ゆくあての道程
在るところに時間に追われる白兎が居りました。
彼は少しずつ、少しずつ、着実に近付いて来る"それ"から毎日逃げていました。
それは───
彼は足をもつれさせながら逃げていた。
青いスカートをはためかせ、"自分と同じ顔"のその少女がチクタクと足音を鳴らして追って来るからだ。
「何故逃げるの?」
「怖いからだよ」
「何処が?」
「得体の知れないところさ」
聞こえるのは一定の歩く程度の足音なのに、走っている筈の彼はどんどんと距離を縮められて行く。
そして逃げている最中はずっと、すぐ隣で話しているような世間話のような気軽さで問い掛けられ、答えている。
「何処が分からないの?貴方と私は同じ顔よ」
「でも俺じゃない」
「会話も出来るわ」
「嘘だって吐ける」
「貴方が?」
「おまえが」
くすくすと笑うすぐ後ろに居る少女を睨んだまま、彼は一歩後退する。
一歩、また一歩、少女を引き離すように下がった彼は壁に"それ以上"を拒まれた。
「もう後は無いわ」
「おまえの先だって無いさ」
「あら、勝手に決めないでよ」
ほら、と少女が指差すそこにはさっきまで目にも留めなかった机と上に乗っている小瓶。
「選択なさい。その小瓶の蓋を開けるか否か」
少女がくすくすと笑う。
「蓋したままなら貴方は先へは進めない。ぐるぐるずっと私とおいかけっこ」
まぁ、追い掛けてもいないけど。と少女が嘲るように呟く。
逃げようと彼が視線をさ迷わせると、自分が追い詰められた壁は唯の壁ではなく扉だと気が付いた。
そうと分かるとどうしよもなく扉の向こう側に行きたい衝動に駈られ、しかし後ろ手にノブを回すと鍵が掛かっていると分かり安堵した。
「……」
彼は暫し悩んだ。
扉を開ける鍵が無いからと言っては、いつもあっさりここで引き返しまた彼女に追われるのだ。
彼女に追われる間は不安と恐怖でいっぱいだが、彼女がまだ追って来ていると分かれば安心する。
足音が聞こえなければあんなに逃げていたのに彼女を探してしまう。
…でも今日はどうだろう。
彼女は昨日より近くに居る。
どんな顔かはっきり見えてしまう程に。
明日はどうなるだろう。
このペースで行けば追い越されてしまうかもしれない。
自分が後ろになった場合は追いかける側になるのだろうか。
それとも自分を捕まえた彼女は満足でもして消えてしまうのだろうか。
「………、」
彼は悩んだ末、小瓶の蓋を開けた。
「!?」
途端に小瓶の中身が溢れ出す。
きらきらと煌めきながら満ちて行くそれは到底あんな小さな容器には収まらないシロモノだった。
辺りのものを巻き添えに彼は揺らめく波間に浚われ、溺れそうになりながら流され、辿り着いたのは森の中のお茶会だった。
「こんにちは」
「こんにちは」
「ようこそ」
「きちがいだらけのティータイムへ」
彼等は皆、彼と同じ顔。
声まで同じで誰が喋ったのかすら分からない。
「やぁやぁ君はあのお城に行くんだね」
「その前に一休みしたらどうだい」
「また彼女とおいかけっこしてもいいね」
「あ、この小瓶…」
彼は彼から彼の小瓶を受け取ると自分のポケットに確りと容れた。
「呑まないのかい」
「紅茶を?小瓶の中身を?」
「紅茶は気分じゃないな」
「小瓶の中身の方がいいよ」
「いやいや見ただろうあの海を。あんな量を呑んだら吐き出してしまうよ」
「じゃあそれ以外もあるよ」
「諦めるって提案を呑む気は?」
「ないよ」
彼の問いに彼が答えた瞬間、猫耳を生やした"彼"が現れた。
「また俺か。いいよもう」
「残念にゃがらこの世界にはこの顔しかいないんにゃよ」
彼が飽きたとばかりに投げやりに言うと、猫耳はにやにやと笑い首を回した。
「でも一人だけ"俺"以外が居るにゃ」
「、どこに?」
「そんなのゴールに決まっているにゃ。おまえさんあのでっかいハートのマークが見えないんにゃ?」
「否、見えてるよ。もう逸らす気もない」
「それなら向かうにゃ。今のおまえさんなら太い一本道にゃ」
また迷路になる前に、気紛れな案内人に急かされて。
彼は迷いの森を抜けてお城の目の前。
満開のバラを赤く塗る彼等の間を通過して。
「待ちくたびれたぞ」
「ごめんね」
終に出会ったのは彼を待ちきれず城の入口に仁王立で待っていた、自分と同じ顔の女王様。
彼は苦笑いをして素直に謝る。
「で?何の用だ」
「俺、お前に言わなきゃいけないことがある」
「そうか、私はお前に聴きたいことがある」
「あ、居たぞ!」
彼が口を開き掛けた瞬間、遠方から"誰か"の声がした。
「ちっ、"最後のリョウシン"か」
女王様が忌々しげに呟いた。
「罪人だ!捕まえろ!」
「決して許すな!」
彼でも女王でもない二人が罪を罰しにやって来る。
「どうしよう」
タイミングを挫かれ、あまつさえ厄介な相手の登場に彼は狼狽え女王様を覗き見た。
「ふん、あれくらいの障壁など私が越えてやる」
───お前のそれを罪と呼ぶのなら
───私とて同じ罪人だ。
「しかしまだ、お前の言い分を聴いてない。私はそれを聴きたいのだ」
悠然と笑う女王様。
その手を引き彼は走り出した。
───傲慢女王に制裁を!
───奴等を逃がすな、捕まえろ!
追っ手が増えても二人は逃げた。
逃げて逃げて、一本の大きな樹の影に腰掛ける。
「振り切った?」
「一先ずな」
上がる息の間で会話する二人。
「嗚呼、喉が乾いた」
不意に女王様が彼を見る。
「早く潤しておくれ」
───さぁ、さっきの続きを聴かせてもらおうか。
女王様の言葉を聞いた彼は意を決し、小瓶を取り出し、自分で呑んで───
分かったんだ。
恋心から逃げ続け、溢れる気持ちに蓋をしても。
どんなに自問自答を繰り返しても、ここに来るしかゴールは無いって。
いつもの木陰のすぐ隣。
自分は起きたけれど、双子の兄はまだ寝ている。
「兄さん、貴方が好きです」
貴方が起きたら呑み込みきれない程のこの気持ちを吐き出しましょう。
end
配布元:夜風にまたがるニルバーナ/ねむ様
お題:不思議の国のアリス(時間に追われる白兎.もつれる足と青いスカート.選択の小瓶は扉の前に.揺らめく波間にさらわれて.きちがいだらけのティータイム.気紛れ案内人と迷いの森.それを罪と呼ぶのなら.傲慢女王に制裁を.不思議の国の逃亡劇.いつもの木陰で眠りましょう)
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