100、プルメリアの匂う


女神をかけたジャンケンに勝利した男の背中を追っていく。
彼は歩幅が大きいからアリエラも遅れを取らぬように、必死に足を進めていたら急に立ち止まったためアリエラもぶつからないようにきゅっと足を止めた。

「…ゾロ?」
「…悪ィ、速かったか?」
「ううん、大丈夫よ」

バツの悪そうな顔でこちらを見下ろすゾロが可愛くってふふっと笑ってしまった。
なんだよ。むすっと皺の寄るその表情もとっても可愛らしくて胸が甘い悲鳴をあげる。きっと、さっきサンジくんに「レディの扱いがなってない」って言われたから気にしているんでしょうね。こう思うとまた胸がくすぐりを上げた。彼の一つ一つに翻弄されているみたいでそこは少し悔しくなった。だけれど、ゾロはこんな想いをずっと前から自分に抱いていたと思うと得意になってしまう。

自分でも意地が悪いと思うけれど、少し彼を意識させたくって数歩歩み寄って背伸びをする。わずかに目を見開かせた彼の眉間を指でぐりっとしてみると、彼は少し目を泳がせた。強い意志を宿している綺麗な灰緑の虹彩に自分が写っている。もう見慣れたその顔には恋する少女の光がさしていて、アリエラは慌てて意識を逸らした。彼には、どんな風に見えているのだろう。

「おい、」
「さあ、いきましょう」
「…なに意識してんだ、おめェ」
「…意識なんてしてないわ」
「ほお…そんな顔してよく言うぜ。おれとばっちり目があってすぐ、慌てて逸らしたろ」
「ぞ、ゾロの瞳に私が映ったからよ。自分の顔を見たくなかったの」
「ああ? 毎朝鏡と睨めっこしてるくせにか?」
「あれは身だしなみを整えるためだもの、普通のことよ。ゾロが鏡を見なさすぎるだけだわ。とにかく、それだけなの」
「ふうん…まあ、どうでもいいが」

どうでもいい。
その言葉がなぜか胸を痛めた。さらっと告げた言葉は意識が含まれていなく予期せぬものだったから、いじけているんだわ。そう思うと何て面倒くさい女なのだろう。と自分に幻滅した。
こんな心情、彼には見せられない。一つも可愛いところなんてない。きっと彼に呆れられてしまう。

「…なに意地張ってんのか知らねェが……今はまあいい。いつか必ずおれを意識させてやるから覚悟してろよ、アリエラ」
「…! ずるいわ、ゾロ」
「あ? なにが」

心を読まれたのではないかと思うほどに、真っ直ぐ告げられたそれは一度離された手にまた思い切り心臓を握られたほどに甘い衝撃だった。位置が逆転し、後ろに立っているゾロはどんな顔をしているのだろう。きっと、真っ直ぐ強くこちらを見据えているに決まっている。自分の心から逃げないで、そこに価値を認めて、高貴な光を鋭い眼光に称えて。そんな真っ直ぐで清い彼に惚れられる資格なんてないと感じた。
私は弱い。エトワールをかぶっている時だけ、強くなれた気でいたのだ。それを剥いで、その美が一切通用しない本当の意味での高貴で高潔な男の前では途端に自分という存在がちっぽけに見えて泣きたくなってしまう。ゾロは、どうやって恋の心を自分の一部にしたのかしら。私は恋心から逃げる術ばかり考えてしまう。だけれど、それは今必要なことだと思った。
こんな情けない女は彼に似合わない。

「ゾロは…私には眩しいの」

緩やかに進めていた足を止めて、ゆっくり振り返るとゾロは不思議そうにこちらを見つめていた。

「ゾロはすごいわ。逃げないできちんと私を追ってくれているんだもの…きっと、私にはできない」
「逃げないで? よくそんな言葉が言えるな、お前」
「え?」
「おれはお前から逃げてる。この前そう言ってただろ」
「ええ? 私が? まさか、ゾロにそんなこと言うわけがないわ」
「言ったよ。まあ、酒に呑まれてたがな」
「あ…、」

酒に釣られてふと浮かび上がってきたのが、ウイスキーピークでの一件だ。
その後、ビビと出会い様々なことが一夜で起こりもう遠い昔のように思えるが、まだたったの数日前の出来事なのだ。ゾロと二人で飲んだことも、抱っこをされたことも、キスをされたことも、それから彼が積極的になったことも。

