153、斜陽


「ビビちゃんにそんな危険なこと頼めねェよ!」
「そうよ、無茶よ!」

砂ゾリを整えながらビビに同行を促したラサに一瞬空気は重たくなったが、サンジに続きナミの明朗な異議に緊張の糸はするりと緩んだ。その間でもビビは眉間に険しいしわを作っていて、言葉なくとも「試されている」という硬い意図が伝わってきて、ぎゅうっと拳を作った。

「いいわ。私が着いていく」
「ビビ、いいの!?」
「ええ。このソリは操縦が難しいからきっとルフィさんには操れないわ」

ナミの弾けるような声にビビはいつもの穏やかな調子を取り戻し、こっくりと頷いた。
砂ゾリという乗り物に元々興味津々だったアリエラも、すこし気がかりが心に乗って同行を挙手すると、反対してたサンジも「うーん、じゃあアリエラちゃん。絶対に無茶しねェっておれと約束できるかい?」と折れて、三人でメリアスへと向かうことに決行した。



「へえ、これで動くのか。どうなってんだ、これ」

砂ゾリの中に入って、ルフィは不思議そうに装備を触ったりして見つめている。
本当に海原を走れそうなほど、水面に浮かべるそれとよく似ている。今は横たわっているが、先端にはマストと帆がついていて、操縦するときにこの帆を立てて広げると推力に動作され、前方に進む仕組みのようだ。

「もしかして、これが昨日ビビちゃんの言ってたソリ?」
「ええ、そうよ。私が操縦するわ、昔やったことあるから。えーっと、確かこうやって…」

昨日、ビビから「スイスイ砂漠を横断できる乗り物がある」と聞いたことを思い出したアリエラは、へえときらり瞳に光を散りばめてそれを見つめていると、サンジから声がかかってふいと背後に顔を向ける。

「アリエラちゃん、お水ちょっと足しておいたよ。大切に飲みなね」
「わあっ、ありがとうサンジくん!」
「どういたしまして」

彼から水筒を受け取ると、ちゃぽっと涼しげな音が鼓膜を揺らした。それだけで一気に涼しくなった気がして頬がゆるむ。ありがたくリュックに入れると、「ルフィには内緒にな」と至近距離でいたずらにひっそり囁かれて、濃く鼻腔をくすぐるたばこの匂いに思わずどきっとした。

「船とあんま変わんねェな。これはこうやるのか」

サンジから逃げるようにくるりと船長に視線を向けると、倒れているマストを擡げているところで「あ、行かなきゃ」とサンジにお礼を向けたそのとき。
ぶわっと巨大な突風が一帯を突き抜け、ルフィの立てた帆が風を孕むと、彼をひとり乗せたまま、瞬くスピードで砂を駆け出してしまった。

「あっひゃあーーっ!」
「ルフィさんッ!!」
「えっ、ルフィくん大丈夫!?」

巨大な突風、ルフィの叫び声、ソリの発車、色々重なってアリエラは気付いてないようだが突風によりコートとともにスカートが巻き上がってしまったのだ。中に着ているのはもしものために備えた水着とはいえ、チラリズムというのは男心をくすぐり、目の前で目撃したサンジは真っ赤になって鼻を押さえ、ゾロも目を見開かせて頬をほんのりと染めている。

「あんたらねぇ…」

そんな二人にナミはじっとりとした目を向けて呆れをこぼしながら、アリエラの乱れた布を綺麗に整えようと手を伸ばした。

「あれ、なあに?」
「スカート、めくれ上がってたわよ」
「ええっ、なんで!?」
「風に靡いてた。もう、あんたちょっと抜けてるんだから…しっかりしなきゃだめよ?」
「全然気づかなかった…」
「でしょうね。はい、綺麗になった」
「わあ、ありがとう。ナミ」
「どういたしまして」

にっこり笑みを浮かべたナミに感謝しながら、アリエラはちらりと彼女の後ろに並ぶゾロたちに目を向けた。ウソップは関わりたくありません、な顔してそっぽ向き、鳴らない口笛を吹かせているが、隣のゾロとサンジは明らかに見ました顔。をしていて、わあ、と今更恥ずかしくなる。

