あの夏の日を忘れない
31
 授業が終わり、さて風紀に向かうかと腰を上げる。

「おい、椎名」

 教室を出ていこうとする俺を呼びとめたのは田上先生だった。

「? なんですか」
「今日、金曜日」

 診察だろ。じっとりとした目で見つめられる。やべ、すっかり忘れてた。

「左手もまだ完治してねぇんだからちゃんと行かないとだめだろう」
「う。返す言葉もないです」
「ほーら行くぞ」

 右手を引いて保健室に連れていかれる。手を引かなくても別に逃げないんだけどな、と苦笑し握り返す。

「っ、おい」
「え、はい」
「……いや、なんでもない」

 何か言いたそうな顔をした先生は、結局何も言うことなく保健室まで無言で歩き続けた。

 がらり、保健室の扉を無遠慮に開け中に入る先生の後に続く。失礼しますと断ると、中から「来たか」と声が返ってきた。

「おうおう椎名。さ、そこ座れ。ミルクティーは要るか?」

 手抜きだが。
 インスタントの袋を振りながら尋ねる南部先生に、お願いしますと首肯する。

「創は……水でいいか?」
「コーヒー」
「へいへい。ミルクは?」
「要らん」

 しゅんしゅんとお湯の沸く音が聞こえる。部屋の温度が蒸気でほんのりと上がる。さらさらとマグカップに粉を入れる音。沸いたばかりのお湯を注ぎ入れる音が優しく耳朶を打つ。部屋の空気の心地よさに、眠気がとろりと思考を包む。

「おーい。ミルクティーできたぞ。おねむか?」
「おねむだな」

 大の大人がおねむと連呼するのが面白くて、くすりと笑みを零す。差し出されているマグカップを受け取ろうと手を伸ばすと、動作が不安定だったのか背中を支えられた。ん? と見返すと田上先生で。胸板に頭を預けるように支えられている自分に気づく。慌てて身を起こそうとすると、当の先生にいいよ頭を撫でられる。

「眠いんだろ? 風紀には伝えとくからこのまま寝とけ」

 ぽんぽんと宥めるようなリズム。出来立てのミルクティーの匂いが眠気を誘う。重くなった瞼を促されるままに下ろす。意識はすぐに誘われた。





 スヤスヤと眠りはじめた椎名の頭をずらし膝に乗せる。呆れたような目が突き刺さるが無視だ無視。

 タオルケット寄越せ、と南部先生こと恵(メグム)に要求すると、奴の目は更に呆れを含んだものになった。

「ほらよ」
「どーも」

 椎名の体にタオルケットを掛ける。そういえば、と南部は話を切り出す。

「体育祭は来週だったか。椎名と会長が徒競走で同じ回のレースに出るってもっぱらの噂だが、どうなんだ?」
「保健室まで噂が届いてるのか。そうだよ。……ったく、外野が呑気に騒ぎやがってってな」
「違いねぇ」

 ずり、と寝返りを打ち膝から落ちかけた椎名の頭を引き寄せる。ずれたタオルケットを被せ直すと、向かい側からニヤニヤとした気配を感じた。

「随分入れ込んでるな」
「うるせぇ。黙って見てられねぇだろうが」

 未だ包帯が巻かれた左手を手に取る。眠っている時の癖なのか、指先をきゅ、と握り込んでいる。指先をゆっくりと解き、ツンツンと突く。小さい子供のようにむずがる椎名に、ふっと笑う。

「ひでぇ顔。デレッデレかよ」
「馬鹿言うな」
「どうだか」

 もぞもぞと椎名が動き出す。まだ十分ほどしか経っていないがもう目を覚ましたのだろうか。

「んん……」
「起きたか」

 声を掛けると、椎名は状況が飲み飲めないのか、困惑した表情のまま膝の上から俺を見上げる。

「せんせぇ? なにこれ…」
「膝枕だな」
「えっ、ちょ、ぉわ!?」

 慌てて起き上がろうとした椎名の額を恵が押さえつける。

「そのままでいい。手ェ出せ」
「えっ、ああ、はい」

 俺が良くないとでも言いだけな顔をしながら、椎名は素直に手を差し出す。恵は慣れた様子で包帯を解いていく。傷口に当てられたガーゼを取り除くと、現れたのは縫合跡。手の両面に付けられたその跡が酷く悲しく、痛々しい。

「指先に触るぞ」

 親指から順に、指に触れる。

「痺れるか?」
「少し」
「指先の感覚は?」
「鈍いです」

 ふむ、と頷く恵を見やる。恵は心配要らないというように手をあおる。

「来週には痺れも取れるだろう。感覚は元通りとはいかないだろうが、鈍いだけである程度は分かるはずだ」

 よかった、と独り言ちる椎名の頭を優しく撫でる。椎名は俺に膝枕されていたことを思い出したのか急にあたふたと暴れはじめる。よいしょ、と背中を支え体を起こす。ありがとうございますと礼を言うあたり律儀だ。俺なら膝枕をされたと気付いた時点でキレる。先程寝る前に飲みかけていたミルクティーを差しだすと、椎名はほんのり頬を緩めて飲みはじめた。ミルクティー、好きなんだな。

「体育祭の練習はどんな感じだ。また倒れたりはしてないのか」

 心配そうに言う恵に、椎名は曖昧に頷く。

「あれから徒競走の練習さぼってるんで……」

 椎名のことだ、要領よくばれないようにサボっているのだろう。気まずそうに言うところが椎名らしくて苦笑いする。つん、と額を突くと申し訳なさそうに眉を寄せた。

「来週の最後の練習だけはサボれそうにないんで出ようかなって思ってます」
「サボってもいいと思うけどなぁ」
「先生が言いますか」
「こいつ生徒会長やってる時もサボり魔だったからな」

 クク、と喉で笑う恵に、顔を顰める。

「ばか、あれは他のやつの自主性に任せてたんだよ」
「で、今は生徒の自主性に任せてると?」
「そうそう」
「ほざきやがる」

 椎名は俺たちのやり取りが面白かったのか、控えめに微笑んだ。

「じゃ、俺は自分の自主性に則って頑張ってくるので。倒れたら介抱よろしくお願いしますね?」

 ね、と不敵に笑う椎名の逞しさに、ああやっぱりサボればいいのにと。そんな無粋なことを思った。





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