114、最高速度


「…ナミ、どうしたの? 大丈夫?」
「空気が変わった…」
「え、空気?」

全く異変を感じ取れないアリエラとゾロは、航海士の言葉を受けてお互い顔を見合わせてから空を見上げる。肌を撫でる風も、空気も空も何にも気になるところが見当たらない。

「ずっと晴天だぞ?」
「いいからみんなを呼んで!」
「おい、てめェら仕事だ!」

頭を押さえながら、五感で気候を読み取るナミをアリエラが支え、ゾロが女子部屋にまで届く声量でクルーを呼ぶと彼ら三人すぐに甲板に駆けつけてきた。

「な?」
「なんだどうした?」
「てめェの号令じゃやる気でねェな」
「黙って受けろ!」

きょとんと首を傾げるルフィとウソップの隣でサンジはタレ目を尖らせてゾロに悪態をつく。ちらりと横に流してみると、アリエラに支えられるナミの意識ある姿にほっとする。先程のアリエラの声が女子部屋まで届いていてサンジも「よく言ったぜ、アリエラちゃん! 素敵だあ」と口角を上げたのだが…状況はどう動いたのだろうか。先程よりも苦しそうで早くベッドに寝かせてあげたい気持ちに駆られた。

「シートに着いて風を受けて!」
「はあい、ナミさん!」
「何事だ? ナミ」
「嵐が来るのよ! 真正面から大きな風が来てる、気圧も変わったしかなり巨大な嵐よ! アリエラ、三角帆お願い」
「うん!」

大丈夫だから、とアリエラに指示を送ると彼女は大きく頷いて船尾甲板へと走っていく。このまま帆で風を受けて、この重苦しい気圧の海域を抜けられればなんとか免れる…頭であらゆる計算を組み立てて左舷を確認しようと振り返ると、ルフィが突っ立ってこちらを見ていて小さな悲鳴をあげた。

「ちょっと何!?」
「ん……」

振り返った瞬間、ルフィは持ち前の反射神経でナミのおでこに手を置いて体温を計ったが──

「うぎゃああ!! あっちい! やっぱ熱ィぞ、お前!」
「余計なことしないで! これが私の平熱なのよ。バカ言ってないで早くロープ引いて!」
「…ナミさん、ビビちゃんのためってのは分かるがあんまり無茶すると…」
「平気だって言ってんでしょ!」

心配そうに眉を下げるルフィとサンジに大声を出したから、頭がくらりと揺らいで目を回してしまった。欄干に手をつけていたから倒れないで済んだけれど…ビビのことを思うと絶対に倒れるわけにはいかないのだ。そんなナミの姿を見て、アリエラは唇を尖らせて三角帆の調整を行う。

「(一体なんだろう…? 東の海で起こるような嵐とは違う…もっと大きな…、)」

今、メリー号が揺蕩っているこの海域に5分後、巨大な何かが起こる。ナミは熱に浮かされくらりとする脳を回し、あらゆる想像を組み立ててこの船を5キロほど離す計算を出した。みんなは航海士の指示のもと、ロープを引っ張ったり風を受けるために帆を強く張ったり、三角帆の調整を行う。この船は帆船だから、ふわりと生まれた大きな風に押されると忽ち足を速めて、メリー号はするりと5キロ先への海面に船底をつけることができた。このくらい離れていれば被害は及ばないだろう。ナミがホッとして、クルーが甲板に戻ってきたいいタイミングで、ビビが倉庫から姿を見せた。

「あら、ビビちゃん」

ゆっくり階段を登ってくるビビに少し目を見開かせてアリエラは船尾甲板からひょっこり顔を出した。ナミが心配だからアリエラが彼女のそばに着くと、ビビはラウンジの前に立ってメイン甲板にいる男性陣を見下ろす。

「みんなにお願いがあるの…」

ぎゅっと拳を握りしめたビビが凛とした声をそっと張り詰めた空気にこぼし、揺らした。

「船に乗せてもらっておいてこんなこと言うのはあれだけど…今、私の国は大変な事態に陥ってるの…。とにかく先を急ぎたい! もう一刻の猶予も許されない…だから、この船を最高速度でアラバスタへ進めてほしいの!」

意を決した彼女の表情は気高く、王女に相応しい面持ちだった。シーンと静まった空気は遠くで起こりかけている嵐の影響もあって、より一層船の空気を重くする。ビビの一言に、ルフィとウソップは目をパチクリさせたが、ゾロとサンジとアリエラはそっと瞳を細くして王女を見つめている。