「…気ィつけろよ、お前。ここにはエロコックがいるんだ」
「う、うっせェ! てめェだって鼻の下伸ばしてんじゃねェか、むっつり野郎が!」
「あァ!? むっつりじゃねェ!! てめェなんざ鼻血必死に耐えてたじゃねェか」
「そ、そりゃ…っ、このクソ剣士…!」
「あもううっさい!」

真っ赤な顔して明らかに動揺を見せるサンジにニヤつきながらゾロは腕を組み、フンと鼻を鳴らす。余裕そうに見える姿が憎く、ぐぬぬ、と奥歯を噛み締めているとナミからの仲裁が入り、サンジの機嫌は一瞬にして払拭された。
そうしているうちに、数キロ先まで進んでいたルフィが戻ってきた。風向きが逆で、そもそも熟知しておらず操ることもできないために、手押しで帰ってきたから汗だくだ。

「はあはあ、た、ただいま!!」
「無駄な体力使うなッ!!」

船長の行為に一気に熱も冷めて、ゾロとサンジもナミたちに合わせて彼にツッコミを入れた。
アリエラも困った顔をしながらも「おつかれさま」と船長の背中をやさしく叩き、ビビに促されてソリの窪みに身体を潜める。

「ハア、疲れだあ、水
「お水ね。はいどーぞ」
「ああッ、アリエラありがとーッ!」
「ルフィさんはそこで休んでて、ええっと確かここをこうして……キャアアアーーッ!!」

昔のことを思い出しながら操縦ロープを腰にくくりつけ、マストを持ち上げると、さっきのルフィのとき同様ものすごい風に押されて、三人を乗せた砂ゾリは飛ぶように発進した。
ビビの不慣れな操縦と悲鳴にラサは「ったく…」と眉根を寄せて、「ザハ、行くよ!」と綺麗に帆を持ち上げて滑るように砂へと漕ぎ出ていった。

「きぃもちなあコレ!!」
「ほんとッ! 最高ね

びゅんびゅん風を切って進むから呼吸もし辛いけれど、でも楽しさが勝ってふたりは歓声をあげている。ビビもすこし慣れてきたのか、左右に身体を傾けたり寄せたりしてうまくソリを操っていく。

「なあ、これ借りればユバにすぐ着くんじゃねェか?」
「砂ゾリは技術が難しいの! 一日で簡単に身に付くものじゃないわ!」
「ほんとむずかしそうだわ。絶対にルフィくんには無理よ!」
「お前失敬だなあ!」

風に靡く髪の毛を押さえているアリエラにルフィはつんと唇を尖らせてみせたが、ふと疑問を抱きビビに視線を移す。

「じゃあ、なんでビビは操縦できるんだ?」
「子供の頃にね、砂ゾリをもらって練習したことがあるの…っ、」
「へえ
「ビビちゃん、器用だからすぐに乗りこなしてそうだわあ。かっこいい」
「ふふ、ありがとう。子供の頃だったから好奇心が勝っちゃって、案外すぐに乗れるようになったの」

風にかき立てられるように彼女が回顧している砂漠は、花にも緑にも溢れ、オアシスもキラキラと輝き、人々も生き生きしている姿だろう。長く伸びる水色の髪の毛は悲しそうに波を打っていて、アリエラはそっとまぶたを閉じる。
あの頃のように活気あふれる国にまで再生するには何年、何十年とかかるだろう。街だけならまだしも、国にとってなくてはならぬ人々の心が癒えるまでに途方のない時間がかかりそうで、そっと胸を痛めるけれど、でもこの素晴らしい王女がいれば。彼女の小さな、けれど内側に大きな意志を抱えている背中をみつめて、アリエラも復興を願わずにはいられなかった。




「なあ、ルフィたちが帰ってくるまでおれ達はなにしとけばいいんだ?」

急に静かになった一帯。ぽつんとした砂漠を見つめながらチョッパーがこぼすと、船に乗り上げたバルバロッサがにやっと笑みを描いてマツゲを指差した。

「ラクダでも食って待つか?」
「サンセーーッ!!」

ノリノリで腕を持ち上げるのはウソップとサンジだ。ぎゃっと掠れた声をあげて身体を震わせたマツゲは乾いてきた瞳を潤わせて、ナミに甘えた声をあげて助けを求める。
ぷるぷるしてるマツゲをみてガハハっと笑うと、「冗談だ、冗談」とこぼし、震えているマツゲの頭を大きな手でやさしく撫でた。それにナミは「冗談に聞こえないっての」と目を眇めながらぼそっとつぶやいた。


