108、魔のトラップ


しゅんしゅんとキャンサーの回転する音が緊迫した静寂で響いている。
信じられない言葉がクルーの耳を突いた。どんな時でも、何があっても仲間を必ず助けてくれるルフィがどうしてあんなセリフを──。
乾き切った口を開き、ナミはもう一度船長を呼びかけた。

「なにバカなこと言ってるの、冗談やめてルフィ!」
「ルフィくん、一体どうしちゃったの…?」

もう少しで体は固まってしまう。固まると同時に意識も飛ぶだろうし、鉄のように硬い甲羅の中から声を外の世界に届けることはできない。だから、今のうちになんとかしてもらわないとお先も真っ暗なのだが…。
必死に言葉を紡いでルフィに投げかけるが、彼は肩で息をしながら一点を見つめるだけだ。ややあって、震えた唇を開き、乾いた空気にぽつんとこぼす。

「あァ。だけど、助けたくねェんだ」
「だから何よ、それ!!」
「おい、ルフィ! 時間がねェんだ、早く助けろ!」
「お願いよ、ルフィくん!」
「ルフィさん! 私たち、蝋人形になりかけているの。このままだと死んじゃうわ!」
「うん…でもなんかやる気が出ねェんだなこれが」
「「やる気の問題じゃないだろ!!」」

ボンヤリと半分眠っているかのような声でこぼし、頭をかくルフィに四人のツッコミが入った。
それでもなお、ルフィはその場から動こうとはしない。ゴムだから打撃は効かないのだが、それでも恐怖を覚えるナミの鉄拳をのちに食う想像はついても不思議と身体が動かない。いや、動いてくれないのだ。
ルフィの頼りない背中を茂みから見つめていたウソップも不可解に眉根を寄せていた。

「あんにゃろ……どうした急に? 急がねェと仲間の命が危ねェってのに!」

手に汗が滲み、ちくちく針で刺されたような嫌な焦りが全身を襲う。居ても立っても居られずに、ウソップはパチンコを構えてルフィに弾を向けた。

「目を覚ましてやる…行くぜ、カルー!」
「クエーッ!」

パチンコを射ろうとしたその瞬間、目前に焦茶色のロングコートが揺れてはっと顔を持ち上げる。
このコートは確か…。脳を回転させて焦点を合わせてみるが、もう目前に人影はなかった。え?と息を呑むと背後で草を踏む音が落ちて、心臓がドキリと激しい唸りを上げた。
嘘だろ。だってさっきまで──ドキン、ドキン、心臓を響かせながらゆっくり振り返ってみると

「おい」
「ヒイイ! いつの間にーッ!?」

目にも止まらぬ速さでMr.5とミス・バレンタインに後ろに回り込まれていた。こんな急接近されては隙を突いた攻撃も何もできない。ウソップの喉仏がごくりと上下に動いた。

「やめときな。奴はもう罠にかかってんだ」
「キャハハ、そうよ? あの子の足元見える?」
「足元…?」

スナイパーゴーグルを下げて装着させる。レンズ越しに見える遠方はグッと距離が近くなってルフィの姿を鮮明に捉えた。きゃらきゃらと鳴った女の言葉を心の中で反芻して、足元に目線を下げた。
ルフィの草履の下には黒色のサークルが描かれていて、ウソップは感嘆をこぼす。

「ん? なんだありゃ…黒い変な模様があるな…。あれが一体なんだ? なんでもねェただの模様に見えるが」
「そうね、なんでもないただの絵の具よ。キャハハ」
「絵の具?」
「つまり、てめェらも奴らも……全滅しちまうってことだ!!」

語尾を荒げると同時に、Mr.5はロングポケットに両手を突っ込んだままウソップのすぐ顔の横の木を蹴り上げた。足先に爆弾を集中させていたため、蹴ると同時に真横で爆発が起こった。木の焦げるにおいが鼻腔にこびりつき、熱風が頬を掠める。

「うおおおお!!!」

理解が追いつくと同時に、ウソップは瞬時に後退りをして震える腰を持ち上げた。体を支える足はブルブル震えているし、喉も渇きを覚えている。付近で身を小さくしているカルーは涙を浮かべてウソップを見つめる。

