あの夏の日を忘れない
37
 ぽたり。
 膝に滴が落ち、我に返る。タオルで髪を拭われる感触に、思考が霞がかっていた間の出来事を思い出す。気怠い首をもたげ、視線を上げると気遣わしげに顔を強張らせた青と目が合う。

 ああそうだ。俺が思考停止している間、青は俺を風呂に入れてくれて。それから別荘の自室に連れてきてくれたんだった。他の面々はどうしたのかな、と思うも今この場にいるのは俺と青の二人だけだ。

「……風呂入れてくれたんだな。気付かなかった」

 ありがとう、と呟くと、短い返事が返ってくる。表情と同じく少し硬いその声に、内心のほの暗さを隠すようにへらりと笑う。

「なんて顔だよ」
「……赤に言われたくないな」

 予想外の返しに虚を突かれる。俺はそんなに酷い顔をしているだろうか。誤魔化す言葉も見つからず、出来損ないの笑みを浮かべる。ゆるりと表情を緩める俺に、青は再びその目を険しくした。

 まるで怒っているかのような。学園での『風紀委員長』にも似た表情だが、それ以外の青と長く時を同じくした俺には分かる。青は、心配なのだ。寄せられた眉根に指を置き、皺を解きほぐす。皺を緩められ、青はへにゃりと困ったような表情をする。解された手前皺を寄せることもできず、どこか困惑顔だ。

「青」
「ん?」

 乾かされた頭をごろりと青の膝に乗せる。寝返りをうち青の腹に顔を押しつけると、鼻腔に青の匂いが通った。

「例えば、」

 ――生きる意味が無くなった時、青ならどうする?

 口をつきかけた言葉の意味に遅れて気付く。これじゃあ俺が死にたがってるみたいだ。思い、ハッとする。そもそも俺は生きたいと思っているのだろうか。生きなければ、とは思っていた。しかしそれは自分自身がそうしたいからというよりはただの義務感で。田辺が円を守ってくれるのであれば、その義務を果たす必要も、もはやないのではないだろうか。

「赤?」

 不意に黙り込んだ俺に、青が問う。途端、低迷しかけた思考に気付き、修正する。
 ……馬鹿なことを。まだ俺には母さんがいる。母さんを幸せにしないと。円は、きっともう俺がいなくても大丈夫だ。でも母さんはそうじゃない。

 まるで俺のお陰で円が大丈夫になったみたいな考え方だ。傲慢さに自嘲する。
 再会した時から薄々気付いていた。……本当は多分、俺なんて初めからいなくても円は大丈夫だったんだ。今までずっと一緒にいた訳でもない。ほんの半年前に、再会した血縁者。それが俺だ。これまでだって、円はちゃんとやってこれた。俺よりずっと強く、幸せになっていて、それで、

 ふわり。頭を撫でられる。
 思い詰めた心が、ゆっくりと和らいでいく。言いかけたくせに口を噤んだ俺を咎めることもなく、青はさらりと髪を弄ぶ。大丈夫だと言われている気がした。

「赤。俺の昔話を、聞いてくれる?」
「……青、の?」
「そう。俺が青になる前。ただの、夏目久志だった頃の話を」

 唐突な言葉だった。それでも、包み込むような声音だったから。端から俺は青のお願いに滅法弱い。大人しくこくりと頷く俺に、青の口が薄く弧を描く。

「昔の俺はさ、赤。ずっとずっと。多分物心ついた時からずっと退屈だったんだ。生きている意味が分からなくて、全部が馬鹿みたいだって思ってた」

 今となってはお笑い種だけど、と頭上の青の苦笑いをする気配に、嘘だろうという気持ちが沸き起こる。俺の知っている青はずっと太陽みたいに笑んでいて、そんな影など感じさせない存在だった。

「冗談みたいだけど、本当の話なんだ。赤と出会う、あの中一の冬の日まで、ずっとそうやって不貞腐れてた」
「あお、が?」
「信じられない?」

 こくりと頷く俺の頭を、青はまた優しく撫でる。子供扱いみたいで恥ずかしいけど、この感触を、俺はどうやら嫌っていないらしかった。

 ……もうちょっとだけ、撫でてほしいな。

 止みかけた手にそう思うと、俺の願いが通じたのか手はそのまま俺を撫でつづける。気恥ずかしいけど、やっぱりその手は気持ちが良かった。

「っ、んん。あの頃の俺はさ、何でもできたんだ。勉強も、習い事も、人付き合いも、……喧嘩も」

 少し咳き込んでから話を再開した青の言葉は、苦々しさを含んでいた。寝返りをうち、真上を見上げると、こちらに視線を移した青と目が合った。垂れた眉尻にかける言葉を迷うと、青はころりと笑う。