船よりも、馬車よりも。厖大なスピードで砂漠を駆け抜ける砂ゾリに、アリエラも吹き飛ばされてしまいそうな恐怖を感じながらも、目にうつる景色が瞬く間に変わっていくのを愉しんでいた。ルフィも「うひょ!」と時々楽しげな歓喜を響かせている。

「あっ、ラサさんたちがきたわ! わあ、すごいスピード…! 本当に砂族一の砂ゾリ乗りなのね
「へえ、速ェなァ」

感心しながら後ろに来ている彼らを見つめていたが、ラサがぐっとロープを引っ張り帆をピンと張るとより速度をあげてこちらに距離を詰めてきたからぎょっと瞠目する。
すこしでも態勢を変えてしまったらぶつかりそうなほど接近していて、アリエラははっと声を震わせた。ぐいぐいこちらに近づいてくるから、この砂ゾリはいつの間にやら現れた巨大な流砂すれすれを走っていたのだ。

「待ってラサさん! 危ないわ落ちちゃう!」

アリエラの悲鳴にラサは目も合わせずにふん、と眉間にしわを寄せた。彼女が興味を持っているのはどうやらビビだけのようだ。操縦している彼女を一瞥し、器用に小さくソリを動かして、三人が乗っている砂ゾリに体当たりをし、蟻地獄のような流砂の中へと突き落としたのだった。

アリエラとビビの重なった悲鳴と、ルフィの戸惑いのうめきが広大で静かな砂漠に響きわたる。
一度この砂の滝に飲まれてしまっては這い上がることも困難だ。うっかり足を踏み入れて命を落とした人も多くいる。
誘うように波紋を打つ坂の滑り落ちる先は、真っ黒な砂の空洞。この黒い部分に吸い込まれてしまっても存在しているのは地底でも海でもなく冷たい砂だ。のっそりとのしかかる大量の砂に圧迫されては、もう力尽きるのを待つことしかできないのだ。

「うそっ、このソリ、全然動かないわ!」
「やだあっ、落ちていく…っ!」
「べっ、ベッベッ! 口の中に砂が入っちまった…ううッ、気持ち悪ィ…」
「ルフィくん、それどころじゃないでしょ!」

そりゃわかってるんだけどよ。と言いながらも、ルフィはそこまで危機を抱いていないようで、この状況よりも口に入った砂をどうにかしたいようだ。「アリエラ、水くれ!」なんて手を出してくるから「ないわよっ!」とぺっちーん手のひらを叩き返した。

「ルフィさん、お願い! この状況をなんとかして!」
「うわっすげェ! 上からどんどん砂が流れてきてるぞ!?」
「ここは流砂よ…! あの中に飲み込まれたらもう二度と外には出られないわ…ッ、」
「いやよそんなのーっ! 絶対に死にたくないわ、ううっ、なんとかしなくちゃ」

焦りは全身を巡って身体をひんやりとさせるが、ズリズリとどんどん穴の中へと近づいていくにつれて、手は汗にびっしょり濡れてしまう。半泣きで「どうしよう、どうしよう」って考えているアリエラにルフィもようやく危機を抱いたようで、「うん、」と首を捻りあたりを見回す。

そうしているうちにも下がっていき、負荷がかかったソリの後尾がばきっと嫌な音を立ててすこし欠けてしまった。粉々になって飲み込まれていく木材の姿は、近い未来の自分たちと重なって身体がぞくりと震える。

「ああっ、もうダメッ!!」
「はっ、衝撃波で風を起こせば反動で上にあがれるかもしれないわ…! ルフィくん、わたしの能力で風を起こすから、あなたは腕を伸ばして!」
「おし、わかった!」

