114、最高速度


「ナミさん…じぬのがな…ッ、アリエラぢゃん、ビビぢゃん…ッ!」
「もう、サンジくん! そんな縁起の悪いこと言わないの」
「は、はいっ!」

ハンカチを噛み締めてぐずぐず泣くサンジのほっぺたを細い指で引っ張ると、サンジはへろんと表情を変えて大きく頷いた。だけど、当然ナミへの心配は拭えなく目尻にたっぷりの涙を溜めて更に垂れ目を強調させてゆく。
アリエラが水を張った洗面器を持ってきて、サイドデスクに置くとビビがタオルを浸して絞り、ナミの真っ赤なおでこにそっと乗せた。

「恐らく気候のせいね。グランドラインに入った船乗りがまず必ずぶつかるという壁が異常気象による発病。どこかの海で名を上げた海賊もこれで死ぬことはよくあることよ」
「ええ。気圧や気温の変化に自律神経が乱れて微熱が続いちゃって頭痛を感じることがあるわ。だけど、ナミはとても深刻ね…絶対安静にしていなくちゃ」
「そう。どんな病気もちょっとした油断が死を招くもの」
「ううッ、ナミすわァん…ッ」
「でも、肉食えば治るんだろ? なあ、サンジ!」
「ちょっとルフィくんじゃないのよ!」
「…そりゃあ基本的な病人食は作るつもりだ。だが、あくまで看護の領域。これで治るとは限らねェ…」

涙を啜り、サンジは眉を下げてルフィに答えて、再びナミに視線を戻す。呼吸するのさえつらそうだ。

「それに、おれは普段からレディの食事はてめェらよりも何倍も気を遣ってる。新鮮な肉や野菜、完璧な栄養配分。腐りかけた食材はちゃんとてめェらに」
「おいおいおいッ!」
「それにしちゃうめェよなぁあひゃひゃひゃ!」

じっとりした目でルフィとウソップを指さしたサンジの手を、ギョッとしながらウソップが払う。ルフィは笑っているし、ウソップ自身もお腹を下したことはないためここはまあ良しとする。

「だが…病食となればそれには種類がある。どういった症状で何が必要なのか。その診断はおれにはできねェ」
「んじゃあ全部食えばいいじゃん!」
「そういう元気がねェのを病気って言うんだよ!」

にしし、とまた能天気に笑うルフィはナミの重症度を全く理解していないようだ。お肉を食べたら治ると思っているから、ルフィに病気のことを教えるのは至難の業。サンジははあ、と深いため息をこぼす。しばし沈黙の間が続いた時、ナミのわきに挟んでいた体温計が音を上げた。ビビがゆっくり抜き取って、温度をみるとはっ、と息を呑んだ。

「ナミの熱何度…きゃっ、40度!」
「また上がったわ…。ねえ、この中に医学をかじっている人はいないの?」

ビビの訊ねに、ルフィとウソップが寝ているナミを指さした。東の海の時に、瀕死だったヨサクの病状をズバリと当てて正確な指示の元看病をしたのもナミだった。その張本人が病気になって意識もないのだからどうすることもできない。

「医学も取っておくべきだったわ…。でも、ただの風邪で40度を超えることはないからこれではっきりしたことがあるわね」
「なんだ? アリエラ」
「ナミが患っているのは自律神経からくるものじゃないってこと……きっと細菌による仕業だわ。だけど、その判別はお医者さましかできない、医師免許を持っていない素人がしてはいけない行為なの。だから一刻も早くナミを病院に行かせなくちゃ!」
「アラバスタに行けば医者もいるんだろ? ビビ」

ルフィの訊ねにビビはゆっくりと頷いた。だけど、顔もちは神妙なままだ。

「どのくらいかかるんだ? ビビ」
「おそらく一週間では無理」
「そんな…一週間だなんて。ナミ耐えられるわけがないわ」

熱冷ましともなる鎮痛剤は救急箱に入っている。だけれど、素人判断でそれを飲ませるのはいかがなものか。もし、身体の細胞が抵抗した場合、高熱に苦しみ体力のないナミは簡単に命を落としてしまうだろう。これまで誰も大きな病気をしてこなかったから、後回しにしていたけれど船医がいないなんてとても死活問題だ。

