あの夏の日を忘れない
7
 手を握られる感触に揺蕩う意識が浮上する。寝起きでぼやけた視界には人影が映る。

「おはよ、由。よく寝れた?」

 キラキラと爽やかな笑みを口の端に浮かべながら問うその人物に苦笑いする。

「……おはよう、修二」

 返事をすると修二は俺の背に手を回し体を起こしてくる。

「寝足りないだろうけど昼ごはんの時間だから起こしにきたよ。食事をここに運ぶから待ってて」

 にこやかに告げる修二に曖昧に頷く。寝ぼけた頭では彼の言葉の内容に理解が及ばなかった。ぼんやりとベッドの上に座っていると一秀と修二が肘で押しあいながら部屋に入ってくる。

「由の世話は俺がやるってお前の生まれる前から決まってんだよオラどけや」
「はぁ〜〜?? 俺だって畠の息子なんだからそれくらい生まれる前に決まってましたけど〜? 当たり前のことでマウント取ろうとするなんて頭の悪さが全面に出てるよね、ぷぷぷ〜」
「んだとッ? もっぺん言ってみろやこの愚弟が」
「何回だって言ってやるよバカ兄貴」

 睨みあいながらも危なげない手つきで配膳をこなす二人。感心するやら呆れるやらだ。

「喧嘩してんじゃねーよ……」

 顔を合わすたびに喧嘩が勃発する二人だからこちらも慣れたものだが、寝起きの時くらい静かにしてほしい。音が頭に響く。

「ごめんね由。このバカが」
「悪いな由、このクソが」
「やめろっつってんだろ……」

 こめかみに青筋を浮かべながら俺に笑いかける二人にため息を吐く。この仲の悪さ、どうにかならないものか。そうこうしている間に二人はしれっと仕事モードに切り替える。

「由、今日のメニュー梅と白身魚のお茶漬けだよ。寝不足で胃の消化力も落ちてるだろうからあっさりとしたものにしました! 大根おろしと刻みのり、ゴマとシソの葉も用意してあるから好みに合わせてトッピングしてね」
「飲み物は温かいほうじ茶を用意してある。コーヒーを飲みたいかもしれないが弱った胃には刺激が強い。我慢してくれ」

 盆に乗せられた小ぶりのどんぶりからは湯気が立っていた。昆布だしの豊かな香りが鼻孔を擽る。さほど空いていなかったお腹も匂いに誘われたのかくぅと小さく呻いた。

 差し出された匙を握る。いただきますと呟くと、二人はにこやかに「どうぞ」と返事を返した。

 ふぅふぅと湯気を冷まし、口に含む。さっぱりとした味わいが広がる。梅の酸味が爽やかに口内を巡った。ゴマをパラパラとどんぶりに落とし一口食べる。香ばしい匂いが鼻に抜ける。先ほどよりもやや深い味わいになった気がする。

 はふはふと熱さを逃がしながら頬張る俺に二人はほほえましそうな目を向ける。気が付けば腹の底はじんわりと温かくなっていた。薬味のお陰か胃がむかむかするような感覚もない。

「由。水を用意したからこの胃薬を飲んでおけ。胸焼けもこれで防げる」
「分かった」

 手渡された薬を嚥下する。その間に二人は俺の空けた膳を片付ける。食後の茶で一息つくと、修二が今日の予定について話し出す。

「本日は病院で手の怪我の経過について診ていただきます。その後テーマパークのグッズ展開の資料を用意してありますのでそちらについて案をいただけたらと」
「分かった。服を用意してくれないか。身支度を整える」
「今日は病院に行くだけだしそんな気張った格好じゃなくてもいいだろ。できるだけ軽装を用意しろ。由は体力が落ちてるから締め付けの少ないものだ」
「あいあいさー」

 立場上は上司にあたる一秀の言葉に大人しく従うのが嫌なのか、修二は気の抜けた返事をする。一秀は不快そうに眉をぴくりと動かしたが結局のところ彼の腕を信用しているのだろう、何も文句は言わなかった。





