99、ふたりの女神


「大丈夫かい? アリエラちゃん」
「ええ、平気。ありがとう、サンジくん」

少し足場の悪い道を歩いていたサンジとアリエラ。転けないようにと、サンジはアリエラの手を引いて歩いていた。これは彼にとってある意味口実のようなものである。恋人ではない女の子の手を引けるのには理由が必要だ。サンジは女の子が大好きだから、手を繋ぎたかったらいつものようにあのめろりんを出してするりと柔らかな手を絡め取ればいいのだが、相手は唯一恋を抱いている愛おしい女の子。常にクールを身にまとっていたい気持ちの方がずっと高いために、口実は必要なのだ。

平坦な道にまた戻り、惜しみながら彼女の手を離す。この柔らかなてのひらを自分のものにできたらどれだけ──。そんな思いが頭の中を駆け巡り、胸の内側にひっそりとした雪の粒を落としていく。考えないように、と頭に言い聞かせても心がこの子を意識するから考えないようにするには、そこに意識を向けなくてはならないのだ。考えない練習をしねェとな…。

「わあ、ここは綺麗に補整されているのね」
「そうだね。アリエラちゃんが転ける心配も減って安心だ」
「サンジくんは優しいわね。でも、大丈夫。私はああいった道も好きなの」
「へェ、アリエラちゃんは案外お転婆レディなのかな?」
「ええ、そうなの。エトワールの時は思わず走り出さないようにものすごく気をつけていたんだから」
「そっか、エトワールは上流階級を相手にするんだもんな。…大変だっただろ、気もねェ男どもを相手にするのは」
「私に触れることは禁止事項だったからそこまで嫌なことをされたことはないけれど…でも、きっともう無理ね。あの頃は何も知らなかったからできたんだわ」
「何も?」
「ええ。わたしはあの世界しか知らなかったから、外がこんなに自由だなんて思わなかったの。エトワールになる前はお稽古にお勉強、エトワールになってからは相手様の下調べに変わらずお稽古。自由な時間なんてなかったから」

長いまつ毛を伏せるアリエラをサンジはじっと見つめる。16歳の女の子の日常にしてはあまりにも過酷だ。労わるように、低く、すげぇな、アリエラちゃんは。とこぼした。

「すごい?」
「そりゃすげェよ。本当に想像できねェほどに過酷な日々だっただろうな」
「ふふ、お師匠様がとおってもスパルタだったからそこは。でも、彼女が色々指導してくださったから私はエトワールになれて自由を手に入れられたんだもの。とっても幸せな日々だったわ。私よりもサンジくんの方が大変そうだけど…」
「おれ? 確かにあのジジイも至極スパルタだったが…」
「おじさまよりもお客様の方。変なお客様がたまにいらしたでしょう? 私なんて微笑みひとつ浮かべたら鼻の下を伸ばされて終わるんだけど、きっとそうはいかないでしょう?」
「ああ…変な客は確かに山ほどいたな。おかしな話だが、地位の高ェ奴らや貴族だと自称してる連中ほどその比率が高かったよ。偏見してるわけじゃねェが、気品っつーのは偉くなっても王様のマントみてェに羽織れるもんじゃねェから顕著に目立ってな」
「貴族…。そっかあ、サンジくんもそういう人たちのお相手もたくさんしてきたのよね。大変だったでしょう? お疲れ様」
「ありがとう。大変なこともたくさんあったが…おれは学びてェことをあそこで全部学べたし、小っ恥ずかしい話だが親の愛情みてェな温かさも生き方も、あのクソジジイから教わって…色々あったがすげェ楽しい日々だったよ。そして何よりあそこで絶世の美女アリエラさまとナミさんに出会えたんだ! 幸せ者だなあ、おれァ
「ふふ、うん」

ふっとした時、本当にたまのたまに。一瞬闇を見つめるような瞳を照らすサンジのことが少し気になっていたのだが、昔の話に嘘偽りのない幸せを伺えてほっとした。ひだまりが空色の瞳に溶けていて、アリエラの胸もあたたかくなる。
こんなにも温かく優しい男性を育てたゼフにもまた、そのぬくもりを感じられて嬉しくなるのだ。

「サンジくんのことをまたひとつ知れてよかった」
「おれも。アリエラちゃんがエトワールのころのお話をちょっと聞けて嬉しかったよ。よかったらまた話を聞かせてくれねェかい?」
「ええ、もちろん。サンジくんも。これまでのお話をたくさん聞かせてね」
「おう。アリエラちゃんにならぜひ」