「なあ、アリエラ」
「なあに? ルフィくん」
「病気ってそんな辛ェのか?」
「え?」
「なあ、サンジ」

どうしてそんな当たり前のことを訊ねるのかしら。不思議に思い、そして嫌な予感が過り。ナミからゆっくりルフィに瞳を向けると、アリエラが答えるよりも先にウソップとサンジが腕を組み難しい顔をして首をかしげた。

「「いやあ……罹ったことねェから」」
「ええっ嘘でしょう、二人とも!」
「あなたたち一体何者なの!?」

この船に乗って長いアリエラはなんとなく察しはついていたけれど、この方約20年近く病気をしたことがないなんて驚愕を通り越して羨ましい。おそらく、外にいるゾロも病気を経験したことないのだろう。飲み込みの早いアリエラだが、まだ日の浅いビビはギョッとして勢いよく振り返った。

「辛いに決まってるでしょ!? 40度なんてそうそう出ない熱よ! アリエラさんの言った通り、きっと感染症か何かだわ…」
「もし、その細菌やウイルスだった場合…命に関わることだわ」
「「っギャアアアアーッ!!」」

辛さ深刻さを理解していない三人に青い瞳を尖らせて事の重大さを告げると、息を飲み込んだ三人は両腕をあげて騒ぎ出した。ルフィとウソップはぐるぐる回りを走り、サンジは号泣、カルーもバタバタ羽根を羽ばたかせて鳴いている。

「もうっ! ちょっとあなた達そんな騒がないで!!」
「医者あああ! ナミを助けねェと!!」
「分かったから落ち着いて! ナミさんの身体に触るわ!」
「この辺りに医者のいる町はあるかしら? ビビちゃん、分かる?」
「ええ。リトルガーデン航路だったら、確かこの近くに──」
「──…だめよ…、」

ナミのデスクから偉大なる航路の地図を拝借して、アリエラがビビに見せるとベッドの方から熱い声が溢れた。布が擦れる音を静かな空間に響かせて、おでこのタオルを手に取りながらナミは身体を起こす。

「おお、ナミ! 治ったのか?」
「ンなわけあるか!」

よかった!とキラキラ瞳を輝かせるルフィの後頭部にウソップの拳が入った。

「ナミ! あなた、寝ていなくちゃ!」
「…アリエラ、ビビにあれを見せて」
「え…、でも…船の速度は変わらないのよ!?」
「いいから…いつまでも隠しておくのはやっぱり無理よ」
「え…なに?」

ナミの熱を含んだとろんとした瞳にアリエラはぎゅっと拳を握りしめて、ナミのデスクの引き出しの奥から一昨日の朝刊を手に取り、浮かない表情でビビに渡す。ビビも嫌な予感を感じとったのだろう。茶色い瞳を揺らして、そっと受け取り折り目のついたページを開く。写真と共に添えられた文字を追って、心臓がぎゅうっと収縮した。新聞を持つ手が震えて、口の中が乾いていく。

「うそ…っ、そんなバカな…ッ」
「なんだ、どうした?」
「アラバスタのことか、ビビちゃん?」
「…国王軍の兵士が反乱軍に寝返った…っ、もともと国王軍40万対反乱軍40万の鎮圧戦だったのに…、これじゃ…ッ!!」

ぐしゃっと新聞を握りしめて項垂れるビビの綺麗な水色が真っ白な絨毯に川のような線を描く。小さな背中は震えていて、かすかに溢れる呻きは切実な悔しさを表している。見ていられなくて、アリエラは正座を組んでビビの背中にそっと手を乗せて、優しく撫でた。

「…これでアラバスタの暴動は本格化するわ。ごめんね、それ一昨日の新聞なのよ」
「え…、」
「あんたに見せても船の速度は変わらないからアリエラと秘密にしていたのよ。分かった? ルフィ」
「ん大変そうな印象を受けた!」
「思ったより伝わってよかった」

難しそうな表情を浮かべて腕を組んでいるルフィにナミは力なく笑う。きっと身体を起こしているだけでも辛いのだろう。呼吸も荒くなって、指先も震えている。項垂れるビビも、辛さを必死に隠しているナミも見ていられなくて、アリエラもぐっと唇を噛んだ。

「ナミ、お医者様に診てもらわなくちゃ!」
「平気よ。その体温計壊れてるのね、新しいの買わなくちゃ。40度なんて人の体温じゃないもん」
「そう、普通の体温じゃないから診てもらわなくちゃいけないの!」
「きっと日射病よ。ジャングルの中ほぼ半日いたんだもの」
「そんなはずないわ…」
「医者なんて掛らなくても大丈夫。真っ直ぐアラバスタを目指しましょ」

