175、Mr.プリンス


『ヘイ、毎度。こちらクソレストラン』

響きのある低音。聞き覚えのあるフレーズに、クロコダイルは眉をひそめながら反芻すると、子電伝虫はつぶらな瞳をくるりと丸めて、にんまりと笑みを浮かべた。

『ヘェ。憶えててくれてるみてェだな。嬉しいねェ……』

おちょくるようなゆったりとした口調が紡がれる。クロコダイルはぷつりと小さな汗をこめかみに浮かべながら、微かな動揺を示した。脳裏に浮かぶのは、リトルガーデンでの出来事。

 ──ヘイ毎度。こちらクソレストラン。 
   ふざけてんじゃねェ バカヤロウ


あのとき、こちらからかけた相手は確かにMr.3のはずだった。声のやりとりはほぼしてないに等しく、認識は浅い。ふざけたのも最初だけ。あとは淡々と任務のやり取りをしたために、“この声”がMr.3のものだとばかり思っていたが。
先程のオフィサーエージェントとの会議。麦わらの一味全滅という虚偽の報告を為したMr.3を問い詰めたとき、確かに「電伝虫? 何の話ですカネ。私は“リトルガーデン”で電伝虫など使ってませんガネ」と驚嘆していた。逃れるための咄嗟の嘘だと判断したため、奴の水分を絡め奪い、この地下に葬ったのだが──。

「……」

それが例え、本当だとしても。疑問はまだひとつ残っている。

「(麦わらの一味なら五人全員あの檻にぶち込んだハズだぜ…。まだ他にいたってのか…!?)」

アラバスタへの航路途中に偶然麦わらの一味と出会い、顔をコピーしたMr.2のメモリーはしっかりと写真としてもおさめていた。麦わら帽子の男、緑髪の男、オレンジの髪の女、鼻の長い男、碧眼の女。そして、ペットのトナカイ。全員特徴があり、今幽閉されている者たちと誰かを間違えている筈もない。ペットは不在だが、人間の言葉を話すことはまず不可能であり、いなくても支障はきたさないと元々ターゲットを外していた。そして、Mr.2が一味を庇い、嘯いているとも思えない。
それじゃあ、残るは──……嵌められたのだ。リトルガーデンの、あの瞬間から。
稀に見るクロコダイルの思置く表情を、ミス・オールサンデーは茶色い瞳を揺らさずにじいっと見つめている。


動揺を浮かべる奴とは正反対に、ルフィたちにとっては大きな転機を迎え、絶望に塗られていた空気はすこし軽くなり、アリエラたちはぱあっと顔を明るく広げた。

「おい、聞いたか!?」
「クソレストランってことは……!」
「サン──ッ!!」
「ああーッ! 待てお前ら!」
「しーッ!」

あまりの好機に子電伝虫の向こうの彼の名を思わず叫びかけたルフィとアリエラの口を、ウソップとナミが慌てて塞ぐ。もごもごと動く口元を強く押さえながら、「あいつバレてねェんだよ!」「Mr.2が来たとき、部屋の中にいたでしょ?」と説明すると、ふたりは状況を飲み込んだみたいで解放する。

「うう、ごめんなさい。嬉しくってついお名前呼んじゃうとこだったわ」
「まったく……。でも、これは最大のチャンス!」
「ああ、おれたち何とかなりそうだぜ!」

この部屋が沈むまで残り55分。サンジなら十分だろ。とほっと安堵している中、ビビもどきどき高鳴る胸元をおさえて、サンジさん……! そうだ、サンジさんもトニー君もまだ外に…! と、蒼白い顔にどんどん血の色を広げていく。
一転した、明るい空気。それがふわりと通路側にも伝わってきて、ミス・オールサンデーはくすりと企むような、はたまた安堵のような、笑みを浮かべている。

「てめェ……、一体何者だ」

虎視眈々と見えない罠を仕掛けられたことに激しい怒りがクロコダイルの腹の中を掻き乱すが、それを押し殺し、極めて鷹揚に。けれど、ドス黒い声色で訊ねる。

『おれか? おれは……── “Mr.プリンス”…』
「そうか。Mr.プリンス……。今どこに?」
『そりゃァ言えねェなあ。言えばおまえ、おれを消しにくるだろ。ま、おまえにおれが消せるかどうか別にして易々と情報をやるほど、おれはバカじゃねェんだ。おまえと違ってな、Mr.0』
「……──」