ふたり、にっこりとした綺麗な笑みを浮かべあった。
彩度は違うけれど同じ色を持っているからか、雰囲気が似ているからか。とっても話しやすく甘えられる存在だとアリエラは思った。もっともっと彼のことを知りたいと素直に心底思う。
恐竜を引きながら少し先を歩くサンジの横顔を見上げてみると、空を写した瞳はオレンジ色の炎を宿し、まっすぐ前を向いていた。

それから程なくして、曲がり角が見えてきた。

「ここは随分とひらけた地なのね」
「そうみてェだな。獲物もいねェし…人でも住んでんのか?」
「恐竜のいる島に? 何だかロマンがあるわね〜」
「はは、アリエラちゃんは恐竜が好きなの?」
「ううん、特に好きなわけではないけれど…ほら、恐竜って大昔に存在した生き物だから何だかおとぎ話の世界にいるみたいでわくわくするの!」
「おとぎ話か。言われてみりゃ確かにそうとも取れるな。アリエラちゃんの発想、クソ可愛いね」
「ふふ? かわいいかしら」
「あァ、可愛いよ。アリエラちゃんはクソ可愛い」
「……嬉しい、ありがとう」

そう取るサンジに笑いながら、何気なくふと彼を見上げてみると真面目な顔でこちらを見つめていたから不意にドキッとしてしまった。いつもはおちゃらけた様子で、メロリンとした様子で、心底こぼすように告げるのだが、今回は雰囲気が恐ろしいほどに違って見えた。
たれ目の優しい瞳が射抜くようにこちらを差している。意志の強い、気高い瞳。綺麗に整っているその表情を一切崩すことなく、甘い低音をこぼした形のいい薄い唇。美しい人だとどこか冷静な頭が感じ取ったが、表面は冷静にはいられない。彼の瞳から愛の熱を微かに感じ取った気がして、慌てて思考を解いた。今、私は彼に対してなんて失礼なことを思ったのかしら。

エトワールの時、嫌というほどに愛を抱かれたからそこに敏感になっているのかもしれない。
彼は、彼らはあの人々とは違うのだ。地位や名誉など体裁を気にもとめず己の信念を胸に宿し、信念と野望に生きている者。そんな気高い彼らが──。アリエラはこれまでの癖が抜けない己を酷く恥じた。
申し訳なくって、彼から視線を逸らす。ずっと重なっていた視線がそれても、サンジは何も口にすることなくやんわりと口元を緩めただけだった。

ああ、可愛い…クソ可愛い。

ローズブロンドが陽光により金を帯びて輝く髪の毛からちらりと覗く頬は、ピンク色の薔薇の花が掠めている。自分を意識してくれている彼女がいじらしくて仕方がない。

「アリエラちゃんは、クソ可愛いよ」
「…サンジくんってちょっと意地悪だわ」

うわあ…。胸が抉られてしまいそうなほどに、今のは恋に響いた。
甘く囁いたらアリエラははっとして肩を揺らし、そしてもっと濃くした薔薇の色を頬に乗せて、ぷっくりと膨らませた。これまで、世の男たちはこの子のこんな姿を見てきたのだろうか。エトワールを演じていた彼女は、男心をくすぐる演技に長けているはずだ。もしかしたら、これもかつて魅了してきた彼らに使った技なのかもしれない。だけれど、瞳は本気で照れているように感じられて、またぎゅうっと胸が締め付けられる。
ああ──。もう一度、口の中で今精一杯の愛をこぼして、アリエラを愛でるのだった。


それからすぐ、まだ顔の熱も冷めないうちに道なりを曲がった先で二人は仲間とばったり顔を合わせることになった。

「あ…、」
「……ゾロ」
「……お前ら」

三人とも、固唾を飲んで足を止めた。
いつもは切れ長のゾロの瞳もくるりと丸められて、アリエラとサンジを交互見ている。ばったり出くわした驚きからゆっくりと思考が溶けて、次いで浮上するのは疑問だ。
狩り勝負だと称して二人、確かに一人ずつ森の中へと入って行ったのに、なぜコックの傍に芸術家がいるのだろうか。自分の気持ち、そしてきっと同じ心情を抱いているコックの気持ちを思い、ゾロはスッと目を細めた。