ベッドから立ち上がり、ナミは全身真っ赤な身体をなんとか支えながら絨毯の上を歩いて、綺麗に揃えられているサンダルに足を滑らせた。

「ちょっとナミ、どこ行くの!? 寝ていなくちゃ!」
「…心配してくれてありがと」

柔らかく微笑んでナミは階段を登って女子部屋を後にした。

「おお、治った!」
「バカ、強がりだ」

病気をしたことのないウソップにも伝わったナミの抱える深刻さ。その顔はどうみても顔色が悪く、身体もふらついていた。絶対に日射病なんかではない。ビビの気持ちも、ナミの気持ちもアリエラはよくわかる。二人とも痛いほどに真っ直ぐだ。だけど、本当にこれでいいの?

「このままじゃ…国中で血の流れる戦争に…ッ! もう無事に着くだけじゃダメなんだ…っ! 一刻も早くアラバスタに帰らなくちゃ…ッ!! 100万人の国民が無駄な殺し合いをすることに…!」

この戦いはクロコダイルに仕組まれているのだ。早く国に帰って真実を伝えなくては…人が死ぬのは嫌だ。誰かが痛い思いをするのは嫌だ…。ビビの優しい心はクロコダイルの放つ毒のような憎悪に蝕まれていく。くしゃくしゃになるほど握られた新聞は力を失っていて、それがビビの心のようだった。

「ビビの国には100万人もいるのか!」
「なんちゅーもんを背負ってんだ…ビビちゃん」
「…ビビちゃん…」

一昨日でこれなら恐らくもう戦争ははじまってしまっている。ビビの気持ちを思うとアリエラの心はひどく痛み、涙が溢れてしまいそうだった。一刻も早く彼女を国に送らなければならない。アリエラの中にも焦燥が芽生えているのだが、本当にこのままナミを放ってアラバスタに向かっていいのだろうか? もし、病魔がナミを蝕み命を落としてしまったら──。

「あ、おいアリエラ!」
「…ウソップ」

握りしめていた拳を解いてアリエラは船内スリッパを引っ掛け、バタバタと甲板へと登って行った。急に慌てた彼女に首をかしげて声を投げたウソップだったが、サンジに止められてしまった。きょとんとして瞳を丸めると、サンジはゆっくり視線を甲板に流した。

「ナミさんのことはアリエラちゃんに任せよう。きっと彼女にも思うことはあるんだ」
「…あ、ああ」

アリエラが出て行ったことにも気がつかないくらいにビビは激しい怒りをクロコダイルに向けていた。人々を企み嘲笑い命をなんとも思っていない、巨大な悪。どうか、どうか敗けないで。無事でいて、早まらないで…。せつなる思いがビビの擦れゆく心の中でトグロを巻いていた。



「もう! 何を見てたのよ、あんた!」
「なにって…真っ直ぐ進んでたぞ」

外に出て、記録指針と船の進む方向を見てナミは驚愕した。進むべき道とは正反対を進んでいるのだから。このままだとまたリトルガーデンに行き着いてしまう。

「ちゃんと指針見ていなさいよ!」
「そんなことしなくてもあの雲目指して…」
「雲は動くし形も変わるでしょ!?」

誰よ、ゾロに任せたのは!とクルーに怒りをぶつけるが、過ぎたことをあれこれ言っても船は向けられた方を真っ直ぐ進むだけ。ナミは怒りを飲み込んで大きくため息をこぼして額に手を当てた。

「もういや…頭痛い」
「だからここはおれに任せて寝てろって」
「あんたに任せられないから来たんでしょ!?」

女子部屋に集まっていたメンバーを見てすぐに嫌な予感を抱いたナミは、このまま寝ておきたいけれど体に鞭を打って外に顔を出したのだ。もちろん、ビビに余計な心配をかけさせないように、とその気遣いもあったけれど、ここは偉大なる航路。少しでも道を踏み外してしまったら待ち受けているのは島ではなく死ということはザラにある。仲間の命を守る航海士として見過ごすわけにはいかなかったのだ。