「お前に逃げるなって言われた時、腹が立ったがそりゃ図星だったからだ。おれはアリエラから逃げてたんだ」
「え…うそ、嫌だわ。私、そんな無神経なことをゾロに言ったの?」
「あァ。忘れてると思ったが」
「それは怒っていいことだわ。図星でも、こんな素敵な男性になんてこと…本当にごめんなさい」
「本当のことだったから別にいい。そのおかげでおれァ、もやもやが吹っ飛んだしな」

ニヤリと笑うゾロは本当に強い人だと心から思った。
自分の非を認め改め、一瞬でそこを改善している。恥ずかしいとか否定されたらどうしようだとか、そういった負の感情を全て捨てて真っ直ぐでいることを選んだ。強い心がないとそんな選択はできない。ああ、彼はなんて──なんて眩しい人間なのだろう。
感動に胸が震える。彼のひかりに触れてみたいと、そう感じた。眩いひかりに連れて行かれないように、置いて行かれないように、そっとシャツを掴みたくなって震える指をぴくりと動かすと頭上で低い声が唸った。

「どうしたの?」

慌てて指を引っ込めて顔を上げてみると、彼は頬を掻き、そしてじっとこちらを見据える。

「謝らなきゃならねェのはおれの方だ」
「あ…、」

あのことだわ。と理解する前にゾロは潔く頭を下げた。普段は見えない彼のつむじが木々の葉から差す淡いひかりに照らされている。

「あの日、おれは寝てるお前を襲っちまった。面目ねェ」
「ゾロ。やめて、頭をあげて」
「本当にすまねェ」

あの気高い男が自分のために頭を下げている姿を見て、ひどく胸が傷んだ。寝ていたのならばそのまま言わなければいいことを、律儀で筋の通っていないことが大嫌いなゾロだからここの結末は易々と想像できたのに。
やめて、と口にしても気が済まねェと頭を上げないゾロにほとほと困った。その間にも、何にも知らない陽光は美しくゾロのつむじを照らしている。淡いひかりに包まれた緑の髪の毛は草原みたい。ここにお花を乗せたらきっと可愛くなるわ。何て今思うことではないことを想像して、心の中でくすりと笑った。

「ゾロ、あなたのつむじって綺麗なのね。髪の毛も草原みたいで可愛いわ」
「……あァ?」
「うふふ、やっとお顔をあげてくれたわ」
「……」

無防備に寝ている女の唇を奪ったのだ。怒ったり、泣いたり。むしろ怒って殴ってくれたらいいと、そんな想像をしていたゾロだったからアリエラがこぼした柔らかな言葉にうわずった声をあげてしまった。
ばちっと合った青い瞳は、逆光だというのに美しい煌めきを放っている。こんなにも純粋無垢な女を襲ってしまった罪悪感に駆られてしまい、この上ない失態を犯した自分に舌打ちをした。

「てめェ…おれの話聞いてたのか?」
「ええ。私を襲ったって聞いたわ。でも、ゾロに体をどうこうされた記憶はないの」
「そりゃあ…お前、寝てたから」
「まあ…ゾロは私の体を奪ったの?」
「流石にそこまではしてねェ」

アリエラを色で例えるならば純白だ。白ではなく、純白。一切の汚れのない女。
生まれたての赤子のような無垢を。ひと指も触れることを許されない女神のような清らかさを、持っている。そこを黒く汚してしまったのだ。度合いは違えど、キスも強姦もそこに黒を落とすという点では全く同じこと。そりゃあ、17歳でエトワールという美を持っているのだ。キスくらいしたことあるかもしれないが。そこにひどい嫉妬心が芽生えるが、責められる立場も義理もない。
黒く染めてしまったというもう戻らない純真に対しての謝罪は、あっけらかんとして捉えられた。

「キスしたこと?」
「…あァ」
「知ってるわ」
「は……?」

くるりと丸められ、震える灰緑の瞳が愛おしい。激しい動揺を抱いている彼に、自然と頬が緩んだ。逃げているだなんて、どの口が言ったのだろう。恋から逃げているのは自分なのに。ゾロのアリエラに対する罪悪感も、あの日の中味を知り、ひどく恥じて激流のように登ってきたゾロに対する罪悪感も同じものだと気がついて、これはあいこに丸めることにした。