まるで、ココヤシ村でのデジャブだとサンジは思う。アリエラと立食を楽しんで、人に飲まれないように腕を組んで歩いていたところをあの剣士の鋭い瞳に捉えられた。あの強靭な目つきといったら。あの時は、アリエラに対して恋心を抱いていなかったためにすんなり彼女を渡すことができたが、今はそうはいかない。剣士の鋭い瞳から目を逸らしたら敗けると思った。だから、サンジはじいっとまぶたも動かさずに剣士を見据える。それは相手も同じだ。
この意味深な目合わせと沈黙を疑問に思ったアリエラは、桃色の薄氷のような声で二人の名を呼んだ。

「どうしたの?」

まゆと目尻を下げて、不思議そうに交互見る青い瞳にピンと張っていた緊迫の糸は力を無くし、自然と二人は彼女に瞳を下げていた。

「いや…なんでもねェよ、アリエラちゃん」
「…あァ」

二人、お互いを一瞥もしないでアリエラに告げると、これ以上おかしな雰囲気に持ち越さないようにサンジが「そうだ」と声をあげた。
ゾロとサンジは狩り勝負のためにこの島に足を踏み入れたのだ。女神をかけているという暗黙のルールはあるのだが…逸れそうになった意を元に戻した。ゾロも意図に気付いて、片手に引きずっている恐竜のツノを少し手前に引っ張る。

「「おれの勝ちだ!!」」

合わさった声に、二人もアリエラも驚いて息をのむ。シーンと静まり返った空気に鳥の鳴く声が美しく響き渡る。

「「お前の負けだ!!」」

もう一度、以心伝心を成した言葉か鋭く空気を満たしていった。
このままだと言い合いに発展しそうになったので、ゾロもサンジもぐっと言葉を飲み込んで証拠を互いに照らし合わせることにした。

「みろ! おれの獲物の方がでかいぞ!」
「何!? この勝負は獲物から肉何トン取れたか勝負だろ。明らかにおれの方がガタイはいいぞ!」

頭をきっちり揃えて並べてみると、体長はサンジの獲物の方が長いのだが体格はゾロの獲物の方がしっかりしていた。男の勝負にぽつんと残されたアリエラはじいっとふたつの恐竜を眺めている。

「ハッ、料理できてなんぼのもんだ。そんな全身骨だらけみたいな獲物…料理に使える肉は5グラムもない!」
「そんなスジだらけの肉が食えるか!」
「こんな小物で勝負しても仕方ない。ぐうの音もでねェ超大物を取ってきてやる!」
「あァ。今度はおめェじゃ手も足も出ないような超大物を取ってきてやるぜ!」

二人の意志の強い瞳はばちばちと火花が飛び散っている。
ここでアリエラが何か意見を言えばまた状況が変わってくるのかもしれないが、彼女は男の決闘に口を挟んではいけないものだときちんと心得ているため、何も言わなかった。正直、味がいいのが一番だわ。なんて格好のないことを思ってしまうが。

その時、ぐらりと大きく地が揺れた。木に止まり小休みしていた小鳥たちも慌てて空へと逃げていく。「きゃあ、なに!?」しゃがんでいたアリエラは、長い脚を伸ばして瞳を震わせる。わずか揺れを放ったあと、ドゴーンと腹を抉る轟音が轟いて、裸山が噴火をあげた。

「火山噴火なんてはじめて見たわ…すごい揺れね」
「大丈夫かい? アリエラちゃん」
「アリエラ、大丈夫か?」

またもや同時に同じ言葉を発して、二人は火花をぶつけ合う。
なに一丁前にレディへの気遣い見せてんだ。てめェはなにカッコつけてんだ。心でこぼした音なきそれを互いにぶつけていると、もう一度空気を突き上げて山はマグマを吐き出した。こんな時までバチバチしている二人が可愛くて、面白くて、アリエラが「大丈夫よ。ありがとう、お兄様方」とくすくす笑うと二人はバツが悪そうにふいっと目を逸らした。

「…よ〜し。次の噴火が勝負の終わりのゴングだ。それまでにゴーイング・メリー号に獲物を持ってくるんだ」
「あァ。望むところだ」

二度、マグマを噴き上げて怒りを見せた山を見上げ、サンジは笑みを含めた声をこぼした。提示した案にゾロも満足げに頷く。またはじまる狩り勝負に、アリエラはどうしましょう…と首を傾げる。