「赤。あの夜が、俺の初めての挫折だったんだ」
「……ざせつ」
「そう、挫折。だからさ」

 ――俺が誰かに助けを求めたのも、あの日が初めてだったんだ。

 一瞬、全ての音が消えた気がした。
 そんな俺に気付いているのか否か、青は言葉を重ね続ける。俺はそれを、ただ黙って聞いていた。
 
 本当に、俺はつまらない人間だった。何でもできてしまう、そんな自分が息苦しくて。生きにくくて。だってそうだろう。何でもできるんだ。当たり前みたいに、緊張も、高揚も、達成感すらなく。それって、何もできないことと何が違うんだ?

 ……できないことに、どうしようもない壁にぶち当たればいい。破滅思考にも似た考えで、夜の街に繰り出した。学園を抜け出して見た景色は、思っていたよりネオンで明るくて、自由だった。違う自分に、なれた気がした。

 馬鹿みたいな、話だけど。
 青は浅く笑って、呼吸を整える。気まずそうに青は口を歪めたけど、俺は分かるな、と思った。夜の独特の冷たい空気感。底のない暗闇に、あの日俺は確かに自由を感じたのだから。

「適当な偽名を騙っている内に、友人もできた。道に迷ったと楽しそうに騒ぐモヒカンとチビに最初ははた迷惑だと思ったんだ」

 緑と桃が聞いたら抗議しそうな内容を、青は言う。苦笑する青も同じ事を考えたのか、どこか気まずそうだ。それでも、と続く言葉に俺は耳を傾ける。
 
 繰り出すたびに遭遇する二人と、距離は否応なしに近づいた。学園とは違う自由な場所で得た友人。気の向いた時に抜け出して、共に遊びに興じる。
 騒がしい雑踏を駆け抜けて、まるで自分たちが世界の頂点にでも立っているかのような、そんなちっぽけな全能感に浸っていた。……煩わしいことは、喧嘩であっさりと手に入った。力が、この小さな王国の物差しだった。

 青は、息を詰めて黙り込んだ。いつの間にか硬く瞑られている瞳は、魘されてるかのように苦しげだった。そっと頬を撫でると、茶色の瞳がうっすらと覗く。青は小さく笑み、息を吐いた。

「……仲間だって、そう思えたんだ。ずっと、壁にぶち当たりたかった。つまらない気持ちを捨て去りたかった。そう願って街に繰り出した筈だったのに、おかしいよな。俺は、確かに欲しかったものが手に入った筈だったのに、倒れたあいつらを見て、違うって。そうじゃないって、思ったんだ」

 眉根を寄せ、続けられた言葉は小さかった。

「……気付かなかったんだ」

 本当は、あいつらを仲間だって、そうやって受け入れた瞬間から俺は退屈を感じなくなってたのに。気付かないまま、力を無闇に示して――――あの日を迎えた。

「馬鹿みたいに呆気なかった。二人がやられて、俺もやられて。大切なものはこんなにあっさりなくなるんだって知った。大切なものなんだって分かった瞬間、もうすぐ壊されるそれが惜しくて、辛くて、怖くなった」
「……、」
「やろうと思ったことはなんでもできた。それなのに、初めて心から願った祈りをかなえる術を、俺は持ってなかった」
「……うん」
「なぁ、赤」
「……、ん?」
「初めて助けを求めた俺に、応えてくれたのがお前だったんだよ」

 ただ、円と重なったから。
 
 目が合ってしまったから。

 声を聞いてしまったから。

 体が勝手に動いたから。それだけだったのに。

「赤。俺はお前がただの椎名由だった時からずっと、一番大切に思ってるよ」
「……俺も、お前が大切だよ。青」
「はは。じゃあ、両想いだ」

 どこか困ったように笑う青の手をぎゅうと握る。きっと青がこの話をしてくれたのは俺のためだから。

「青。ありがとう」
「……俺が礼を言う流れだと思うんだけどなぁ」

 青の掌が、俺の目元を覆い隠す。俺を膝に乗せている青の姿勢がつと変わり、掌越しに通る光が絞られる。何か色っぽい音の後、影は目隠しから遠ざかる。でもまぁ、と青のいたずらっぽい声が聞こえた。

「どういたしまして」

 目元から青の手が取り払われる。部屋の明るさに、目がくらんだ。
  





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