あの夏の日を忘れない
8
 青は顔を顰めスマホを耳から遠ざける。

『聞いてるのか! オラ久志ィ!』

 青に誰かと目で問うと父親だと口パクの答えが返ってくる。まさか無断で家を出てきたのか。鬱陶しそうにスマホを摘まんでいる青の肩をちょいちょいとつつく。右手を黙って差し出すとニヤリと笑い握られる。違う、そうじゃない。

 手を軽く振り払うと青は大人しくスマホを俺の手に乗せる。青が振り払われた手をじっと見つめているのを尻目にスマホに耳を当てる。

「もしもし」
『……君は……?』

 荒げていた声を落とし青の父親は俺に問い返す。

「椎名由です。先日はお世話になりました」

 礼を言うとあぁと唸り声。

『手の具合は大丈夫かね』
「はい、お陰さまで。息子さんにもご心配をお掛けしたようで申し訳ないです」
『いや。やはり愚息はそちらの方へ行ってるのか……』

 呻くような独白に思わず額に手を当てる。案の定何も言わずに出てきたようである。じっとりと青を見つめると、青も俺をジト目で見返してくる。何でお前がそんな目で見てるんだよ。

 オイオイと思いつつ電話向こうに言葉を返す。

「先ほどお話を小耳に挟んだのですが、久志くんは火急の用があるのでしょうか」
『ああ。ブルームーンホテルで会合があってあいつと一緒に出席する予定だったんだが……』

 なるほどそれをすっぽかしている訳だ。

「何時からですか」

 ビードロの入り口付近に控えている修二に目配せをする。修二は上着からスマホを取り出し操作しはじめる。

『……四時からだ』

 あと二十分か。何とかなるな。

「分かりました。ご安心ください、息子さんは必ず会合に間に合わせます」
『……何を』
「ただ送り届けるだけですよ」

 プツリと電話を一方的に終え、スマホを青に突き返す。

「いくぞ青」
「ハァッ!? ちょ、待てよ!」

 青の左手を掴み引っ張る。青の注文した分の代金を支払い、会釈して店を出る。青はわたわたと慌てふためきながら手荷物を引っ掴み、大人しく付いてくる。

「……青、お前スーツくらい着とけよ」
「無茶言うな。昨日赤の負傷を聞いた時からビードロに張りこんでたんだぞ」

 お前本当に何してんだよ。

「修二。スーツの予備トランクにあったよな?」
「あるよ。でも由のサイズじゃこのバカには入らないと思うけど」

 バカって。
 若干引きつつも確かにそうだと認める。俺の身長は178センチ。青とは目測で十センチほどの差があった。

「サイズが合わねぇのは問題だな」

 なぜか得意げな顔でこちらを見てくる青に少しイラつく。膝裏に軽く蹴りを入れると青は前につんのめった。

「まぁスーツのことならさっき話通しておいたから多分兄貴が何とかしてくれるよ。ここら辺ならスーツ店もあったはずだし何とかなってるはず」

 修二は車の方へ俺たちを誘導する。連れていかれた先には一秀の乗っている車があった。一秀は車のウィンドウを開け俺たちに向かって叫ぶ。

「乗れッ! ブルームーンホテルまでは遠い! 飛ばすぞッ!」

 青を車の中に押し込み扉を閉める。青はウィンドウを開け俺の服の襟ぐりを掴み引き寄せた。青の顔が不意に近づく。くらりと視界が傾き足元がふらつく。青の鼻先が俺の鼻にひたりと付く。青の髪が俺の耳をふわりと撫でる。

「──やっぱり、熱出てるだろ」
「……はっ、」

 数センチ。たったそれだけの距離。青の瞳が俺を映すのをただぼんやりと見つめる。まつ毛がうっそりとその熱を縁取っていた。

「……出てねぇよ」

 青の胸を押し返す。青は修二に目をやった。修二はそれに従い俺の額に手を当てる。

「熱出てるじゃん……」

 言ってよ、と修二は歯噛みする。言ってよも何も気づかなかったものは仕方ないだろう。罪悪感に目を逸らす。

「一秀、もう行けッ! 間に合わなくなる!」

 クイと顎をしゃくると一秀は苦笑いをする。

「はいよ。おら、お前はこれに着替えな」

 一秀は青にスーツを投げやり、ハンドルを構える。エンジンの唸る音が聞こえた。

「スーツ何とかなったのか」
「兄貴だからね」

 独り言に修二が反応する。何だかんだ一秀の有能さに信を置いている様子に目元を緩める。修二は俺の視線の意味に気づいたのか居心地悪そうに身じろぎした。

「じゃ、行くわ。気を付けて帰れよ」

 一秀はエンジンを唸らせ走り去る。あのスピードであればなんとか会合までにはホテルに着くだろう。

「俺たちも帰るか」
「由。熱出てるのに歩いて帰るのは許容できない。タクシー呼ぼう」
「……もうちょっと外にいたいんだ。ダメか?」

 手を合わせ頼むと修二が眉根を寄せる。

「……そういう言い方は、ずるいと思う」

 俺が無理だって思ったらタクシー呼ぶからね。

「……ありがとう」

 にこりと笑うと修二の顔はますます困ったような表情になった。本当は今すぐにでもタクシーに詰めこみたいといった様子の修二に体を凭れさせる。少し頼った方が修二も安心できるだろう。修二は若干体を強張らせるも、すぐに力を抜いた。

「……全く由は仕方ないんだから」

 呆れたような口調を装いつつも修二は頬を緩める。眉は相変わらず困ったように寄せられていた。修二の肩を借りつつ家へと帰る。近道をしようと路地に差し掛かると、目の前に複数人の影が落とされた。構わず歩いても影は一向に動く気配を見せない。不審に思い白む視界を持ち上げる。ざり、と金属の地面を引っ掻く音が聞こえた。

「おやおや赤狼。ご無沙汰だなァ」
「怪我でもしてんのかァ?」

 下卑た笑い声が狭い路地に反響する。

「……修二」
「うん、任せて」
「いや。足ならいいんだよな?」
「は!? え、ちょっと!」

 止めようとする声を振り切り、不良の横っ面を蹴り飛ばす。蹴った拍子に唇が捲り上がり歯茎が覗いた。うわぁ、痛そう。

 靴の爪先に付いた血をじゃりじゃりと地面に擦りつけ落とす。

「畠さんに手を使わないようにって言われてるからな」

 にぃと口の端を釣り上げる。修二のため息がやけに大きく聞こえた。





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