「かかか、カルー! とりあえず逃げるぞ!!」
「クエーっ!!」

その答えを求めていたカルーは瞬時に立ち上がってウソップの方向へとかけていく。

「トリに乗って逃げる気よ!」
「全力で走れ、カルー!」

カルーの足の速さは見事なものだ。だから、ミス・バレンタインも危機を覚え、ウソップは喜びに頬を弛ませて先を行ってしまったカルーの元まで駆けていく。カルーもウソップを背に乗せるために一度足を止めて振り返ったのだが、ウソップの顔があまりにも必死で恐怖に歪んでいて、あまりの恐ろしさに全身の毛が逆立ったカルーは目に涙を浮かべながら大きく足を鳴らして走り出す。

「おいッ、ちょっと待て!! おれまだ乗ってねェよ、カルー!!」
「クエエエッ!!」
「おれにビビってどうすんだ! 乗せろぉおお!!」
「クエエェエエ!!」

ウソップの切実な願いとカルーの恐怖の鳴き声が交互に、次第に同時に森林に響き渡る。カルーは全力疾走しているのだが、ウソップは彼に追いつけているから足のスピードはかなりのものである。こうして走るうちに、二人もまたルフィ同様仲間救出から遠ざかっていくのだった。



「ミス・ゴールデンウイーク! あなたの仕業ね!?」

焦りと平静が入り混じるキャンドル広場にビビの凛とした声が響き渡った。彼女の問いに、ミス・ゴールデンウイークは小柄な身体を伸ばしてキャンドルセットに目を向けた。

「“カラーズトラップ 裏切りの黒”」

無表情のまま冷静にこぼされた名にビビは息を呑んで、瞳を揺らした。

「なあに? それ」
「黒い絵の具に触ったらどんな大切な仲間でも裏切りたくなるの」
「どういうことよ?」
「黒い絵の具に触れたら…?」

少し柳眉を持ち上げたナミの隣でアリエラは不可解そうに溜息を吐いた。絵の具に触れたら…なんてそんな魔法みたいなこと──。
芸術家として動揺を見せているアリエラを一瞥して、ビビは続ける。

「彼女は感情の色さえもリアルに作り出す写実家なの」
「写実家……」
「彼女の洗礼された色彩のイメージは絵の具を伝って人の心に暗示をかけるの!」
「暗示だと!? そりゃまずい、あの単純バカにあの手は必要以上に効いちまう!」

思い出すのはシロップ村での出来事だ。そう、あの催眠術師のジャンゴのこと。ワンツージャンゴ!に合わせてルフィも毎回豹変していた。崖から落ちても気が付かないほどに昏睡したり、強くなる暗示をかけられたり。散々だったあの時のこと。

「なによ、それ…絵の具で暗示? そんなのあり得るの? アリエラ」
「うん…あり得ることだけど、これは芸術というよりも心理学に当てはまるものだわ。…素直にすごいと思うけど、でも──」

芸術家としてとても褒めて見過ごせられる問題ではなかった。絵の具は絵を描く上で特に大切な道具だ。それを戦闘に使って命を操るだなんて…。でも、今はそこに拘ってかまっている暇はない。アリエラはもうほとんど動かない顔をあげてルフィとミス・ゴールデンウイークを見つめた。ナミも彼女の気持ちを汲み、そう…。とだけ答えて同じように瞳を彼に向けた。

「ルフィ! そこから離れて!」
「いいえ、ダメ!」
「え、どうしてよ」
「…あ、そうだわ。ルフィくんは今あの暗示にかかってるから」
「ええ。ルフィさん! そのサークルから決して離れないで! お願いよ、ルフィさん!」
「ちょっとビビ、あんた何で…!」
「私たちはあなたに助けてほしくないわ!」

ビビが投げた言葉にゾロとナミは不思議そうに瞳を丸めている。一体どうしてそんなことを…。瞠目していると、俯いていたルフィが「嫌だ!」と強く放ってそっと後退りをした。

「なるほど…わざと逆のことを言って裏切らせたってわけか」
「あれ…? なんだ? 今何が起きたんだ?」
「ルフィ! いいから早く!!」
「お願いね、ルフィくん!」
「よし、今助けるぞ!」

きょとんとしていたルフィはすぐに持ち直して右肩を大きく回す。
勢いをつけて、力を蓄えて。全力をぶつけないとあのキャンサーを壊すことができないから。もうすぐで限界まで力を貯められる、その時。

