あの夏の日を忘れない
38
 ノックの音がした。青が入室を促すと、扉が開いた。

「やぁ、椎名。調子はどう?」
「……飯。渡しにきた」

 両手に食事の乗ったトレイを持った牧田と二村が顔を出す。二村の頬には大きな湿布が貼られていた。言葉少なな説明によると、片岡さんが二人に俺たちの夕食を持たせてくれたらしい。自分達も一緒に食べたいからと四人分持たせて貰ったのだという。

「ま、見にきてよかったよ。随分顔色もマシになってる。ね、菖ちゃん」
「あぁ。……よかった」

 二村は口元を緩めた後、僅かに目元を引きつらせる。

「二村……、その、ごめん。殴って」
「あ゙? あぁ。別に大したことじゃねぇ。これくらいよくあることだ」
「そうそ。ま、気にすんなってことだよ」

 じゃれるように二村の腫れた頬を指先でつつく牧田。おい、と二村が声を荒げる。でも、と言葉を重ねる俺に、牧田はじゃあさ、と頬を掬う。そのまま二村の方に顔を寄せられ、体のバランスを崩す。うわ、と二村が俺の体を支える。自覚がなかったが、まだ本調子ではないらしい。二村にぐったりとよりかかってしまう。

「おい牧田っ!」
「ごめ、離れ」
「っ、たく」

 慌てて離れようとすると、くらりと体勢が崩れる。おぼつかない動作に、二村は俺を引き寄せた。体温が温かに鼓動する。

「牧田てめ、何してぇんだよ」
「いや、怪我したとこにキスでもしてもらったら早く治るんじゃないかにゃ〜って思ってねぃ」
「キッ、あほか! ほん、あほか! クソがっ」

 牧田の言葉に二村はキャンキャンと吠える。荒っぽく牧田に怒鳴る二村は、しっかりと俺の体を支えていて。言葉の割に丁寧に扱う二村が優しくて、俺はそっと頬に手を伸ばした。湿布の上から触れると、イライラとしたふうに罵倒を重ねていた二村はぴたりと動きを止める。

「……痛むか」
「っ、いや」

 息を詰めたような返事にくすりと笑う。湿布を一撫ですると、二村の喉がこくりと上下した。

「痛いの痛いの、飛んでいけ」

 ぱ、と手を飛ばし、体を離す。二村は暫く黙った後、低く唸った。
 
「……は?」
「えっ、あ、……キスが、よかっ、た?」

 聞きながら、語尾が頼りなく震える。嫌だろうと思ってやらなかったんだが、流れからしてやった方がよかったんだろうか。

「ばッ、ばばば、んなこと、」

 おろ、と視線を彷徨わせた二村は、目元を押さえ軽く俯く。牧田と青は愉快そうに笑っている。二村がせっかく体を張ってウケを取ろうとしたのに、俺が台無しにしてしまった、ということか。実際男同士のキスはネタにされることもあるみたいだし、皆分かっててそういうフリをしたのだろう。遅ればせながら理解の追いついた俺は、躊躇を押し殺し二村の頬に口づける。

 ちゅ、と小さなリップ音と共に二村から距離を取る。

「……色々、悪かった」

 ぴしりと固まった二村は、目元を覆っていた手をぎゅうと顔に押しつける。

「なんの準備もできてねぇ時に来んなよ……」

 フリとタイミング的な問題でしょうか、とは聞けないが多分そういうことだ。ごめん、と謝ると二村は分かってねぇ、と疲れたように溜息を吐いた。ここまでお笑いにこだわりが強いようなら、真壁とコンビでも組んだらどうだろうか。馬鹿な思いつきを頭に浮かべながら、先に食べはじめていた二人に続き手を付ける。
 もぐもぐと咀嚼していた青は、食べはじめた俺に向かって自身の頬を指す。

「赤。あれ、俺にもしてって言ったらしてくれるの?」
「あれ?」
「頬にキス」

 ご飯を口に含み、飲み込む。何の気なしに問われた質問に、勿論と答えかけ、言葉を飲み込む。

 俺が、青に、キス……?

 『目開けないと瞼にキスします』

 『いいの、赤。このまま俺のこと放っておいて?』

 『目、開けて』


 ――生クリーム、固すぎたな。

「……ッ」
「赤?」

 黙り込んだ俺に、青が声をかける。不意に肩に触れた指にびくりと身を縮めると、戸惑ったような声が返ってくる。

「………非常に、厳しいのではないかと、存じます」

 思い出された情景に動揺する。体に走った緊張を隠そうと返事を紡ぐと、妙に敬語に飾られた口上が飛び出した。不平や笑いの飛び交う中、俺はただひたすらに動揺を押し隠す。チラリと青の様子を窺うと、色んな感情がない交ぜになった表情を返される。それでも唇はゆるりと弧を描いていて。
 心臓が、不思議な挙動をする。

 おい。おいおいおいおい。嘘だろ、何だこれ。
 どうしよう。初めての事態に困惑する。恐怖とも、嫌悪とも違う何かが脳を痺れさせてやまない。

「なんだ、これ」

 ――青の顔が、見られない。
 





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