイジーとは、そもそもの前提が違う。
「お前は僕が大好きだろう」
「あーら、たいそうな自信家ね」
「ただの事実だ」
「ええ、そうよ。大好きなの。貴方のために死んでしまえるほど」
 これも真実だ。そもそもアイジーには二度の前科がある。一度目は未遂に終わったが、二度目は正真正銘の自死だ。アイジーは自分のためだなんて言っていたけれど、結局は死に瀕した己のためじゃないかとエイーゼは思っている。だから、そのことを、エイーゼは未だに許していない。基本的にアイジーに甘いエイーゼが、これだけは許さないと思ったのは、後にも先にもそれ唯一だ。
「けれど……貴方はそれが嫌なのよね。私には、私のために、生きてほしいのよね。私は“シフォンドハーゲンの娘”として生きる未来を歩まなくてはならないから、だから貴方は、そんな運命を変えたいと言うのよね。預言者もびっくりだわ」
「ミス・シフォンドハーゲンでいいじゃないか。そして、ミスタ・シフォンドハーゲンに僕がなる。それで、全ては丸く収まるんだ」
「いいえ、無理よ、不可能だわ。私は貴方のように、当主にふさわしい人間とは言えないんだもの。それこそ利己的で、私のためにしか生きられない人間なのよ?」
「利己とは利益の追求だ。その純粋な利己主義こそが、当主としての資格でもある」
「ああ言えばこう言うのね」
「人生で初めてと言ってもいい駄々だからな。手抜かりなく、全力で、丸めこんでいく所存だ」
「恐ろしいのが、徐々にお母様の意見が覆ろうとしているところよ。ついこのあいだまで猛反対していたのに、先日、ミス・エーレブルーに、女当主とはなんたるかをご高説いただいたそうよ」
 さすが親子だ。考えることはよく似ている。
「お母様はお前に後ろめたく思っているからな。過去のことを絡めて訴えれば、正直、あと一週間ほどで完全に説得できる」
「なんて非道なのかしら!」
「よく言う。ひとを傀儡にしようとしていたくせに。テオから話は聞いているぞ」
 言いつけられた、とアイジーは舌を打ちたくなった。それに気づいたエイーゼは「はしたない」と窘める。
 よそいきの仮面を外したアイジーは、たとえば社交界で噂されているような美辞とは程遠い。幼いころとなに一つ変わっていない。こんなにも変わりがないのに、二人は大人にならなければならないのか。
「……当主になるつもりはないのか、アイジー」
 エイーゼはアイジーに問いかけた。
「ないわ。私には荷が重すぎるもの。それに、私の能力を買ってのご指名ならともかく、エイーゼの理由では、私は貴方の隣にいるだけのただのお飾りよ。そんな恥知らずにはなりたくないし、貴方の隣を恥じたくもないわ」
「……だが、それ以外に、方法がない。どうすれば、僕とお前はそばにいられるんだ」
「あら。そんなの簡単よ」
 アイジーは立ち上がり、テーブルを回りこんでエイーゼへと近づいた。しかし、抱きしめようと広げてきたアイジーの腕を、エイーゼは、手を添えることで拒む。さすがにこの歳にもなって、真っ昼間から、異性の家族と抱擁するのは恥ずかしかった。けれど、そのことにアイジーは頬を膨らませ、拗ねてしまうぞ、という態度を示した。エイーゼは愛おしそうに苦笑する。
「本当に僕が好きだな」
「ええ、そうよ。それに、貴方を抱きしめることは格別に好き」アイジーは再び腕を広げた。「貴方を抱きしめたときにね、貴方の頭が私の肩のところに乗って、首元にぴったりとおさまるの。そのとき、私はなんだか気持ちがよくなって、ずっとここにいてほしいって、思うのよ」
 エイーゼはアイジーを見つめ、呆れたように笑った。ゆっくりと立ち上がると、今度こそ、その体を抱きしめてやった。
 己のそれより柔らかい感触と、目線の少し下にある肩。そこに顔を埋めると、ぴったりとおさまる。よく知った淡い匂いに、心が満たされた。
「そうだな……僕も、お前にいてほしいと思うよ」
 お前に笑顔になってほしい。幸せになってほしい。それも、できれば僕のそばで。
 エイーゼの望んだ幸福の全てだった。
「私は私のために、貴方といるわ。いつもは無理でも、いつまでだって。そういう方法だってあるのよ。私はいつまでも貴方を好きでいるから、なにも不安に思うことはないわ。そして、私も不安には思わない。だって、貴方も、私が好きなんでしょう?」
「愛している。たった一人の僕の半身」
 エイーゼはひときわ強くアイジーを抱きしめた。アイジーはエイーゼの頭に頬擦りをする。
 ああ、やはり、とエイーゼは思った。大人になっても変わらないのだ。アイジーの差し伸べる手の先には、エイーゼにとっての幸福がある。
 大人にもなって、と怪物は呟いた。
 エイーゼは笑った。
 かまうものか。命が続くかぎり、この幸福は、僕とアイジーのためにある。





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