176、タイムリミットまで


「トニー君がおとりに?」
「ああ。あいつなら大丈夫さ。それより急ごうビビちゃん」

無事にMr.プリンスことサンジと合流を果たしたビビは、仲間を救うべく、彼とともに裏口へと向かっていた。話を聞くに、チョッパーはひとりでクロコダイルを撒くのだという。それはとても気がかりだ。もし、何かあったら……嫌な想像にどうしても傾いてしまう思考に胸を痛めると、隣でふっと笑った気配があった。そっと背中に触れたやさしい温度に、ビビは顔を持ち上げる。彼の優しい空色の瞳にハッとして、こくりと頷いた。
 そうだ、信頼しなくちゃ。仲間なんだもの。
この一味に出会い、旅をしてきた中でたくさんのことを教わってきた。その中で最もビビの心を震わせるのが「信頼」という言葉だ。砂漠を渡っている時にナミと話したことを思い出す。改めて信頼という言葉を胸に刻みながら走っていると、はたと疑問が浮かんでサンジを見上げた。

「そういえば、サンジさん撃たれたんじゃ…?」
「ん? おれが?」

先ほど、確かに子電伝虫で銃声とサンジのうめく声を聞いたのに。どこからどう見ても傷一つ負っていないように見える彼の姿に不思議に思い、訊ねると彼は楽しそうに「ありゃあ演技さ」とこたえた。


あの一部始終はすべてサンジが仕掛けたものだった。
ミリオンズの社員をすべて蹴散らしたあと。ひとりだけ手加減をし、意識を残していた敵を操りクロコダイルの思惑を攪乱したのだ。
銃声は空撃ち、うめきも演技。圧倒的な力の差を見せつけ、震えている傷だらけの男の首根っこを掴み、クロコダイルに偽の報告をさせた。

「ま、こんな上手くいくとは思ってなかったけどね」
「すごい、サンジさん。あの数のミリオンズをそんな一瞬で倒しちゃうなんて…っ!」
「いやあ もうビビちゃんのためなら何人だっておれが蹴散らすぜ」

えへへ、と目をハートにして蕩けているサンジのいつものテンションにビビの切迫した心もふんわりと癒されていく。それを彼も見破ったみたいで、「チョッパーも…、今頃逃げ切った頃だと思うぜ。奥の手を使ってな」とたばこを引っ掛けた口角を持ち上げてみせた。


サンジの言う通り、チョッパーは町の奥まで猛ダッシュすると、クロコダイルに追いつかれる前に路地裏へと潜り込み、身体を元のサイズに戻して表に姿を出した。奴が、目の前にいる。ビクっと毛並みを立たせて恐る恐る黒いコートの後ろ側を通ると、上から舌打ちが聞こえてきた。

「あの野郎……どこ行きやがった。Mr.プリンス…」
「……ッ!」

尖らせた瞳をギラめかせて、あたりを見回しているクロコダイルとばちっと視線がぶつかったが、膝丈もない小さな体はさっき奴に見せたものとは大違い。まさかあの“Mr.プリンス”と思うわけもなく、クロコダイルはすぐに視線を逸らしたためにチョッパーはドキドキ胸を高鳴らせたまま、ほっと安堵のため息をこぼした。



「ギャアアァアァァッ!!!」
「うアァァァアアァ!!!」

その頃、檻のなかではウソップとルフィの悲鳴がけたたましく反響していた。壊れた大窓から注がれる巨大な水の流れは、地下室中を満たしていく。絶え間なく小刻みに震撼する部屋の壁はまた崩壊を遂げ、外側からの水の圧にも押されてしまい、あちこちに穴が空いていく。
そのため、大凡20分とふんでいたタイムリミットがより縮まってしまって、頭を抱えたルフィとウソップはぐるぐるあたりを走り回ってこの状況を回避しようと足掻いている。

「どうしよう…もう10分もしないうちにわたしたち、この水に沈められちゃうわ」
「うあああッもう終わりだァ! ビビ早くしてくれェ頼む!!」

えぐえぐと泣き喚きながら懇願しているウソップにアリエラも目尻に涙をためながら、祈るよう手を組み目を瞑ると、ふわっとシトラスの香水の匂いが鼻腔を掠めた。
ヒール音が響くたびにぴしゃりと水が跳ねる。もう檻の中にすこしずつ水が入り込んできていた。