そんなやり取りをしている中、きい…と倉庫の扉が開いてアリエラが顔を覗かせた。ナミが上のラウンジ前にいることを確認して、ゆったりと階段を登っていく。

「……」
「…どうしたの?」

じいっと綺麗な瞳を尖らせてこちらを見つめながら近づいてくるアリエラにナミはたじろいでしまった。これほどまでに整った顔というのは、一種の恐怖を与える。思わず数歩後ずさった後ろにはゾロがいて、彼もダンベルを動かしながら不思議そうにアリエラを見つめている。

「ナミ、」
「なに…?」
「きゃ、」

階段を上り切り、ナミに近づいてそっと彼女の赤い腕を取ってみると、信じられないほどの熱を持っていてアリエラは小さな悲鳴をあげてしまった。おそらく、40度を超えてしまっている。彼女の状態は本当に只事ではない。ナミは必ず医者に見せないと治らない病気を患っているのだ。

「ほら、すごい熱じゃないナミ! 本当はこうして立っているのも限界なんでしょう…?」
「あァ? そんな重症なのか? だから寝てろって言ってんだろ、ナミ」
「うるさいわね! これが私の平熱なのよ!」
「そんなわけないじゃない、40度もあるなんてただごとじゃないわ! きっとウイルスか細菌に感染しているのよ!」
「おい、アリエラ。ナミは一応──」
「ゾロくんは黙ってて!」

病人なんだぞ、と言いかけたがアリエラにすぐ遮られてしまった。心底惚れてしまっているアリエラに頭が上がらないということもあるが、それ以上に彼女の瞳からナミへの心配が激しく伝わってきてゾロはそれから口を閉じ、トレーニングを続ける。

「…私には気を使わないでよ、ナミ」
「…気なんて使ってないわよ。心配してくれてありがと、悪いわね」
「身体、とっても辛いんでしょう? 私、病気のことなんて全然分からないし、うちに船医さんだっていないわ」
「もう、だから私はただの日射病だって言ったでしょう? 医者なんて必要ない。このまま真っ直ぐアラバスタへ向かうわよ」
「そんなの許さない! ひどいって思われたって構わない! アラバスタより先に医者にいる島に行くべきだわ」
「何言ってんの…あんたもあの記事見たでしょ? 一刻も早くアラバスタに向かわなきゃビビは…!」
「もちろんよ。アラバスタに早くビビちゃんを送らなきゃいけない。だけど、その前に医者に見せるの。お願い、進路を変えて、ナミ」
「バカ言わないで! そんなことしたら国が滅ぶかもしれないのよ!?」

どんどん激しくなってくる二人の言い合いだが、ゾロはただ耳を傾けるだけで目を瞑りダンベルを動かしている。声を聞くだけでわかる。ナミにはもう覇気がない、このままよろけて倒れてもおかしくはないだろう。ゾロもナミの気持ちを理解した上でアリエラの意見に傾いているのだが決して口にはしない。

「国が…アラバスタが滅んだらビビは…、!」
「じゃあ、ナミが病気で死んだらビビちゃんはどうなっちゃう?」
「え…?」
「あの子は心優しいから、犠牲なんて耐えられるわけがない。特にもう身近になった人の犠牲なんて…。そうなったらあの子は自分を責めるでしょう。ナミもそれはよく分かっているでしょう? ビビちゃんにこれ以上何を背負わせるの…?」
「……っ」
「……」
「あと、私も絶対にナミを死なせたくない。こんなの当たり前だけど」

感情が高まったのか、アリエラのブルーはきらりと濡れていた。そこにはナミの心配とビビの心配の両方が浮かんでいて、必死に考え辿り着いた答えがこれだったのだ。彼女は温厚でふわっとしているが、言うことは言う子。そんな真っ直ぐなところがナミは大好きだった。心の奥がじんわりする。そんなの、ナミも本当は分かっていた。だけど、自分の寄り道のせいで国が滅んだらビビは…と思うと決定をやっぱり出せない。

「…バカね、死ぬわけないじゃない」
「そうだろうけど、でも…」

少し考えて笑ってみせると、アリエラも瞳に迷いを閉じ込めて足元に視線を落とした。病人相手のナミにもうこれ以上は強く言えず、ぎゅっと下唇を噛み締める。そのアリエラを目にした時、ナミの全身に衝撃が走った。穏やかだった風がトゲトゲしいものになり、空気が鉛のように重くなる。何これ…。これまでに感じたことのない天候の予感。はっと顔を持ち上げて、アリエラの横を通り過ぎ右舷を覗いてみるが海面は穏やかなままだ。


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