あの夏の日を忘れない
32
 体育祭前日。A組とS組は再び体育祭の合同練習をしていた。応援団の練習をしつつ円の様子を窺う。江坂が円に元気がないと言っていたのが気に掛かったからだった。注意して見てみると、円は時折俺の方を見てはため息を吐いている。なんだ。俺が原因なのか。

 苛立つ気持ちを胸中に押しとどめ、視線を逸らす。俺の何が気に喰わないってんだ。昔なら分かったかもしれない彼の考えは、残念ながら今の俺では毛ほども理解できない。言葉にせずとも感じる。そうした領域に俺たちは確かにいたはずなのに。

 舌打ちをしても、陰鬱とした気分は変わらない。治まらない苛立ちに、嫌いだと一人呟く。嫌いだ。円も、円を理解できない俺自身も。嫌いだ、大嫌いだ。なんで俺は昔のままでいられなかったんだろう。

 授業も後半に入り、徒競走の列に俺も並ぶ。円と同じレースにならないように早々に列に並んだにもかかわらず、気を利かせた周りによって例のごとく俺たちは同じレースに並んでいた。本番と同じメンツになるように、という気づかいなのだろうが果てしなく迷惑だ。くらり、立ちくらみがする。最近体育祭のことが心配であまり眠れていなかったからそのせいかもしれない。チラリ、ゴールの方を見ると相変わらず見える母の幻影。痺れた思考の中で幻影は何事かを俺に向けて叫んでいた。声なき叫びに、呼吸が浅くなる。ぽたり、冷や汗が地面に沁み込む。クラウチングスタートの姿勢を取る。指先は馬鹿みたいに冷えていた。

「由、顔色が」
「うる、せー」

 隣のレーンに並んだ円が心配そうに声を掛けてくる。伸ばされた手を振り払うと、円はハッと息を詰めた。

 パン、という空砲の音と共にスタートを切る。ぐにゃり、視界が歪んだ。自分が真っすぐ走っているのかどうかさえ分からない。膝がかくんと笑ったのを自覚し、俺は静かにコースアウトする。大丈夫かと問う周りの声に手をひらひらと振り応える。日陰に身を投げ出すようにしてへたり込む。もう立ち上がることはできないのではないかとさえ感じるほどの気怠さに、俺は密かに苦笑した。

「大丈夫? 椎名くん」

 頭上からかけられた声に反射的に大丈夫と返す。顔を上げると、心配そうな顔をした委員長が立っていた。

「あー、ごめんミスった。やり直させて」

 不本意そうな顔で申し出る委員長に、内心首を傾げる。どうぞ、と促すと委員長は口を開いた。

「大丈夫じゃないよね、椎名くん」

 息を呑む。委員長は俺の反応に沈痛そうな面持ちになる。

「ごめん。さっきの聞き方で椎名くんが助けを求められる訳がなかったのに」

 椎名くんの言葉を奪うところだった。
 心底申し訳なさそうに言う委員長に苦笑する。優しいんだな。そろりと委員長の体操着の裾を引く。そよ風のような弱々しい力しか出ていないことに、どれだけ弱っているかを自覚する。こりゃ、思った以上に体調が悪いのかもしれない。

「……委員長。俺、大丈夫じゃないみたいだから肩貸してくれない?」

 保健室に行きたくて。

 委員長は俺の吐き出した弱音にそっと口角を緩める。よいしょと俺を支える委員長は、思いの外力持ちだった。





 額に触れる指先に、意識が浮上する。窓から差し込む夕日の赤さに、もう放課後なのだと理解した。あれから保健室で眠りこけていたらしい。

「おはよう。具合はどうだ?」
「なんぶせんせい……」
「んー、まだ熱あるな。同室に連絡するからちょっと待ってろ」

 二〇四の番号は、と電話帳を漁りはじめる南部先生の白衣の裾を掴み引き留める。

「……椎名?」
「せんせい、かけないで」
「かけないでって……」

 戸惑う先生に、言葉を重ねる。

「ここは、懐かしい匂いがするから、だから……」
「分かった分かった、ちょっと落ち着け」

 白衣に縋る俺の頬に、先生は子供にするように手を這わす。ひんやりとした感触の気持ちよさに目を細める。すり、と頬を寄せると、先生はう、と声を詰まらせた。

「仕方ないから、お熱の椎名くんは俺が責任もって看病しますよっと」

 そういう約束だもんな。

 布団を頬まで引き上げ、先生は優しく笑う。髪をかき混ぜる感触に、俺はへへ、と笑みを零した。

「よく、頑張りました」

 その夜、夢を見た。子供の頃の夢だ。円と一緒に出た、幼稚園の運動会の日の思い出。その時も、俺と円は徒競走で同じレースの出場だった。

「負けないからな」
「こっちこそ」

 挑発的な円の瞳にニヤリと笑う。ゴールテープの方には両親が立っていた。買いたてのカメラを不慣れに構えた父さんと、両手を広げ待っている母さん。母さんは、俺たちが見ていることに気づいたのか、嬉しそうに手を振り、叫ぶ。

「──!」


*


 眠っている椎名を起こさないよう、保健室の受話器を静かに持ち上げる。二〇四に電話を掛け、椎名が保健室に泊まる旨を伝える。事務連絡を終わらせた俺は続いて、スマホからアイツに連絡を取る。

「……何の用だァ、恵」
「恵さまだろ、優(ユウ)」

 ヤなこった、とほざく従兄弟に口角を上げる。相変わらず小生意気な。

「前年度風紀委員長だったお前を見込んで頼みたいことがある」
「ンだァ? めんどくさそうな案件だな」
「素直に聞かねぇと和茶(カズサ)くんに電話するぞ」

 前年度風紀副委員長だった、従兄弟の相棒の名を口にすると、心底嫌そうに降参を告げられる。

「あいつの説教は長いから勘弁。でェ? 頼みってなんだ」

 ようやく聞く体勢に入った優に、本題を話す。

「椎名なんだが、」
「うちの副委員長がどうかしたかァ?」
「熱でぶっ倒れてる」
「ハァッ!?」

 それで? と先を促す優に、笑みを深める。そういうところ、地味に優秀だよな、我が従兄弟殿は。

「風紀のシフトがどうなってるかは知らねぇが、椎名の分お前が回してくれねぇか」
「別にいいけどよォ。恵がンなに気にかけるって珍しいなァ?」

 従兄弟の追及に苦笑する。ホント、鋭いんだよなぁ、こういうところ。

「黙って見てらんねぇんだよ」

 迷った末に吐いたのは誰かさんと似たような言葉で。人のこと笑ってられねぇな、と自分の過保護ぶりに眉を下げた。





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