 破傷風の心配はないと医者のお墨付きをもらい病院を後にする。車の運転は一秀、助手席には修二だ。

「ねぇ由。Coloredには寄らなくていいの?」
「……なんで」

 どこかぼんやりと返事を返す。まだ寝起きの状態から覚醒していないのか、頭の中は靄がかったようにぼやけていた。

「気休めになればと思ってね」

 ウインクをしながら告げられた修二の提案に一秀は何の反応も示さない。ミラー越しにじっと見つめると、おどけたように右の眉を持ち上げ微笑んだ。

「……テーマパークのグッズについてまとめなきゃいけねぇだろうが……」
「あんなもん別に急ぎでもないし今日やらなくても大丈夫だよ。連休中に終わらなかったら由の寮用のパソコンに転送しちゃえば済む話だし」

 でも、と言い募ると修二はそれを遮るようにして言葉を続けた。

「それに。今は由のメンタルケアの方が大事だよ。ちょっとくらい息抜きがいると俺は思うな」

 ねっ? と首を傾げながら言う修二に苦笑する。勢いに押し負け、「少しだけなら」とビードロに寄ることにした。表通りに車を止めてもらい、修二と二人で裏路地に入りこむ。一秀は車の中でお留守番だ。

 修二がビードロの扉を開ける。店内は明るい光が差しており、夜の派手派手しい印象とは似ても似つかない。パタパタと足音が駆け寄る。

「いらっしゃ……! あらっ、よく来たわね」
「こんにちは、渋川さん」

 返事を返すと奥の方の席からガタリと椅子の跳ねる音がする。その後どどどと床板のきしむ音が続く。音の正体は次第にこちらに近づいてきた。

「赤ッ!!!!」

 飛びかからんばかりにこちらに駆け寄る青の姿を認め、その勢いに思わず半歩下がる。反射的に腕を広げ青を抱きとめるとがっちり背中に腕を回しホールドされた。

「……え、青……?」
「赤っ、大丈夫か!? 手は!? 怪我は!?」

 戸惑う俺にお構いなしで青は俺の手を検分する。

「貫通したって聞いた!!」
「あー……青の親父さんから?」

 夏目の系列の病院を朝の時間帯に開けてもらったことが青の耳まで届いたのだろう。俺が下手に椎名の息子であったのが原因か。もっとも、そんな話が回っているのは夏目の系列のごく一部に限られているだろうが。

「大丈夫、大したことねぇから。ところで青は何でここに?」
「赤が心配で昨日からここに顔出してんだよ!! あ〜よかった思ってたよりも平気そうだった……心配かけさせんな……」

 青は脱力したのか俺に寄りかかるようにして抱き着いてくる。こちらとしても心配をかけた引け目があるのでされるがままだ。

「悪かった……」
「赤が謝ってどうすんだよ……何にも悪くないだろ」

 青は顔を俯け俺の方に押し当てる。震える青の背を困惑しながら撫でる。

「……泣くなよ」
「泣いてない」
「泣いてるだろ」

 認めようとしない青に天井を仰ぐ。どうしたらよいか分からなかった。頭の傾ぐのにつられ、視界が眩む。足元がふらりと揺らいだ。

「お……っと」

 尚も顔をぎゅうぎゅうと押し付ける青を抱き直す。

「青」
「……なんだ」
「俺のために泣いてくれてありがとな」

 俺の言葉に青は顔を上げる。目は不機嫌そうに釣り上がっていた。

「……だから泣いてないって。ちょっと胸が詰まって泣きそうにはなったけど」

 そう言う青の目に確かに涙は映っていなくて。俺は苦笑しその頭を撫でる。

「……今日はシール持ってないからさ」

 青はそう言い跪く。そして俺の左手をそっと壊れ物のように手に取り、口を寄せた。たっぷり五秒間、青は包帯に口づけをすると重々しく頭を下げた。

「俺が守るから。だから、」

 不意に向けられた視線は熱いものを孕んでいて。ああまるで騎士の誓いだと、ぼんやりとした思考の中で仄かにそう思う。

 言葉は最後まで続かなかった。鳴り響く着信音に青はあわあわと立ち上がりスマホを取り出す。

「はっ、はいもしもし!」
『バカたれが! 己の責務も果たさずホイホイ出歩くな!』

 青のスマホから男性のがなる声が聞こえた。





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