アリエラの作戦を一気に飲み込んだルフィは、大きく頷いてぶんぶん肩を回す。

「ビビ、伏せてろ!」
「え、ええっ!」

落ちないよう必死にロープに力を込めていたが、もう限界だったため、何か這い上がる案があるのかしら。とホッとして頭を下げる。頭上にびゅーんと伸びる腕を感じながら、ビビはちらりとアリエラに目を向ける。
手のひらから薔薇の花びらを生んで、合体させてひとつの薔薇へと形成していっている。それは、ピンク色をした綺麗な薔薇の花で、落ちた椿のように美しく砂の上にこぼれてゆく。

「一度っきりよ、ルフィくん、ビビちゃん。祈ってて!」
「な、何をする気…!?」
「おう!」

10本ほど白薔薇と金薔薇を生み出したアリエラは、深呼吸をしてルフィに向かってこくりと頷いて見せた。


「おい、ラサ! やりすぎじゃないのか?」
「いいのよこれで! 待っても待っても来ないなら所詮、それまでの人物…ってこと」

落とすまではしたが、彼らが滑り落ちていったことに見向きもしないでソリを操っているラサにザバは焦りながらたしなめを入れたが、彼女はピクリとも首を動かさずにフン、と鼻を鳴らした。

「…ラサ、知ってるのか? あの水色の髪の娘のことを」
「ああ……。忘れるもんか…、あいつは…あいつらは…、」

ザバの問いかけに、ラサははじめてビビに対して感情的な姿を見せた。前方を見据える双眸は激しく尖っていて、黒い虹彩は憎しみに満ちている。ぎゅうっとロープを掴む彼女の拳が震えていることに気がついて、ザバはそっと後ろの彼らに哀れむような色を向けた。
そこで、小さな異変に気が付く。遠く離れてしまった流砂の元からこちらに向かって、何かが地面を這っているのが目に入った。
「ん?」目を凝らしてみる。砂の下で波をかき、蠢くそれはまるで蛇のように蛇行をしている。生まれてから今までずっと砂漠で生きてきたザバが見たこともない光景に目を見張っていると、動きに鈍さを加えたそれは、このソリの居場所を察知すると砂をかぎ分けて中から豪快に姿を見せた。

「いいいっ!?」

ザバの悲鳴にラサも目を見開いて振り返る。おっかなびっくりな表情を浮かべているザバの足元には自分たち以外の手があって、離さないようにぎゅうっと船尾を掴んでいる。そして、拳からぐーんと長く伸びるのは腕。一見心霊現象のそれに背筋が凍って、一度もバランスを崩したことのないラサの砂ゾリが不安定に左右に揺れ動く。

「よしっ、アリエラ掴んだぞ!」
「うんっ! “ヴェント・ミスティカ”!! そして“エーデルヴァイス”!」
「きゃアアッ!!」
「んんッ、」

ルフィの合図にアリエラがこっくり頷いて、左手の指をパチンと鳴らすとまず白薔薇が弾け、旋風を生む。ついで、今度は右手の指を鳴らすと残っていた金の薔薇が弾けて光の衝撃波を生んだ。その強い風に押されて、砂に半分埋まっていた砂ゾリはふわっと宙を浮き、そのタイミングでルフィが掴んでいた拳に力を込めて、自分たちをラサの砂ゾリの元へと引っ張り戻す。

「きゃあ!」
「ひゃっほーーっ!」
「ふふふっ!」

んと弧を描いて空を舞うのは気持ちがいい。アリエラもルフィもビビも、それぞれ清々しい風を肌に感じて楽しそうに笑っている。

「追いついたッ! 助かった、アリエラ!」
「それはこっちのセリフよ、ルフィくん」
「ほんと、どうなるかと思ったわ。ありがとう、ルフィさん! アリエラさん!」

飲み込まれていくときはもうダメだと思ったが、もう一度地上に這い上がることができて心の底から安堵したビビは、ロープをしっかり握り、今度はすこし警戒を抱いてラサの後ろに器用に着く。
彼らの不思議な脱出方法にラサもザバも目を点にしていたが、切り替えるように咳払いをしたラサによって、ぴりぴりした空気をまといながら一行は目前に見えてきたメリアスへとスピードを上げた。