「知ってるってお前…寝てただろ」
「うん、その数秒前に目が覚めたの。私もパニックになっちゃって、寝たふりを続けたけど…」

ちらりと見上げてみると、ゾロはみるみる顔を真っ赤に染めていく。
あの恋を落としたのも、口付けも、全て意識のあった中で行っただなんて。じゃあ、なぜ目を開けなかったと問いたくなったが、己が犯した失態にそんなこと言えるはずもなくグッと下唇を噛み締めた。
次いで、のぼるのは疑問だ。キスをしたことを知っておいて、彼女はなぜ怒らないのだろう。好意のない男からのキスをなぜ受け止めたのだろう。こればかりは“仲間だから”という域では済まされない問題だ。情けないが、微かに声を震わせながらこぼすと、アリエラは青い目の煌めきを揺らしながら綺麗に赤く彩られた唇をそっと開いた。

「だって、嫌じゃなかったんだもの」

鳥が歌うように綺麗な声が空気に触れた。冗談だと思い、顔を持ち上げると凛とした彼女が表情を崩さずに立っていた。冗談じゃないならその言葉に込められた意味は何だというのか。
自分に惚れている男が必死に愛を告げている姿を楽しんでいたのか。いや、違う。アリエラはそんな女じゃねェ。じゃあ──

「…てめェ、おれを同情してんのか!」
「……っ、」

アリエラは惚れられていることを知っている。思い当たる節がここしかなくって、どろりと浮上した単語に思った以上の重低音が空気を揺らした。鼓膜に触れた重さに、アリエラは顔を引きつらせて恐怖に震えた。
今、一体自分はどんな顔をしているのだろう。ただでさえ怖いと言われるこの顔はきっと恐ろしい形相を湛えているに違いない。ただ、惚れた女に同情される惨めな自分に腹が立ったのだ。自尊心がズブズブ抉られて、絡みつく海底に沈められていく。

「ど…同情なんて、してないわ」

小さな喉を震わせて、か細い声を絞り出した。
ゾロの気迫から逃げるように後退りをすると、太い木に背中がぶつかった。きゃ、と小さく悲鳴が上がった。この桃色の薄氷のような声にゾロを襲っていた負の支配もわずかに風に流されていく。

「ごめんなさい。本当のことを言っただけなの…ゾロ、ごめんね。またあなたを苦しめちゃった」

悲痛そうに柳眉を下げて、目尻に光を蓄えたアリエラにふっと一筋の風がさした。ひんやりとした風は体に絡みついていた熱を奪っていく。まるで、フィルター越しにみていた今の風景が一気に鮮明になって、己がこの女に与えた恐怖というものが嫌というほどに浮き彫りとなった。

「……いや、怒鳴って悪ィ。お前を怖がらせてェわけじゃねェし、悪いのはおれだ。だが…納得はいかねェ」
「納得…?」

アリエラが背中をつけている大木の葉が、さわさわと音を立てる。

「あァ。嫌じゃねェってのはどういう意味だ。おれに惚れてるわけでもあるめェし」

今日はバレエシューズを履いているから、いつもよりも彼の背は高く見える。少し頭を下げているゾロの鋭い眼光がアリエラを射抜いた。この瞳が大好きだと、今なぜかひどく実感した。真っ直ぐ前だけを見つめるゾロの瞳は胸を熱くさせるには十分だった。この人に愛されたいと強く思うと同時に、この人に愛されるのが怖いという思いもぶくぶくと這い上がってくる。
もう、手を伸ばしてしまったら後には戻れない。ここで、伸ばしてしまいたい腕を必死に理性で耐えて、自然ととめていた息を吐き出した。

「そのままの意味なの。…ただ、そのままの意味」
「……」
「…納得いかない? 私にも…上手く説明ができないの」
「わからん。そういう気分があんのか、女には」
「…ふふっ、」
「…なに笑ってんだ」
「そんな気分なんてないわよ。…ゾロだから嫌じゃなかったの」

