ブリキの心臓 | ナノ

1


 アイジーの差し伸べる手の先には、エイーゼにとっての幸福がある。
 それはたとえば、並んで向かう朝食のテーブルへの道。ダンスフロアの煌びやか。青葉繁る木の上。永遠にも思われた冷戦の氷解。
 アイジーはエイーゼの幸福の象徴であり、輝く光を分け与えてくれる分身であった。
 一方で、エイーゼも、アイジーにあらゆるものを分け与え、分かち合った。己が温めたベッド、ピアノの音色の感動、珍しい生菓子。瞳も髪も、顔も血も、文字通りの人生だってそうだ。エイーゼにとって、この世にある森羅万象は、双子の妹と分け合うべきものなのだ。だからこそ、死を分かち合えない苦しみに、幼いエイーゼはもがき苦しんだと言える。
 あらゆるものを分かち合うべきだ。そんな考えのまま大人になったエイーゼなのだから、その提案は、至極真っ当な意見だったのだ。
「アイジーを当主の座に就かせてはどうでしょう」
 イズとオーザはひっくりかえった。
 これが、現在、シフォンドハーゲン家で巻き起こる、継承問題の発端である。





「あら。まあ。ついに言ったの。おっどろき、ね」
 猫のお腹のようにしっとりとした温かい語調で、リラ=エーレブルーは言った。アンデルセンで流行っているらしい言葉を用いた彼女の感想に、エイーゼは眉を顰めた。
 現在、エイーゼは、リラと馬車に揺られている。向かうのはシフォンドハーゲンが所有する土地の一つだ。エイーゼは学び舎での最終学年に上がったころ、シフォンドハーゲンの管轄する領土の一部の運営を、オーザから任されていた。少し前、その土地に住む民が、近隣のエーレブルーの土地に住む民と共同事業を始めることを立案した。その共同事業が出資に値するか否か、件のエーレブルーの土地の運営を任されていたリラと共に視察しに行くための道中である。
 同じ馬車の中、エイーゼの対面に座るリラは、再び口を開いた。
「素敵だわ。貴方とアイジーの誕生日がいっぺんに来たような気分よ」
「僕とアイジーの誕生日は毎年いっぺんに来る」
「それで? 結果はどうなったのかしら? 全ては貴方の望みどおり?」
「まさか。この馬車にアイジーが乗り合わせていないのが答えだ」エイーゼは腕を組んで続ける。「お父様にもお母様にも猛反対された。別に、僕が次期当主の座を降りると言ったわけではないのに。ただ、当主を二人据えるよう……アイジーにも僕と同じように、シフォンドハーゲンの運営をさせてみてはどうかと、打診しただけなのに」
 エイーゼは、至極不服である、といった様子だ。青紫の瞳は物憂げに細められ、隙のない容姿は凄みを増す。組んだ腕に添えられた人差し指が、トントンと小刻みに動いていた。声をかけるのを躊躇われるほどの涼やかさだ。
 そんなエイーゼに、リラは告げた。
「苺の種を撒いて、あと少しで実りますといったときに、“やっぱり檸檬を育てましょう”と言われても困ってしまうわ。誰しも、苺を摘んで、甘いストロベリークーヘンを焼きあげてから、レモンパイを召し上がりたいものよ」
「時期尚早だったと? 卒業してしまえば僕は“ミスタ・シフォンドハーゲン”だ。むしろ猶予あるいましかない」
「貴方って春の暁みたいね。みんなはまだ眠っていないのに、叩き起こされてしまうんだわ」
「苺だったり日の出だったり……次はなにに喩えられるんだ?」
 呆れるように呟いたエイーゼだが、近頃はギルフォード校きっての変人と名高いリラの言動にも慣れたものだった。
 彼女と話すようになったのはここ二、三年のことで、そしてその間に、案外話の通じる相手であることをエイーゼはきちんと理解していた。そして、独特の慧眼を持っていることも。
「ちなみに、お二人はなんと言って反対されたの?」
「当主とは男児が継ぐもの。二人の当主など未だかつてないこと。なにより、アイジーは当主となるべく教育を受けていない。大まかに分ければこの三つだな」
「まあ、ミスタ・シフォンドハーゲンならそうおっしゃるでしょうね。当主は男性であることのほうが多いのだから、格式と慣例を重んじるシフォンドハーゲンならばなおさら」
「未だかつてないと反対されるから、その前例を作ろうとしているのに、堂々巡りだ」