砂漠の時間の移ろいは、大海原で感じるものよりもずっと早い。ついさっきまでおひさまがご機嫌に大地を照らしていたのに、メリアスに着く頃にはあたたかなオレンジ色がどこか寂しく砂漠をキャラメル色に変えている。

夕陽特有のうら寂しさに作用してか、それともこの大地が泣き声をあげているのか。メリアスはがらんとしていて、胸が締め付けられるような侘しさを漂わせていた。立ち並ぶ家々は全て砂嵐の手によって崩壊していて、かろうじて原型を保ち残っている小さな神殿があるが、今や神聖さも薄らいでいる。

「このオアシス、完全に砂に埋まってるな」
「ええ。ここもめちゃくちゃにされたのね…」
「…昔は栄えた町だったのよ」

ビビのひどく穏やかな声に違和感すら抱いてしまう。彼女はこの光景を見て何を思っただろう。砂ゾリから降りてメリアスの姿を見た時、わずか数秒ではあったが立ち尽くし、肩を震わせていた。もうエルマルでのような怒りを見せてくれない気がして、ルフィもアリエラも彼女から視線を逸らし、枯れ果てたこのオアシスをみつめる。

「ビビ、お前この町に来たことあんのか?」
「この町の人々から記念に小さな砂ゾリをもらったことがあるの」
「あ、さっきビビちゃん言ってたわね。子どもの頃に砂ゾリをもらって練習したことがあるって」
「ええ。ここは砂ゾリの産地だから。もうずいぶん前のことになるけど、父が国中を巡回したとき、私も同行してこの町に立ち寄ったことがあるの」
「──…私、ずっと待ってた」

幼きビビは国王軍の牽く馬に乗りアラバスタ全土の町を巡回するのを冒険だとおもい、胸を膨らませていた。五日目に立ち寄ったここ、メリアスで砂ゾリと一緒に同じ年頃の女の子から花冠をもらったことをうっすらと追憶していたら、その耽りを鋭い声が劈いた。はっとして、ビビは声の主、ラサに目を向ける。

神殿の柱に手を添えて、沈んでいく夕日を眺めているラサの背中は、さっき砂ゾリで追っていた時よりもずいぶん小さく薄く感じた。ぎゅっと締め付けられる胸の前に手を置き、ビビは薄い唇を開く。

「…やっぱりあなた、あの時の」

今ちょうど巡らせていた記憶のなか。もう10年以上も前のことだったから同い年の女の子の輪郭もおぼろげだったけれど、髪型だけは明確に覚えていた。すらりと背も高くなったけれど、風が靡かせる黒いボブは昔と変わらない。
ビビの言葉に反応を示し、すこしだけこちらを向いたときに窺えた鋭い瞳も相変わらず美しい形を描いている。

「…あの時、国王はこう言ったんだ。『このオアシスに何かあったら必ず駆けつける』って…。国はどんなに小さな声でも聞き逃さないって」

力を抜いていた手のひらにぎゅうっと力を込めて拳を作る。

「やがて、砂に埋もれたこのオアシスを捨て、町のみんなは一人残らず去っていった…。それでも私はここに残ってお前たちを待った。あの言葉だけを信じてずっと、ずっと。でも、王は来てはくれなかった…。もちろん、お前も」
「それは! あの頃から国のあちこちで同じようなことが起こって、王はその対策に毎日追われてて…」
「言い訳なんか聞きたくないッ!」

ビビが必死で紡ぐ言葉を、ラサは首をふり大声で阻止した。細くうっすらとした彼女の影が、夕陽に照らされて長くまっすぐ砂漠の大地へと伸びている。

「…この広い砂漠の真ん中で私はたった一人で待っていたんだ! 何日も何日も。そのうち、朝日と夕日の区別もつかなくなって…バルバロッサに拾われた頃には真昼の焼けつく暑さも、陽が沈んだ後の凍てつく寒さも…何も感じなくなっていた…──」