「…そんなの当たり前じゃない。約束したもの」
「ナミ…」

支えている彼女の腕はまた熱を孕んでいた。こぼした吐息もあつく床を撫でて、笑みも力を失っている。か細い航海士の声を聞いて、ビビは握りしめていたこぶしを解き、固く結んでいた表情を和らげた。

「だったらすぐ医者のいる島を探しましょう!」
「え…?」
「ナミさんの病気を治してからアラバスタへ! これがこの船の最高速度でしょ?」

ちらりとナミに視線を送ったビビが、この船の決定権を握る船長に向いた。ビビの訊ねにルフィは花が綻ぶような笑顔を浮かべて大きく頷いた。

「そうさ、それ以上のスピードはでねェ!」
「いいのか、ビビ? お前は王女として100万人の国民を心配すべきだろ?」
「そうよ? だから早くナミさんの病気を治してもらわなくちゃ!」
「うう…ビビちゃあんっ! なんて素敵な子なのっ!」
「きゃ、アリエラさん」
「うおおおおッ! 美しい…絵になるーッ!!」

ビビの決意が美しくってアリエラは泣きながら彼女にぎゅうっと抱きついた。揺れた視界にビビもわ、と驚き抱きついているアリエラに優しく微笑んだ。サンジは花の添えられた美しい光景に鼻の下を伸ばしてへろっと笑っている。

「いやあ、さすがビビちゃんだ! 惚れ直したぜ、おれァ」
「…いい度胸だ」

二人の光景にゾロもふっと口角を弛ませて刀を握りしめてビビの心意気を心から褒める。王女に相応しい心の持ち主だ、と。ナミもビビの言葉にようやく肩の力を抜いてほっと胸に手を当てた。本当にこのままアラバスタ一直線に向かっていれば、死んでいたかもしれない。自分でもそう思うくらいに限界だった。

「…悪いわね、ビビ」
「いいのよ、ナミさん」
「ナミ、ゆっくりベッドで眠っていて。医者のいる島は私たちで探すから」
「うん…アリエラもありがと…。ほんと、嬉しかったわさっきの言葉」
「…ふふ、ううん」

熱っぽい笑みを浮かべられてドキッとした。おんなじ女だけど、こんな状況でも彼女は相変わらず美しくって可愛い。ふらついているナミを支えようとビビと同じタイミングで腕を伸ばした途端、ナミは張り詰めていた力を抜いた反動でかろうじて保てていた意識を手放してしまった。

「ナミ!」
「ナミさん!」

腕を伸ばしておいてよかった。ナミはぐったりとした身体を二人に預け、苦しそうな寝息をたてている。アリエラも頭痛を感じるほどのこんな強い低気圧。よくその身体を立たせていたものだと、彼女に感心を送ったその時、ルフィがあ、と叫び声を上げた。

「なんだあれェーーッ!?」

彼の声に引かれて右舷の先に視線を配らせると、先ほどまでメリー号が浮かんでいた場所に巨大なトグロを巻くハリケーンが発生していた。

「きゃあ…! 何て大きなサイクロン!」
「おいおい、あのまま進んでたら直撃だったぞ!?」

あわわ、と慄くウソップの心を突き刺すように遠雷が響き、5キロ離れている海面に激しいいかずちを落とした。ナミが気づかずにこの船を進めていたら、メリー号は波に飲まれ、焼け焦げ、海の藻屑となっていただろう。

「すごいわ…ナミが予報してくれたからだわ、ありがとう!」
「え…ナミさんが予報を?」
「ええ、そうよ」

ルフィたちはもちろん、この海のことをよく知っているビビはアリエラの言葉に息を呑んで驚愕の目を腕の中にいるナミに向けた。

──グランドラインのサイクロンは風もなくいきなり現れるというのに…この人…。元々理論だけで予測してるんじゃないんだ…まるで体で感じているみたい…。

あまりの驚きに「こんな航海士、見たことない…」と声を震わせて呟くと、アリエラはナミへの誉れに嬉しそうに大きく頷いた。

「ナミはね、とっても優秀で世界一の航海士なの…。早く病気を治してもらって無事にアラバスタまで届けていただきましょう、ビビちゃん」
「…ええ」
「にししっ、よっしゃっ! このまま医者探しに行こう!!」
「「おおーッ!!」」

ハリケーン地帯から抜けて、快晴のが晴わたる大海原に船長の号令が響く。7人の腕が大きく空に伸ばされ、メリー号は力を孕んだように少しスピードを速めたのだった。


TO BE CONTINUED 原作78話-130話



2/2
PREV | NEXT

BACK