「ん、あひゃひゃひゃひゃひゃ!!」

腕に力を急に弱めて動きを止めると、ルフィはお腹を抱えて笑いはじめた。けらけら身体が捩れるほど笑って目尻には涙を溜めている。

「お前らのことよりも笑いてェ! あひゃひゃ!」
「ちょっとルフィ!」
「えん、ルフィくん!」
「おめェな!」
「今度は何!?」

涙を溜めるのはナミたちも同じだ。もう助かりそうにない現状に、ゾロまでもが瞳を潤わせて船長に噛み付いている。ナミとビビは半分イライラし、アリエラはソワソワしている。もちろん三人とも泣きながら。当然これはミス・ゴールデンウイークの仕業で、彼女は筆を構えながら無表情のままルフィを咎めた。

「“カラーズトラップ 笑いの黄色” ダメじゃない、勝手に動いちゃ」
「ルフィ! 早く服を脱いで!」
「そんなことより笑いてェよっ!  うはははっ、」
「もう、ルフィくんったら本当にこういった類のもの効きやすいんだから」

むっすりする時、アリエラはほっぺたを膨らませる癖がある。だけれど、上手くいかなかった。ハッとして息を呑む。もう、頬までもが完全に固まってしまったのだ。

「まいったな…。このペースで霧に降られちゃ、もう1分も持たねェぞ」
「ええ…。私、もう顔が固まってきたみたい…」

その時。茂みががさっと揺れてなかからカルーとウソップが飛び出してきた。
なんとかカルーを説得できたのだろう。ウソップはさっきのようにカルーの背に跨っている。少し遅れてMr.5とミス・バレンタインも林から広場へと駆けてきた。もうセットのことはスルーだ。ただただ、ウソップとカルーを捕まえる任務に必死らしい。

「…っ、てめェらここに遊びにきたのか!?」
「あひゃひゃひゃひゃ! なにやってんだ、ウソップ! あはははっ、」

ゾロの怒りが空気を揺らしたがみんなお構い無し。何度かセットの前を往復しているカルーにぶつかったルフィは、おかしいくらいにぴたりと笑いを止めた。素に戻った途端、目を丸めてぱちぱちする。何が起こったのかわからないのだろう。

「ルフィの笑いが止まった!」
「きっとウソップとカルーちゃんにぶつかってサークルが汚れちゃったんだわ!」

アリエラの言う通り、ルフィの赤いベストの背中につけられていた黄色いサークルは所々消されて完璧な体を保てていなかった。少しでもはみ出たり消されたりすると、その効果は途切れてしまうのだろう。

「はあ、はあ…まあたなんかされてたのか、おれは」

大笑いは身体をひどく疲れさせる。ルフィは乱れた息を整えてゆっくりと立ち上がった。そして、後ろでじっと立っていたミス・ゴールデンウイークに向き直った。

「おい、お前! いい加減にしろよ!」
「面白かった? 笑いの黄色」
「うっせェ、お前バカか!? バーカッ!」

子どもじみた煽りを年下の女の子に放って少しスッキリしたルフィはゾロたちが立っているセットに身体を向ける。

「とにかくあの柱をぶっ壊す! “ゴムゴムの”」
「“カラーズトラップ──闘牛の赤”」

ルフィが両腕を後ろにぐんと伸ばしたタイミングでミス・ゴールデンウイークも行動に出た。筆で赤い絵の具を取り、ルフィの隣の地面にぱぱっとサークルを描く。
限界まで腕を伸ばし、力を貯めたルフィはしっかりと柱を狙ったはずなのに「バズーカ!」と放った途端、誘われるように地面に両腕をつけてしまった。地に落ちる瞬間、全て力は奪われ腕はふにゃふにゃしている。

「どこ狙ってんだ、お前!」
「ダメよ、あれ壊しちゃ。Mr.3に怒られるわ」
「おい、なんだこりゃあ!」
「あなたは赤いマントに突進する牛のようにその“闘牛の赤”を攻撃したくなるの」

今度はしっかりと意識はあるようでルフィはまだ赤いサークルに手をつけたまま、ミス・ゴールデンウイークに牙を向ける。

「うあーッ! お前もう許さんッ! どっか行ってろ!」

怒りを見せてルフィは息を吸い込み、もう一度強烈な“ゴムゴムのバズーカ”を放ったがやっぱり吸い込まれるように赤いサークルに腕が向いてしまう。

「おもしろい?」

しんとした中、ミス・ゴールデンウイークが淡々と問うた。攻撃もさせない、できないなんて。真っ直ぐなルフィにとっては最大の敵かもしれない。ナミは焦燥に濡れた吐息をこぼす。

「ダメだ…。戦いの相性が悪すぎる! 全部空回りしちゃってる」
「ルフィくん今きっとモヤモヤしているわ。ごめんね…」
「仕上げはこれ、背中の黄色に悲しみの青を混ぜて…“カラーズトラップ なごみの緑”!」