砂の上でゆらりと揺れる黒い影を見つめ、ラサは苦い思いを噛み締めながら瞳を閉じた。
本当は分かっていた。分かっていたのだ。今や国中が混乱に陥り、国王もきっとあらゆる対応に追われているのだと。だけど、一度深く信じた心はそう飲むこむことを強く拒絶した。
ラサはここ生まれ育ったメリアスが大好きだった。ここに住む人々もみんな家族のように親しく優しくって大好きだった。何よりも失いたくない場所だった。
だから、幼き頃の心には「国王との約束」がとても大きな意味を持ち、のちに徐々に異変に脅かされていくアラバスタ恐慌の最中でもラサの希望になっていた。
必ず王が駆けつけてくれる。きっと、このオアシスを救ってくれる。
けれど、手を差し伸べてくれたのは国王ではなく、国から外れて生きるバルバル団の船長バルバロッサだった。

今やバルバル団の中にすこし“日常”を見出せたけれど、心にはずっとずっと王家への不信と憎しみを抱き、ネフェルタリ家から彼らの治めるアラバスタ王国にまで恨みは蔓延ってしまっていた。
背中に王女の息遣いを感じる。今、お前はどんな顔をして私の話を聞いているのだろう。その顔を拝みたくなったが、ラサは拳に込めていた力をふっと緩めて、大きく大地を包み込んでいる斜陽を睨みつけた。まるで、この国の行く末のように思えた。

「…生きてるのが不思議なくらいだったよ。もうこの手を取ってくれないって分かっても頭の中には王の言葉が鳴り響いてる…」
「……、」

はっと息をこぼし、ビビは目を大きく見開かせ、震える手で口元を覆う。
彼女の気配にラサの肩の力もすっと抜けてゆく。硬らせていたからだを緩めると、急激に悲憤が全身を這いずって体温を奪っていく。ああ。とラサはすこし自分自身に安堵を覚えた。私もまだ悲しみに震えることができたんだ、って。そう思うと、今度は視界がじんわりとにじんでいく。

「ハア…。いったい何が私を生かしていたんだろ…。憎しみなの? 怒りなの? それとも、有りもしない希望だったの……? 一体何なの? 誰か教えてよ……、」

目の前の彼女の涙で濡れた声を聞いて、ビビは大きな瞳に波紋を描いた。己の非力さを知り、ぐっと奥歯を噛み締める。この国を救うつもりで故郷を後にした。必ず敵の所存を掴んで暴いてやろうとバロックワークスに入社して、ひょんなことから頼もしい仲間もできて、今や一日も早く国を救うことばかり考えていた。

国を離れている二年の間。国の人々はこうも苦しめられていたことを今はじめて目の当たりにして、目の奥に真っ黒な光が刺した。鼻の奥がつんとして、でも長く待たせてしまった彼女の前で泣く権利はない。

『良いか、ビビ。国とは人なのだ』

父の教えが頭の中で反響する。本当にその通りだと感心し、私はずっと心に刻んでいた。けれど、蓋を開けてみたらどうだろう。私は、国を大きく捉え過ぎていたのではないだろうか。一人一人に寄り添うということを知らぬ間に後回しにしようとしていたのでは…。

そう思案すると、喉のにあついものがこくりと通った。
憎しみに囚われている彼女の肩を抱きしめることもできない自分の情けなさに、彼女の心の傷の深さに茶色の虹彩が揺れ動く。救うつもりで、国民を傷つけてしまっていた。

「……ごめんね、」

そんな自分が今言えるのは、たった一つの謝罪だけだ。

「待たせて、ごめんね……っ、」

必死に涙を呑み込んで、華奢な背中にことばを送る。こんな謝罪ひとつじゃ彼女の心を癒せないことは分かっているけれど、でもそれしか言えなかった。今、国を救おうと最前線で動いていることは何の弁解にもならないし、でもだからこそビビの胸を焦がす想いは新たに生まれたのも確かだった。

彼女のように絶望に暮れている人たちのためにも、一刻もはやく、この命をも犠牲にしてこの国に平和を取り戻さなくては──。

ビビの震える声にすこしだけラサは肩を揺らしたが、なにも答えなかった。
必死で泣き出したいのを我慢しているビビの背中を見ていられなくて、ルフィとアリエラはそっと瞳を細めながら、深く憂愁を閉じ込めたような茜色をぼんやり眺めていた。


TO BE CONTINUED 98話



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