「貴族の凝り固まった概念ね。貴方と同じような問題に直面しているのが、グレイス姉弟よ。姉のアールグレイのほうが商才はあるそうだけれど、グレイスを継ぐのは弟のダージリンなんだから。当のグレイス姉弟は貴方と違って、それを問題とは捉えていないでしょうけれどね。アールグレイは、スワンに嫁ぐのですって。ほら、ミス・レイチェル=スワンには、二つ上の兄がいらしたでしょう?」
「ミスタ・ネイサン=スワンか」
「そう。ミスタ・ネイサン=スワンはスワン家を継ぐのだもの、ミス・アールグレイ=グレイスはその補佐に収まるでしょうね。口惜しいわ。彼女なら、素晴らしいミレディになると思うのだけれど……」
 女が家督を継ぐという、ひっくり返るような突飛な意見も、当然のように受け止めるのがリラ=エーレブルーだ。いや、エーレブルーの血筋だ。
 エーレブルー家は女流貴族だ。代々女性が当主を務め、リラも卒業後は“ミス・エーレブルー”となる。
 このストロベリーブロンドをした、絵本に出てくる妖精のような娘が、一つの大家の家督を継ぐというのは、なかなかに不安を煽る構図ではある。しかし、リラは幼いころより当主になるための教育を受けてきた、エイーゼと同じ立場の人間だ。こうして話すようになるまでエイーゼも知らなかったが、リラは暢気な変人ではなく、その本質はむしろ聡明である。
「……前にも聞いたことだが、エーレブルーはどうやって、女性が当主を務めるようになったんだ?」
「前にも話したでしょう、運が悪かっただけ。きっかけは、とある男性当主が、愛人と逃げてしまったところから始まるわ。残された夫人はいなくなった夫の代わりに当主の務めを果たしたの。その娘も、結婚後、病気で夫を亡くしたわ。元より婿養子の相手だったから、出戻りすることなく、エーレブルーの名のまま、やはり彼女も当主の役割を果たした。二代続けて不運に見舞われたものだから、たとえ女児が生まれても、いかなることがあってもよいように、当主としての教育を施すことにしたの。その未然が功を奏し、あらゆる不運を乗り越えた末、いつのまにか女性当主が主流になっていただけよ」けれど、とリラは続ける。「こうして考えてみると、男性の不在は、女性が当主の座に就くに必要な布石だったと言えるわね。何事にも始まりがあるわ。エーレブルーはその始まりに終わりを迎えることなく、今日まできたのだということよ」
「男性の不在……か」
 エイーゼは、己が命を落としかけたあの日のことを思い出した。
 アイジーの呪いに影響を受け、《名前のない怪物》の副作用から、心臓が痛みを訴えていた時分だ。あのとき、エイーゼは、本当に命を落とすことを覚悟したし、己が死んだ後のことを想像した。次期当主となる己が死ねば、シフォンドハーゲンは潰えてしまう。アイジーが死を選ぶような退路を断つかのごとく――ちなみにその甲斐もなくアイジーはエイーゼの身代わりになることを選んだ。心の底ではエイーゼもそれを許してはいない――アイジーがシフォンドハーゲンの当主になることを、暗に提案した。それが無碍に棄却されなかったのは、エイーゼが命を張ったからに相違ない。
 アイジーが家督を継ぐことは、エイーゼが死ぬという大事が起こらないかぎり、ありえないようなことなのだ。
「けれどね。エーレブルーの成り立ちは、貴方には不適なんじゃないかしら。貴方はアイジーに当主の座を譲りたいのではなく、アイジーと共に当主になりたいのでしょう?」
 エイーゼの心理まで察しているリラは、子守唄を歌いあげるような優しい音色で尋ねた。エイーゼはそれに返事も視線も遣らなかったが、リラは全てわかっているような表情で、エイーゼの横顔を見つめた。そのことがエイーゼは腹立たしく感じられるも、やはり敵わないのだと思い知る。
 リラは知っている。エイーゼがアイジーと家督を継ぎたいと思ったのは、今日や昨日の話ではないことを。それゆえの“ついに言ったの”だ。
 思えばリラには見透かされてばかりだと、エイーゼは思った。たとえば、心臓が弱ったときも、その独特の慧眼から、リラはそれを見破った。おかげで、リラと共有する時間が増えた。隠し事の片棒を担がせることから始まり、現在はご意見番のような役割に据えてすらいた。数年前なら考えもしなかったことだ。エイーゼにとってのリラは、奇っ怪な同級生だったのだから。奇っ怪という点では印象に差異はない。弱みを握られるように常に見透かされる、のっぴきならない相談相手だ。