まるっきり小馬鹿にするような物言いに、クロコダイルの額には立派な青筋がぴきりと浮かぶ。このおれを挑発してんのか…いい度胸じゃねェか。Mr.プリンスと名乗る男の姿を思い描いていると、檻の方から叫び声が轟いてきた。

「プリンスぅぅーッ! 助けにこいッ!!」
「プーリーンース!!!」
「助けておいッ!!」
「プリンス!!」

ヒーローを呼ぶようぶ助けを求める声は、受話器の向こうのMr.プリンスにも伝わったみたいで小さな笑い声が子電伝虫を揺さぶった。

『どうやら近くにいるみたいだな、うちのクルー達は。じゃあ、今から──……うおッ、!!』

短く鳴った銃声。うめき声。電波越しに伝わる音声は鈍いけれど、サンジが撃たれてしまったという想像がクルーの脳裏を駆け巡り、歓喜の空気は一気にまた絶望へと変わっていく。

『ハア、ハア……手こずらせやがって…っ。……、もしもし? 捕まえました、この妙な男どうしましょう』

声の主が変わってしまった。その後ろでサンジのうめく声が荒く紡がれている。ニヤリとクロコダイルは口角を持ち上げ、葉巻を吹かした。

「そこはどこだ。言え」
『はい。レインベースのレインディナーズというカジノの前です』

居場所を聞いた瞬間クロコダイルは子電伝虫を切り、大きなコートをふわりと揺らして歩きはじめる。先ずの場所は、サンジを狙ったカジノ正面ゲート。眠りに入った子電伝虫をポケットにしまいながらミス・オールサンデーも白いロングコートを揺らめかせて彼の後ろに着く。

「……“あの子”も幽閉したままでいいの?」
「おれが求めてるのは“女神様”じゃねェ。おさめた実の方だ。タイムリミットはあるがそいつなら死後でも問題はねェ。……まあ、その“噂”が本当だった場合だがな」
「そう」

ミス・オールサンデーは檻の中で小さな顔を両手で包み込んでいるアリエラに視線を映し、噂……。と心の中で呟きながら、こちらを一瞥もせずにただひたすら外を目指す男の背中をじっと見つめた。

遠のいていく黒いコートを、ビビもまた呆然と見つめながら「そんな……ッ、」と身体を震わせる。覗いた大きな光が、一瞬のうちにして握りつぶされてしまった絶望に檻の中のゾロ達も顔を引き攣らせたり、半泣きで頭を抱えたりしている。

「いやいやいやいやいやあーッ! プリンスゥ!!」
「あんのバカッ! 使えねェな」
「サンジぃぃいッ!」
「えんっサンジくんっ!」
「希望が……はあ、」

彼らの声を聞き、ビビははっと意識をこちらに戻した。
かたく閉ざされた檻を開くには、やはり。どう考えたって助けが必要だ。このバナナワニだって一人で倒せる相手ではない。ここで絶望に暮れている間にも、部屋は浸水し、戦禍は勢いを増していくばかり。動かなくちゃ。と決意を入れ直して、ビビは飼い主を眺めているバナナワニの視線を盗み、ミス・オールサンデーに連れられてきた裏玄関へと続く石階段をよじ登る。
さっき、バナナワニに破られてしまった階段は半崩壊していて所々に出っ張っている瓦礫に足をひっかけたり、掴んだりして段差を目指す。

「ビビ! なにする気だ!?」
「ここに、水が溢れるまでまだ時間はある! 外へ助けを呼びに行くの!」
「そうだ……、今のでサンジがくたばったとも思えねェ! ビビがサンジを解放できれば……!」
「そうだわ。外にはまだチョッパーがいるもの。きっとどうにかなる」
「ごめんね、ビビちゃん……。時間がないのにわたしたちのために」

そうだ、この状況だから視野が狭くなってしまっていたが。サンジはうちの三強のひとりだ。銃弾ひとつでやられる男ではないのは明白で、はたまた彼は策士な一面もある。もしかしたらこの裏に何か作戦があるのかもしれないし、まだ頼もしい仲間チョッパーだっているのだ。
無事に抉れた階段をよじ登り、段差に足をつけた王女の姿は光に満ちている。再び射した希望の光に一同は瞳を輝かせたが…。檻の前を、濁った風がふわりと横切って、ルフィとゾロがすぐさま反応を見せた。