二人の邪魔はできないし、少し散歩しながらこのままメリー号に戻ろうかしら。ビビちゃんたちもそろそろ戻ってくるかもしれないし。とこれからの予定を整理していると、低い声が鼓膜を揺らした。

「おい、行くぞ。アリエラ」
「え、」
「あ、てめェ! なに勝手にアリエラちゃん誘ってんだ!」
「あァ? てめェの許可なんざいらねェだろ」
「アリエラちゃん、この島は危険だ。この気遣いのできねェ剣士じゃなくおれとまた素敵なランデブーをしようじゃねェか
「なにがランデブーだ。おめェはどうせ鼻の下伸ばしてアリエラの尻追っかけてただけだろ。このアホはほっといて行くぞ、アリエラ」
「アリエラちゃんには真摯に接してんだ。可愛いお尻じゃなく柔らかなおててを繋いでここまできたんだよ」
「なに…?」
「アリエラちゃんと仲良く手繋いだことあるか? この上ねェほどにやわらかい細ェ手…たまらねェ愛しさが胸を突くぜ」

黒っぽい怒りは、先程の噴火のように腹の底から湧き上がるが、みるみる眉間の皺が寄っていくことに自分でも気がつくほどに心は冷静だった。咄嗟に腕や手を掴んだことはあるが、手を繋いで歩いたことはない。アリエラといる時間はサンジよりもずっと多いのに、女を口説くことに手慣れた男にあっという間に彼女を絡め取られてしまいそうで焦りが沸き上がる。ここで、アリエラとキスならした。と口にしたら、サンジは…心配そうに交互見ているアリエラは一体どんな顔をするだろう。そんなことを考えてしまった自分を激しく恥じた。
順を踏んで辿り着いた行為ではなく、寝ている女を襲った行為だ。誇れるものでも自慢できるものでもない。アリエラに膝をつけて謝らなければならない行為だ。

眉を下げて交互見ていたアリエラも、思うことはあった。
サンジはどうしてさっきからそんな発言をするのだろうか。ナミやビビに向けるような他の女の子へのあの甘い愛ではなく、胸の奥にひっそりと咲いている一輪の花のような愛に戸惑いを抱いてしまう。ナミやビビがタイプで、私はそうでない。と言われたらそれまでだけれど、こんな感じでわずかな違和感を抱かずにはいられないのだ。

一方ゾロにも。一瞬苦い顔をしたのを見逃さなかった。もし、あの日交わしたキスのことで罪悪感に苛まれているのならば、そのことを告げてあげたくなった。気にしていないから大丈夫だと…。
サンジくんもゾロも。今の状態で二人きりになるのは少し緊張してしまう。積極的になったゾロにはきっと尻尾を振って絡め取られてしまいそうだし、サンジくんには少し変な意識をしてしまいそうで申し訳なさが心の邪魔をする。だけど、この太古に残された危険な島では二人は絶対に一人にはしてくれないだろう。変な言い訳もできないため、ここは運に全てを任せることにした。

「私のために争ってくれてありがとう だけど、せっかくだからじゃんけんで決めてほしいわ」
「「じゃんけん??」」

取り繕って、何事もないように告げるのはもう慣れている。心臓はどくどくと高鳴っている中、アリエラは花のような笑みを浮かべて頷いた。

「じゃんけんだったら公平でしょう? 勝った方に私はついていくわ」

じゃんけんするのか? こいつと?と不満そうな顔をしている二人にアリエラはトドメを刺す。
「私のお願いを聞けないの? お兄様方」
「「う……、」」

どちらも選べないわがままから生まれたじゃんけんなのに、頬を膨らませるなんて。なんてなってないレディなのかしら…。と自分自身に呆れてしまう。けれど、このおねだりは効果てきめんだった。ぐらりと心を揺さぶられたゾロとサンジは、一魂を込めたじゃんけんを繰り出した。
ゾロがパー、サンジがグーを出し、すぐに決着はついた。アリエラと同行するのはゾロだ。心の中でガッツポーズを取ったゾロだが、表面上ではただふんと笑っただけだった。

「アリエラちゅわん、獣なゾロの襲われねェよう気をつけてね」
「ありがとう、サンジくん」
「誰が獣だ! アリエラも返事すんじゃねェ!」

ううっと涙を流してハンカチを噛むサンジはいつもの様子でアリエラは少しホッとした。彼の発言にくすりと笑いながら、軽やかに手を振って別れ、ゾロの大きな背中を負っていく。


TO BE CONTINUED



1/1
PREV | NEXT

BACK