 今日に至るまで、エイーゼは、アイジーにも家督を継がせるため、女流貴族の当主になることが決定されている彼女に、知恵を乞うていた。
「アイジーの場合、爵位を得るほうが早いのではないかしら?」
「夫人としての爵位か? それだと婚姻を結ぶ必要があるだろう」
「だめかしら。アイジーならば引く手数多だと思うわ。誰もがシフォンドハーゲンの持参金には目が眩むことでしょう。けれど、地位と財力と血統で、シフォンドハーゲンに敵う名家はないから、彼女の言葉一つで、およその家は乗っ取れるでしょうね。そのあとシフォンドハーゲンの名で吸収してしまえばいいのよ」
 そんな恐ろしいことをリラは言ったが、エイーゼが反応したのは前半だけだった。
「その点に関しての心配はしていない。僕の妹だぞ。誰にもいらないとは言わせない」
 前半どころかほんの出端である。
「では、なにがお気に召さないのかしら? アイジーと離れるのが嫌?」
「……僕の望みは“シフォンドハーゲンの家督を共に継ぐこと”だから、アイジーがどこかしらの家督を受け入れようと、シフォンドハーゲンでないかぎり意味がないんだ」
 リラは顎に手を添えて黙考したのち、「だったら、」ともう一つ提案をする。
「功績を立てることでなら、シフォンドハーゲンのまま、彼女個人の爵位が得られるわ。そうすれば、現ミスタ・シフォンドハーゲンも、アイジーを野放しにはしておけないでしょう。なんらかの職務を与えなければ、立場との釣り合いが取れないのだから」
 なるほど、とエイーゼは理解した。
 功績を立てての爵位授与は、格式と慣例により為されてきたことだ。たとえば騎士などがそれにあたる。永久泰平の契りを交わして以降、近隣諸国間での争いは絶えた。騎士は解体され、爵位を与えられた。その筆頭がシベラフカ家だ。元よりシベラフカは王家に仕える騎士として代々当主は騎士爵を与えられている。本来なら騎士爵は世襲の認められない準貴族だが、その代々変わらぬ功労により、王家から爵位を与えられたのだ。
「必然性を産みだすことが肝要よ。当時の騎士に爵位が与えられたのだって、露頭に迷った屈強の騎士が反旗を翻そうとしたからだとも言われているでしょう?」
「変わらぬ忠誠を求める代わりに、地位と財を与えたという話か。たしかに、体裁を取り繕うことは、貴族の格式と慣例だ。“ただの娘”という立場ならばアイジーが家の管理の一切を免除されていることは当然だが、爵位を持つ個人として地位が確立されてしまえば、それは当然ではなく怠惰になる。シフォンドハーゲンの名に傷がつくことは、お父様も避けたいはず」
「ええ。体裁を利用した必然性をカードにするというのも手だと思うわ。ただし、爵位を得られるだけの功績を、一朝一夕で得られるかは、別問題ではあるのだけれど」
 エイーゼは思案した。
 決して己の妹を優秀だとは思っていないが、しかし、とある分野においての彼女は教授位を得るほどの聡明である。加えて、だ。
「……それに関してのアテはなくもない」
 リラは「あら」と目を見開かせた。
「問題は、時間が足りないことだな。あらゆる意味合いにおいて」
「時間は、ひとが干渉できないもののうちの一つよね。お手上げかしら」
「……いや。だけど、今日はこれ以上考えたとてなににもなるまい。それより、そろそろ共同事業の話をしよう」
 エイーゼは“ミスタ・シフォンドハーゲン”の顔に、リラは“ミス・エーレブルー”の顔になった。
 シフォンドハーゲンがためのエイーゼだ。シフォンドハーゲンの嫡子であり、次期当主であるという、その誇りと責任を背負った姿だった。
 エーレブルーを特筆して除外すれば、貴族の娘は家のための娘として育てられる。アールグレイ=グレイスのように、抜きんでた才覚があろうとも、生まれ持って敷かれた運命に沿うように生きる。アイジーとて、シフォンドハーゲンがためのアイジーだ。
 彼は、アイジーに、シフォンドハーゲンがための人生を生きてほしくないのだろう。そう、リラは直感していた。


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