あの夏の日を忘れない
6
 カタカタとキーボードを叩く。左手を碌に使えないから右手だけの片手入力だ。机の脇に置いた資料には建設予定地に関する情報、提携を希望している企業の業績と経営状況が書かれている。ファイルに整理されているそれのページをパラパラと捲り、再びキーボードに向き直る。

 椎名グループのテーマパーク。去年あたりから話が出始めた計画で、現在はまだ構想段階にある。様々な用事を一気に済ませられる空間を念頭に置いており、遊園地スペースとショッピングモールなどが一体となった施設になる予定だ。立地にあたり広大な土地が必要になるため、今はその場所選びをしている最中だ。今後も様々な店舗を展開することを考えると、恐らく臨海部を埋め立てることで土地を確保することになるのではないかと思う。モノレールなどで交通アクセスを確保する必要も出てくることだろう。まだまだ決めなくてはいけない案件が山積みだ。

 候補地の利点欠点を資料の形でまとめ上げ、保存する。手元に置いてある目薬を点し、新しいファイルを開く。次は提携企業の研究だ。施設に入る予定の店舗をパラパラと一通り眺め手を止める。医療機関がない。最も有力な候補地は埋め立て地だ。そこにアクセスしやすいようにモノレールなどを作ったとしても街に戻るには労力を要する。外部から孤立した立地というほど不便な地ではないにしても、その場で出た急患に対して処置を施せる機関があった方がいいだろう。緊急ヘリの着陸スペースの確保は当たり前として、医療系の企業に出店を要請しなくてはなるまい。

 そうなると手堅いのはやはり夏目か。あそこは医療系を手広く扱っているからスペースと設備さえこちらで用意しておけば出店はしてくれるだろう。何より夏目がテーマパークというおいしい話に乗らないはずがない。話を持ち掛ければ十中八九食いつく。

 サイドテーブルのマグカップに手を伸ばし口元に運ぶ。違和感にカップの中を確認する。空だ。知らぬ間に飲み干していたらしい。一秀が作ってくれたプリンのカップもすっかり空だった。仕事をしながら無意識につついていたのか。

 時計を見やると時刻は九時を回っていた。外は日が落ちている。室内の明かりが灯されていることに気づく。畠さんか一秀あたりが気を遣って電気を付けてくれたのだろう。後で礼を言わねばなるまい。

 カップを二つ持ち部屋を出る。プリンのカップをスポンジで洗い食洗器に立て掛ける。マグカップにコーヒーを注ぎ足し、部屋へと戻る。自室に差し掛かろうという時、扉のパタンと閉まる音が聞こえた。風で扉が閉まった音かと思いつつ、廊下の角を曲がる。

 ──そこには母の姿があった。出てきたのは、俺の部屋だ。

 そのことに気づいた瞬間、嫌な予感が頭を駆け巡る。先ほどまとめた企業研究。俺はあれを保存したか。慌てて部屋に駆け込み、パソコンを開く。マウスをいくら動かしてもカーソルは現れない。それどころか画面は黒いままだ。コンセントを見やるとケーブルはしっかり挿し込まれている。パソコンの電源を落とされたのかと本体に触れ、ようやく気づく。

 パソコンからは水が滴っていた。

 何か拭くものをと辺りに目を彷徨わせるも何も見つからない。慌てて服を脱ぎパソコンに押し当てる。水を拭い去り電源ボタンに指を押しあてる。ががが、ブツッという音を立て、パソコンは煙を上げた。

「あー…、やり直しだ……」

 脱力しへたり込む。
 足に何かが当たる。母のマグカップだ。確か父と新婚旅行をした時に買ったとかいう品だ。気に入っているようだったからよく覚えている。拾い上げサイドテーブルの上に乗せる。

 ため息を落とし予備のノートパソコンを取り出す。先ほどまで使っていたパソコンのデータはこの予備のパソコンとUSBに送ってある。ただ今日作業した分は例外だ。作業をすべて終えてからと思っていたのでデータの転送は一切行っていない。

 一秀にLINEで夕飯は部屋でとる旨を送る。今部屋を出るのは二の舞になりかねないからできるだけ避けたかった。

 先程の資料は作成に八時間強掛かった。一回やった作業だ。疲労でいくらか作業速度が落ちるとしても、今から取り掛かったら四時ごろには片付くだろう。

 カタカタと無心でキーボードを叩く。痛み止めの効果が切れたのか左手が痛み始めた。薬を飲むのも煩わしく、痛む手を無視し入力を続ける。

 不意に訪れた肩を揺すられる感覚に意識が覚醒する。

「……っ、はっ、な、なんだ」
「なんだじゃねーよ。何が起こったか知らねぇが取り敢えず飯食って薬飲め」

 目の前に一秀の姿があることに戸惑う。そういえば夕飯を持ってきてもらうよう頼んだのだったか。

「あー……、おう……。一秀」
「なんだ」
「このパソコンと同じモデル購入しておいて」

 お釈迦になったパソコンを指さし頼む。一秀は潰れたパソコンを見て大体の事情を察したのか、何を聞くでもなく了承した。

 俺が夕食を食べ終わるのを見届けると、一秀は「無理はするなよ」と部屋を出ていく。一秀には悪いが無理をしない訳にはいかないのだ。ただでさえやることが山積みなのに手を壊して作業も碌に進まない。休暇中に仕事はできるだけ片付けておきたかった。

 結局、仕事が終わると予想していた朝の四時を大幅に上回り、データをUSBに転送し終えたのは朝の七時。左手を使えないのが思っていたよりも痛手だった。

 冴えてきた目を無理やり閉じ、机に突っ伏す。眠気はあっさり訪れた。夢か現か判断がつかないほどの浅い浅い眠りの中で兄の名前が呼ばれるのを知覚する。

「──円が──ったの──なさいよっ!」

 ガチャリ、扉を開けられ目を覚ます。時計を見るとまだ三十分も経っていなかった。ドアを開けた一秀は困ったような顔でおはようと俺に声を掛ける。

「……おはよう。何かあったか」
「奥様がマグカップがないと仰ってな……」
「ああ、なるほど。大方俺が盗んだと騒いでるんだろ」
「……まぁな」

 苦々しそうに一秀は俺の予想を肯定する。母の言うマグカップとは恐らく昨日俺の部屋に持ち込んだあれのことだろう。確かサイドテーブルの上に乗せておいたはずだ。

「……これのことだろ。渡しに行ってくる」
「やめとけ。碌な目に遭わないぞ」
「だろうなぁ……」

 まったく嫌な目覚めだ。
 重い腰を上げ部屋を出ようとすると、一秀に押しとどめられる。

「顔色が悪い。言うこと聞かずに無理しただろ。ここは俺に任せて大人しく寝とけ。嫌なことが起こると分かっててわざとそこに飛び込むこたァねぇ」
「……でも、」
「でもじゃねぇ。従え怪我人」

 ピン、とされたデコピンに足元がふらつく。一秀は焦った顔をし俺の体を支える。

「ほら見ろ、大人しくしとけ。な?」

 言い聞かせるような口調に形勢が悪いことを悟り押し黙る。一秀は俺を抱きあげベッドに寝かせた。

「いい子だから、寝とけ。……よく頑張ったな」

 頭を撫でられると、思いだしたかのようにふわふわと眠気が訪れる。額に落ちた柔らかな感触に俺は意識を手放した。





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