「危ねェ! ビビ!!」
「え──、あっ、キャアッ!!」

立ち上がり、扉へと走り出そうとした瞬間。ルフィの切迫に反応を見せる間もなく、ビビは巨大な砂の渦に絡め取られてしまった。ギュウっと細首を締め付けるのは、金の鉤爪。喉を圧迫され、呼吸もままならないビビはもがくこともできずにそのまま高台から地へ引きずり落とされてしまった。
落下の衝撃に全身を強打した彼女は、頭から血を流し、そのまま気を失った。
しゅるっと音を立てながら鉤爪を自身へと戻したクロコダイルは横たわる王女を睨め付け、「くだらねェマネすんじゃねェ」としわがれた低音で怒りを露呈する。仲間の、ビビを呼ぶ切なる声が響くなか、部屋主の怒気を汲んだかのように水は勢いを増し、四方の大窓ガラスを割って奔流してくる。

「あああーーッ!! 水が溢れ出てきちまった!!」
「おいビビ!! 目ェ醒ませビビ!!」
「ビビちゃんっ! ビビちゃんお願い目を開けて!!」
「ビビ!!」

檻の前の瓦礫の上ぴくりともしないで、でもどくどくと鮮血を額から垂らしている彼女をクルーは必死に呼びかけるが、それでもまぶたを開けることはない。
重なる声を背中で聞きながらクロコダイルは再び歩き出す。

「そんなに仲間が好きなら……揃って仲良くここで死にゃあいいだろう。じきに水はワニのエサ場を埋め尽くしこの部屋を沈め始める。なんなら生意気な“Mr.プリンス”もここへ運んでやろう……死体でよけりゃあな」

青白く変わっていくクルー達の焦る表情を最後に一瞥すると、クロコダイルは嘲りを響かせて秘密の地下室を後にした。バタン、と豪快に閉められるドアの音に混じり、ルフィの怒りの咆哮が部屋中に轟く。なだれ込んでくる水の音にバナナワニの足音の振動。それらがビビの身体を激しく揺さぶって、彼女はふっと重たいまぶたを持ち上げた。

「あ…っ、ビビちゃん!」

よろりと起き上がる彼女の顔色は真っ青だけれど、相好は強く前を見つめている。背後にはバナナワニが近寄ってきていて、巨大な口を開き、ぽたりとよだれを地にたらしていて、この部屋はどんどん浸水していっているけれど。まだ、まだ、希望はちゃんとそこにある。

「……今まで、ずっと助けてもらったじゃない……ッ、見殺しになんて、してたまるもんか!」

こぶしに力を込めて、孔雀スラッシャーを回転させる。風を孕み、鋭利を尖らせた刃を振り返ると同時にバナナワニの口内に当てて切り裂くと、小さな血飛沫が上がり、奴は混乱を見せた。
痛みに大きな尻尾が激しく左右を這う。ジャンプしてそこに飛び乗り、背の高い頭まで駆け上がると段差まではひとっ飛びでたどり着ける距離だ。

「やった! バナナワニから逃れたわ、ナイス、ビビ!」
「ビビちゃんすごい!」

無事に階段に足をつけたビビだったが。バナナワニの怒りは止まずに、目の高さにいるビビの姿を捉えると、奴は本能のまま彼女に向かって頭突きを繰り出した。
大きく揺れる室内。ビビの悲鳴。崩壊の音。そして、それに混じり窓ガラスの割れる高音が四方で鳴った。

「や、やべェ! このままじゃあと20分もしねェうちにこの部屋は沈んじまうぞ!」
「ビビ無事か!?」
「ビビちゃんッ! 大丈夫!?」

こぼれ落ちるように激しく奔流する水は、視界も鼓膜も飛沫で靄にしていく。
もくもくと砂埃の立ち上る、さらに半壊を遂げた階段の下には脳震盪を起こしたバナナワニが気を失って倒れているのが窺えたが、そこにビビの姿はない。
呼びかけると、高い場所で水色の髪の毛がふわりと揺れて、クルーは安堵の表情を浮かべた。頭突きを受けたとき、崩れていく階段からジャンプして先に飛び移り、難を逃れていたみたいだ。