ゾロだから、その一言に胸が高鳴ってしまう。さっきまではあんなにも粘着質な赤い感情が湧き出ていたのに、今はどうだ。この女に毎度ながら翻弄されてしまう。感情の針があちこち揺れて秋の空のように模様が次々変わっていく。

「……本当に同情じゃねェんだな」
「ええ。それは絶対に本当」
「じゃあ、今またしてェっつったらいいのか?」
「え……」

意地悪く口角が釣り上がっている。ぎろりと光る灰色は獣のようだ。
煽るようにゾロは木に片手を添えて、アリエラを逃げられなく壁となって前を塞ぐ。いわゆる壁ドンな状態にアリエラの心拍数もまた激しくなっていく。
まさか、こんな展開になるなんて…。目を逸らすな。と低く告げられ、びくりと肩を震わせた。きっと、今自分は恋する女の顔になっているに違いない。彼の瞳に映る自分は小さく、真っ赤薔薇のようだった。ばちっと目を合わせて数秒。ゾロは表情を崩して、木につけている手を緩めた。

「冗談だ」
「…いいわ」
「……あ?」
「…本当に嫌じゃなかったの。同情なんかでもない。だから、いいわ」
「…本気で言ってんのか、アリエラ」
「レディに二言はないわ」

武士かよ。と笑ってしまいたくなる節がいくつもある。だが、その目はあまりにも本気だったため、ゾロも少しほおを染めて悩むようにうなり。真面目な瞳をこちらに向けた。
アリエラも激しく高鳴る胸に息が上手く吸い込めなくなる。まるで澱んでいる重たい空気が鼻に抜けるようだ。同情なんかじゃない。だけど、ゾロの罪悪感が無くなればいいと思ったのは本当だけれど。

「二言はねェんだな。後悔すんなよ」
「しないわ」
「…本当にいいのか?」
「……もう、」

不器用なのに優しくって、また確認をとるゾロがおかしくてアリエラは緊張に張り詰められた心臓がほぐれていくのを感じる。ふふっと笑っていたけれど、彼があまりにも真剣な顔をするので、きゅっと唇を結んだ。

近づいてくる整った顔に息を止める。私、今変な顔をしていないかしら。きちんと可愛い顔をしているかしら。ゾロはそんなこと気にしない人だけど、好きな、人には。可愛い姿を見せたいもの。彼の長いまつ毛がわずか数ミリで感じられる。思わず目をつむると、嗅覚が研ぎ澄まされる。ゾロの濃いにおいが鼻腔をくすぐり、胸が締め付けられた。男らしい彼のにおいに頭は真っ白になり、意識した瞼がぴくりと動く。

ふっと低い声をこぼした彼の息がかかった刹那、唇は塞がれた。あつくて、柔らかくって、不思議な感触が唇から全身を包み込む。木につけていた手は、アリエラの小さな体を捉えてぎゅうっと抱きしめる。込められた腕の力、唇から送られる熱に全ての感情を乗せているようだった。
唇を一度離され、また押し付けられる。キスをしたことのないアリエラもゾロも、これが正解なのかわからなかった。だけど、ただ心が満たされさらに愛が募っていくからこれでいいと思えた。これから、手探りで見つけていけばいいとも──。

「アリエラ……」
「ん…っ、」

少し顔が離される。熱っぽいゾロの瞳が至近距離で揺れた。こくりと動く大きな喉仏に誘われるようにアリエラも息を飲み込む。頭がくらくらして正常な思考はまわせない。離れていくゾロの顔がにおいがさみしくて、白いシャツをか細い指で捉えた。
わずかに見開かれる瞳に光が差す。グッと噛み締められた唇は次第に血が滲んでいく。クソ、と零した低音は雄大なる大地に落ちて、有無を言わさずアリエラの唇に噛み付いた。側からみたらどんな風に見えているのだろう。

「…好きだ、アリエラ」
「…っ、ン」
「…おれの女になれよ」

強く抱きしめられて、キスの合間にこぼされた悲痛な願いはアリエラの鼓膜を甘美に揺らす。鉄の味のするキスに脳がじくじく溶けてゆく。白いシャツを掴む指は震えていて、だけど決して離しはしなかった。
ふわりと風が吹き、ブプレウルムがゆらゆら揺れた。


TO BE CONTINUED



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