あの夏の日を忘れない
9
 背後に人の気配を感じ、振り向きざまに足を振りかざす。頭ほどの高さに蹴りこまれた足は、何者かを捉えた。ぐぼ、と籠った声に視線を投げる。体を反らせた男が衝撃のままに後ろに倒れる。殴りかかってきた男をそちらの方に投げるとぴくりとその足が跳ねた。

「由! 手は使うなって!」
「右手だからセーフだろ!」

 若干縛りプレイと化している気がするのは気のせいだろうか。

「ンだァ? 手が使えねーのかァ、赤狼ォ」
「ハンデが必要かと思ってな?」
「舐めんなッ」

 足の付け根を蹴りバランスを崩させる。蹴り上げた足を軸とし反転する。回った勢いのまま首を蹴る。男の頭が揺れ地面に叩きつけられる。視界の端に靴の爪先が映り頭を下げ避ける。近づいた地面に右手を付け倒立のようにして男を蹴る。蹴られた男は顔を顰めふらついた。そこを修二が膝で蹴り沈める。

 修二が背後を取られ首を絞められる。振りかざされた拳を避け腕を掴み背負い投げる。投げた先にいた男が巻き込まれ潰れる。修二を締め上げている男に近寄ろうとするも、男は修二に目潰しを喰らわされ膝から崩れ落ちた。うめき声を上げ悶え苦しむ男に向かって修二は唾を吐きかける。え、怖い。怖いって言うか痛い。自分にやられた訳じゃないけど痛い。

「ふぅ、終わりかな! タクシー呼んで帰るよ!」

 修二はため息を吐き、こちらを振り向く。にこりと微笑む彼の後ろで微かな音がする。チリ、と嫌な予感が背筋を這う。潰れた男が手元にあった鉄パイプを持ち立ち上がる。それは一瞬。時間が圧縮したかのように全てがスローに見えた。ブォンと風を切る音が修二に迫る。音よりも速く俺は飛びこみ、銀を掴む。顔面に頭突きを叩きこむとバキリと何かが折れる鈍い感覚。奪った銀を硬く握りこむと軋むような音がした。

「油断するな……」

 ポイと鉄パイプを投げ捨てる。握ったところは俺の手の形に沿うように凹んでいた。どっと疲れを感じ、フラフラと壁に凭れ座りこむ。修二は慌てて俺の元に駆け寄った。

「由……! ごめん」

 顔をくしゃりと歪める修二の頬に指を這わす。目頭をきゅ、と結ぶ修二にそっと笑った。

「……大丈夫。俺に吹っ掛けられた喧嘩に巻き込んでごめんな」
「巻き込まれてなんかない……! 由はもっと俺を頼っていいんだよ……!」

 顔を俯かせる修二の顎を指先で掬う。落とされた視線はそっと俺のものと絡んだ。

「十分頼ってる」
「……そっか」

 何かを言い淀んだ後、修二は困ったように微笑んだ。額をなぞるように触れられる。前髪がはらりと零れる。

「熱上がってる」
「……あー流石にちょっとだるい」
「だろうね。今タクシー呼ぶから待って」

 スマホを出しタクシーを手配する修二をぼんやりと眺める。だめだ、思考が滞ってきた。こめかみの辺りがドクドクと脈打つ。眼球の奥がじんわりと痛み、思わず瞼を閉じる。修二の声が遠くの方に聞こえた。

「──た──ら──くよ」

 声の後、体がぐっと持ち上げられる。右腕の付け根に骨を当てられる感覚。靴の先にコンクリートが擦れた。くらりと揺れる頭。ざざ、と波の音が耳の中で響く。きらりと視界の端で太陽が光るのが見えた。潮の香りが鼻をつく。

「由ッ! 追いかけっこしようッ!」

 高揚した頬で楽し気に話しかけてくる円にきょとんとする。彼の容姿は丁度幼稚園卒園前のように幼いものだった。……そうだ、今日は家族みんなで海に遊びにきたんだった。兄の、俺とお揃いの水着からはポタポタと海水が滴っている。砂浜の方では母さんがパラソルの下でニコニコと笑いながら雑誌を捲っていた。父さんはその横で焼きそばを頬張っている。海の家で買ったものだろう。

「追いかけっこ? 俺の方が泳ぐの速いけど?」

 ふふんと胸を張り煽ってみせると円は頬を膨らませる。むっきーと地団太を踏む兄にクスクスと笑う。打てば響く反応を返す円を揶揄うのは面白かった。

「やってみなきゃ分かんねーだろっ!」
「どうかな〜? 走るのも俺のが速いしな〜」
「うっせー! ガタガタ言わずに勝負しろ勝負!」
「しょうがないな〜」

 偉そうに踏ん反り返り返事をすると円は水辺へと走っていく。追いかけるように海に入る。爽やかな潮の香りが胸に広がる。冷たい水が火照った肌を撫でるのが心地よい。

「よっし由! あの沖の方の旗まで競争な!」
「負けねー!」

 いししと笑うとよく似た顔がニパッと笑う。

「レディー、ゴー!」

 合図に合わせて泳ぎだす。水をかき少しずつ旗へと近づく。ゴールは思いの外遠かった。円はグイグイと泳ぎ旗へと近づいていく。意外なことに兄は俺の前を進んでいた。負けじとバタ足のスピードを上げる。円は後ろの俺を振り返り、意地悪そうに笑う。ムッとしたその時、ガクンと兄の体が沈んだ。

「わ、」

 間抜けな声を一つ残し、目の前から兄の姿が消える。

「円ッ、円ッ! 兄ちゃんッねぇッ!」

 慌てて後を追い水中に潜る。兄の姿はなかった。塩が目に沁みるのも構わずに辺りを探す。遠くの方で上へ上へと手を伸ばしながら沈んでいく兄がいた。そちらの方へ水をかき、必死になって近づこうと試みる。こちらに向かってやってくる波が煩わしい。円、と名前を呼ぶ度海水が口の中に入る。

「にい、円ッ、にいちゃッ!」

 全く縮まない距離。焦燥感に駆られ腕を伸ばす。伸ばした手は、遠くの兄に掠りもしない。グンと後ろの方に体を引き寄せられる。

「由。ここで待っててくれるかい?」

 父だった。
 彼は俺の返事を待つのも惜しいといった様子で兄の方に泳いでいく。父は兄の元まで近づくと、ガクンと足を取られたように体勢を崩した。ハッと目を見開き、父は兄をこちらに放り投げる。兄はげほげほと咳き込みながら泣いていた。泣く兄を抱きしめ、父を見やる。父の体は波に身に浚われ沈みかけていた。

「由ッ! 円と母さんを頼んだ! それからッ!」

 言葉はそれきり続くことなく水に沈んだ。





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