「こらーッ! このバカワニ!! かかってきなさいッ!!」
「ぬおっどうしたナミ!」
「ナミ? え、きゃあッ!!」

鉄格子まで近づいて、目の前にいるバナナワニにナミが大声を向けると、人間の言葉が分かる奴は怒りの牙をこの檻に向けて放った。大きく開かれた口は、たとえ鉄に守られていてもゾッとする。がちっと歯が当たると、衝撃に檻全体に振動がはしった。心臓までもがじーんと揺さぶられる感覚。脚も痺れたように震えて、アリエラは頭を抱えてしゃがみ込む。

「おい! 何する気だナミ!」

びびったろ!とすこしむっすり声をあげるルフィに、ナミはよろけかけた体を持ち堪えて、ふっと可憐で強気な笑みを浮かべた。

「あのワニを怒らせてこの檻を噛み砕かせるのよ!」
「お、なるほどそりゃ名案だ!」
「さすがナミ! わたしもやろっと」
「かかってこォォい!! このバカバナナーーッ!!」

すうっと大きく息を吸い込み、お腹から張り上げたルフィの声は水の勢いにも負けていない。もう一度ワニはこちらに狙いを定めて、唸りをあげる。けれど。ルフィの呼び方が気に入らないウソップは、ぴくりと肩を揺らして「や、違うだろルフィ」と呆れを向けた。

「バカバナナーーッ!」
「だァから! 違うってルフィ。だから、アイツの基本はワニでその頭にバナナがな…」
「なんだようるせェな!」
「あのな、例えばモンキーダンスってあるだろ? モンキーは動物だけどモンキーダンスは踊りでよ」
「このバカバナナ!!」
「人の話を聞け!」
「ばかばななぁ!」
「おまえもかよ、アリエラ!」

中断させられたことにむっすりしつつもルフィはウソップ論を振り切って吠える。癖で鉄格子に手を添え掛けた手をぺしんと払いながら、耳を傾けるように諭すと、隣でアリエラまでもが同じことばを繰り返すからウソップはぎょっと目を剥いた。
色々違うけれど、でも“バカバナナ”という名前が大変お気に召さなかったのか、バナナワニは先ほどよりも強く双眸を光らせて、低い唸り声を冷たい地に這わせた。

「きた……ッ!」

息をのみ、見張っていたナミが小さく悲鳴をあげる。
尻尾で瓦礫ブロックを薙ぎ払い、勢いをつけてこちらへと走ってくるバナナワニの獰猛な姿にきゃっと怯んだアリエラは、ゾロの後ろに回りこみぎゅうっと彼のコートを掴む。
潔いと思いきや臆病なとこもあるよな、この女。と半ば呆れながらもゾロはかちゃりと刀に手をかける。かち割られた瞬間、抜刀できるように。

けれど、もう一度この檻を喰んだバナナワニは突如悶絶しながら目を回し、数歩後ずさった。檻は、割れていない。見れば、バナナワニの凶暴で強靭な歯が全て欠け、割れてしまっていた。スモーカーを除く、全員の喫驚が一ミリ足りとも欠けのない鉄格子の中で響いた。

「な、何つー檻だァッ!」
「階段を噛み砕いた歯が…負けちゃったあ!」
「嘘でしょーッ!? こんなの鍵がなくてどう脱出しろっていうのよ!」
「ビビーーッ! 急げェェ!」

その間にも、浸水のスピードは止まらない。少し足を動かせばじゃぶ、と掻き分ける音が鳴るくらいにはもう満たしてしまっている。焦りが徐々に募ってきて、心臓がひやりと痛む。暑い国だけど、地下室になると熱気は届かなく、また水のおかげで身体もどんどん冷えていく。
このままだと本当に檻ごと沈められてしまう。冷静さを失わなかったゾロもこめかみに汗を浮かべていると、ふいに「おい」と、聞き慣れない低い声がピンと張り詰めた空気を揺らした。

「あ?」
「って! 何でてめェはそんなに呑気なんだ!」

声の持ち主、スモーカーへとゾロたちは目を向けると彼は水から避難するように上段であぐらをかいているから、「あ…わたしも移動しちゃお」とアリエラもひょいっとそこへ乗り上がる。力が緩やかに抜けてきていたからすこし、助かった。
横にきたアリエラを、スモーカーはちらりと見遣ったが気に留めず、続ける。