「みんな! もう少しだけ我慢してて!! 必ず助けを呼んでくるからっ……私は絶対にみんなを見捨てたりはしない!!」
「おう! 頼んだぞビビ!!」
「ビビ……」
「ごめんね、ビビちゃん……」


命を託してくれたクルーたち。ビビは牢固たる表情で彼らに向けてことばを紡ぐと、踵を返し光の先へと駆けていった。




「──…これは一体………どういうことだ……?」
「さっき隼のペルにやられた社員達と足して…これで全滅よ。この町にいたミリオンズは」

カジノ店内を通り、英雄としてレインベースに顔を出したクロコダイルはゲート前の光景を目の当たりにし、立ち尽くした。あまり感情を表に出さないミス・オールサンデーは淡々とこぼすだけだが、隣の男はコートを激しく揺らして怒りを見せた。

Mr.プリンスにトドメを刺し、死体として麦わらの一味の檻のもとに運んでやろうと企んでいた、その計画は泡となって潰えてしまった。50人以上のミリオンズたちはみな残らず、血を流し倒れてしまっているのだ。

「オイ、何が起きた!」

苛立ちながら、転がる社員を足蹴りにして起こす。目を覚ました社員はクロコダイルの姿に驚愕を見せたが、漂う殺気にぶるりと背筋を震わせて口を開く。

「み、Mr.プリンスと名乗る男に、」
「……捉えたんじゃねェのか? そいつはどこへ行った!?」
「あの男なら……っ、町の南の方へ…、」

南……。反芻しながら顔を持ち上げると、その方角の街角に不審な影を見た。青いフードを身につけた、大柄の男。顔は見えないけれど、クロコダイルの視線に気が付くと彼はびくっと肩を震わせて逃げていくからクロコダイルはフッと不敵な笑みを描き、己の体を半分砂に溶かしていく。

「雑魚が……。おれから逃げられると思うなよ」
「放っておけば?」
「黙れ。今まで全員殺してきたんだ、このおれ様をコケにしてきた奴らはな」

砂となり、身軽となった身体を飛ばしていってしまったクロコダイルの背中をミス・オールサンデーは呆れまじりに見つめていると。背後で建物の崩壊するような轟音が轟き、大きな揺れが地を走った。

「な、何だ!?」
「レインディナーズへの掛け橋が落ちたぞ!!」
「なぜ急にこんな……!」
「どういう事だ! 原因はなんだ!?」

ざわめく人々の声。見やれば、巨大な白い橋は粉々に破り砕かれていて店を囲むように張っている水面に浸水してしまっていた。爆発音も何も聞こえずにうまれた突然の破壊。頭を抱える人々が入り組む中、ミス・オールサンデーは橋の向こう側、カジノの入り口前でゆらりとなびく紫煙を見て、そのまま視線を見えなくなってしまったボスの元へと戻した。


カジノ店内も橋の騒動に混雑している。ゲームを楽しんでいたお客たちもみんな席を立って、焦りを浮かべていた。人々が波のように押し寄せてくる中、深くフードを被り目立つ髪色と顔を隠したビビははっと立ち止まる。

「橋が、落ちた? そんな……っ、外に出られないの!?」

茶色い瞳を大きく震わせて、うっすらと覗く光の方へと駆け出したとき。

「出られないんじゃねェよ。あいつらがここへ帰って来れねェのさ」

よく憶えのある穏やかな低い声が届いた。そして、たばこの匂いが鼻腔を掠める。見やれば、この状況のなかでひとり優雅に椅子に腰を下ろし、スロットを操作しているスーツ姿のまるい金髪がさらりと揺れた。

「全て作戦通り」
「……! サンジさん……!!」
「今、チョッパーが囮になって町を逃げ回ってる。急がなきゃな。反乱も始まっちまった」

一度、潰えてしまった希望の光が再びビビの前を明るく照らす。瞳いっぱいに涙を張って、歓喜を絞り出すように彼の名を叫ぶと、サンジはサングラスの奥の瞳を撓めながら鷹揚と席を立った。

「場所を教えてくれるかい。プリンセス」

その瞬間、スロットが揃い、ジャックポットのファンファーレが混雑の淀む店内に鳴り響いた。


TO BE CONTINUED 原作174話-108話





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