また背中に新たなサークルが書き足された。今度は黄と青を混ぜ緑色に変わったサークル。それを受けた瞬間、イライラしていたルフィの表情は朗らかになり「ふああ」と気の抜けた声を静寂に落とした。
導かれるままにミス・ゴールデンウイークの背中を追って、案内されたレジャーシートの上に腰を落とす。丁寧に正座をして、手渡された湯呑みにそっと口つけた。

「ああ…お茶がうめェ」
「「アホかぁああ!!」」
「ちょっと、ルフィくん!」

縁側に座るおじいちゃんのような朗らかな笑みをたたえているルフィにアリエラを除く3人のツッコミが盛大に入った。ぺしん、と頭を叩かれる声だったがルフィは慄くことなくズズズとお茶を啜る。

「で、どうなんの? 私たち!」
「な? だからポーズ取っててよかったろ」
「まだそんな悠長なことを…!」
「私も潔くポーズ決めていた方がよかったかしら…」
「ほら、そうだろうが」
「アリエラまでバカなこと言ってんじゃないわよ!」

その頃、Mr.5とミス・バレンタインは先ゆくカルーとウソップを追って森の中を走っていた。同じように駆け出したのに、どんどん差は開いていき今は数メートル距離ができてしまった。

「クソ、なんて速い逃げ足だ!」

舌を鳴らしてMr.5はカルーの足元に爆弾を投げつけたが、瞬く間に避けられて不発に終わった。

「ばーははーッ! このまま真っ直ぐだ、カルー!」
「クエーっ!」

ウソップに鉛星をお見舞いされた上に彼らは恐怖に任せて更に速度を上げれてしまった。このまま追いかけ続けても距離を離されるだけだ。悟った二人は足を止めて息を整える。

「このままじゃラチがあかねェな。追い回しても意味がねェ」
「はあ…っ、ええ。そうね」

ロングコートの内ポケットに手を突っ込む。かちゃりと冷たい音を鳴らして取り出したのは手のひらに余る拳銃だ。

「あんな雑魚にこんな代物使いたくねェが…これは避けられねェぞ。フリントロック式44口径6連発リボルバー。サウスブルーのニューモデル…連射が可能でおれが使えば弾は見えねェ」

重たい金属音を鳴らしてMr.5はもうずっと先に行ってしまった黄色い的に狙いを定めた。


「ルフィがああなったのは敵の言ってた絵が原因だ! 敵が罠だと教えてくれたあのマーク…さっきルフィにぶつかった時にはそれが背中に描かれてた。犯人はあのやる気のなさそーな女に違ねェぞ!」

急げ、と促すとカルーは大きく頷いて足を速める。さっきの広場へもう少しでたどり着く。大柄の能力者ならば畏怖を抱くが、相手は同年代のかなり小柄な女の子だ。少々苦戦しても勝利は見えている。ウソップはカルーの上で器用にパチンコを構えながら茂みを抜けるのを待つ。
ややあって、広場に顔を出すと信じられない光景が目に飛び込んできてウソップは構える力を緩めて瞳を震わせた。

「え……」

鼓膜を揺さぶるのは、静寂の中しゅんしゅん回り続けるキャンサーの音。嘘だろ…。ゴクリと息を呑み込み視線を下げてみるとさっきまで意識のあった仲間がその姿を真っ白に変えて、息の音を止めていた。間に合わなかったんだ…。思考が溶けゆくと同時にすぐさま船長の姿を探した。

ルフィが仲間を見殺しにするなんてありえない。そう、目線で探ってみると真っ赤なベストはすぐに見つかった。

「ああ…お茶がうめェ」
「…ルフィ…、…ルフィてめェ…何やってんだよ!!」

喉に熱いものが引っかかって、鼻の奥がツンとする。悔しい、船長がいながら仲間が蝋人形にされたことが。逃げ回って何も助けてあげられなかったことが。震える手でパチンコを握りしめるウソップの音は、もちろんルフィの耳にも届いていた。

暗示をかけられているルフィは意識を仲間に向けられないはずなのだが、

「お茶が…うめェ…ッ、」
「何やってんだ、バカ野郎ッ!!」

お茶を啜ったルフィは震えた声を絞り出して、言うことの効かない身体へのイラつき、仲間を救えなかった悔しさに鼻水を垂らし、血が滲むほど下唇を噛み締めた。


TO BE CONTINUED 原作124話-75話




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