「お前らはどこまで知っている…。クロコダイルは、一体何を企んでんだ」
「ん? 何って…」
「…奴の傍にいた女。あいつは世界政府が20年探し続けた女だ。懸賞金は7000万を超える」
「ひ、ひえ…っななせんまん…!」
「クロコダイルと変わらない額じゃない!!」

淡々と紡がれた数字に、アリエラとナミはゾッと顔色を変えて身を包み込む。
確かに、リトルガーデンで密入されたときには不思議な能力で戦闘を妨げられたけど、それでもクロコダイルのように悪に満ちきった気配までは感じられなかった。それもカモフラージュなのかもしれないが。だから、世界政府が20年も探し続けている、という言葉にはあまりピンとこないでいると、アリエラの疑問を見破ったようにスモーカーは続ける。

「あの女がクロコダイルと手を組んだ時点でこいつはもうただの国盗りじゃねェ。放っときゃ世界中を巻き込む大事件にさえ発展しかねねェってことさ」
「世界中ってどういうことよ?」
「ちょ、ちょっと話がデカすぎんだろ…」
「ん……、」

想像よりもずっと規模の大きな話に、ナミとウソップは微かに身体を震わせている。スモーカーは隣のアリエラに視線を向けた。思惑を射抜くような鋭さに、アリエラの背筋はピンと伸びて、すこし怯んでしまう。

「傾国……お前の、」
「あいつをぶっ飛ばすにのそんな理由、いらねェよ!」

重たい煙を吐きながら、もう一度口を開いたスモーカーだったが、続く言葉を破るようにルフィが声を張り上げた。こちらに見せる顔は真っ直ぐ先を見据えていて、眉もひょいと強く持ち上げられている。
ルフィが見ているのは、国盗りの事情でもなければ世界政府の繋がりでもなく、クロコダイルという男ただひとりだ。

「……そうか」

揺るがない意志を持つ黒い瞳にこれ以上何を問うても無駄だと踏んだスモーカーは、視線を逸さず、でも続ける。

「で。ここからどうやって抜けるつもりだ」
「ん? うわッ! 太ももまで水がきちまってる!」
「うあぁぁぁあ! 死んじまうぅううぅ!!」

ふと見てみれば、太もも丈まで水嵩は上がっていて、ルフィとウソップは再び絶叫を檻いっぱいに響かせた。動くたびに重たい水の音が鳴る。脚もどんどん冷たくなっていき、能力者の力を絡めとるように奪っていく。

「ああなぁんか、力がぬけてきたあ…」
「ううわたしも、だめえ、だわあ」

上段に避難していたアリエラだけど、この状況で完全に水から避難するのは不可能で、その場にへなへなと座り込む。隣のスモーカーも表情には出していないが、同様に応えているようだ。
ぐらりと崩れたルフィの身体をウソップが支え、ぐずりと鼻を鳴らす。さらに水の勢いが増してきている気がするのだ。

「…ビビ、辛いでしょ? 時間がないのにごめんね」
「クソ…ッ。おれにもっと剣力がありゃァ、こんな檻……!」

焦りを浮かべながらも、ナミは時計を見つめて祈るようにドアへを視線を流す。ゾロも。己の非力さへの苛立ちに舌を打って、和道一文字にそっと手を添えた。
そのとき。

「──食事中は音を立てませんように…」

反対側の入り口からひかりがこぼれた。
響きのある低い声が、ごうごうと水の轟く部屋中を充す。ゾロが瞬時に反応を見せた次の瞬間。目の前を彷徨っていたバナナワニが下から突き上げられるようにして、宙を飛んだ。

「“アンチマナーキックコース”!!」

技名とともに、バナナワニの断末魔がどよめいた。
奴の巨体が水面に打ち付けられると、大きな水飛沫があがり、視界を曇らせる。ナミとアリエラの悲鳴、ルフィの気の抜けた声、ウソップの歓声、ゾロの短い笑い。それらが同時に檻の中に上がり、最後にふう…。と紫煙を吐く声が鉄格子の外でおちた。

「オッス…待ったか?」

もくもくと、指の間のたばこから立ち上る煙が金色の髪の毛を掠めた。
はっと息を飲む声が、各々から聞こえてくる。そうして、場の空気が明光に一変した。



TO BE CONTINUED 原作175話-109話



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