「ああああッ、あっぢィィィイイ」
大きく伸びる砂漠の地平線付近。マツゲに乗り、サクサクと進んでいったナミたちの姿がゆらゆらと揺れている。
時間を重ねるごとに、太陽は鋭利を増していく。
大海原でもそれぞれで過ごしていた町でも、どこにいても。必ず太陽は同じ場所でひかりを送ってくれていたけれど、それはいつもまどろむような柔らかいものだったから、こんなにも尖った光を持っているなんて想像にもしていなかった。
昼食を済ませたばかりでおなかもいっぱい。パワーも注入済みなのに、ルフィはもう限界を迎えていて、みんなの後ろでへろりへろりと舌を長く垂らしながら、鉛のように重たくなった足を必死に動かしている。
「悪ィな、ゾロ。この暑さはどうもな…」
「変な気遣うな。暑苦しいだけだ」
「アリエラちゃんは大丈夫かい? あんまり堪えてねェようにも見えるが…無理してねェ?」
「うん、平気。ありがとうサンジくん」
「ならよかった。お水ほしい時はいつでもおれに言ってね」
「あああーーっサンジい、水!!」
「ったくうっせェ船長だなァ。これはアリエラさま専用の水だ。お前にはねェよ」
「ケチーーーっ!」
口の中がカラッカラなルフィは“水”という単語にぴょんとセンサーを立てたが、すぐにサンジにそっぽを向かれ項垂れる。まだ樽の水が大量に残っているから水分不足なわけではないが、オアシスも枯れてしまったアラバスタの砂漠には補給ポイントもほとんどなく、水の量を慎重に計算しなければならないのだ。
水という単語を聞いて、ふと思い出すことがあった。ポケットからハンカチを取り出し、汗を拭いながら、アリエラは乾き切っている唇を開く。
「ねえ、みんな。砂漠の蜃気楼って知ってる?」
「砂漠の蜃気楼?」
「ああ、なんか聞いたことあるな」
先頭を歩いていたウソップが不思議そうに単語を繰り返し、アリエラの隣でサンジが脳裡の記憶を引っ張り出しながら頷いた。
「なんだそりゃ」とゾロもアリエラに視線を下げたが、行く道を見逃さないようにすぐにナミたちに意識を戻す。
「わたしも文献でしか見たことないんだけど、砂漠には不思議な蜃気楼が起こるんですって。暖気の上に冷気の層があるときに発生するのが下位蜃気楼なんだけど、その中に逃げ水っていう砂漠でよく見られる一種があってね。歩いていると忽然、前方にオアシスが見えるんですって。ゆらゆら揺れる綺麗な水場は砂漠では楽園。人々はそこへ縋るように向かうんだけど、でもそれは…」
「蜃気楼が作り出した虚像…ってわけか」
「うん。遠くに見えるオアシスに向かっても向かっても、距離は縮まることはない。それがまやかしだって気づかずに息絶えた人もたくさんいるって書いていたの」
「なんだそのやべェ話は! じゃあ、目に映るもの何も信用できねェじゃねェか!」
サンジの続けたことばに、アリエラはこくりと頷いてそっと瞳を細めた。それに、ウソップは炎天下のなか、ぶるりと身震いをする。
彼の青ざめた声色とは正反対にサンジは、「アリエラちゃん詳しいことまでよく知ってるなあ さすがだよ」と、恋に濡れたことばを紡ぐから、この温度差に本当に蜃気楼が起こってしまいそうな気がして、黙って聞いていたチョッパーはゾッと毛並みを逆立たせた。
「だがよ、そりゃまがいもんだろ。いずれ気付くんじゃねェか?」
「それがね、写真で見たんだけど本当にオアシスそのものだったの。写真で区別がつかないくらいだったから肉眼で見るともっとリアルに感じると思うわ」
「何日も砂漠を歩いてるともう果てがない気がしてくるだろ? こんなにも歩いてるのに何故砂漠から出られねェんだって精神がイカれちまう奴も当然いるわけだ。そんな心情の中、目の前にオアシスが現れたらよ、そりゃあ縋るように足を向けちまうんだよ。アリエラちゃんの言う通り、その時はもう脳が誇張して本物の楽園のように見えるんだろうな」
紫煙を揺らしながら、サンジは遠くを望むように眦を細めた。その綺麗な青い瞳は、バビロンの空中庭園のような不確かな惑わしのオアシスを探しているのだろうか。ちらりと彼を流し見たアリエラは、どうしてか盗み見ていることに気付かれてはいけない気がして、ぱっと瞳をチョッパーに移す。
その間、彼を荷台に乗せて引くゾロとバチっと目線が交差して、心臓がヒヤリとした。どうしてか、サンジくんのやさしげなタレ目に気付かれるよりも、ゾロの鋭い瞳に釘打たれた方が怖くないなんて考えて、でも追求すると知りたくない蓋を開けてしまうことになりそうだったから、アリエラはその思考を飛ばした。
サンジの言葉に、ウソップは「そう聞くとロマンはあるけどよ…いいや、おれは絶対見たくねェ!」とぶんぶん強く首を振って、同意を求めるように最後尾の船長に顔を向ける。
「なあ、ルフィ」
「そういや、やけに静かだな。こいつ」
「暑さにやられちまったんじゃねェのか?」
声をかけても返事はない。珍しいことに、ゾロとサンジも気になって振り返ってみる。
冒険の数はまだ少ないとはいえ、いつも元気溌溂でパワフルなルフィがこんなにも静かな状況をこれまでに見たことがなかった。顔は麦わら帽子のつばかげに隠れ、足取りも頼りない。ちょっと触ったらばたんと倒れてしまいそうなほど、彼の軸はブレブレだ。
「ルフィくん、大丈夫?」
「なあ…アリエラ、」
リュックの紐をぎゅっと握ったまま、アリエラも眉を下げて首だけ後ろに動かすと、ウソップのか細い声が鼓膜を揺らして、その意味にますます垂れ眉を顕著にする。
「やっぱり、」
「うあああぁあああぁあーーっ!!!」
だんまりだったルフィが突然、大声をあげて、両腕を空に突き出した。ゾロたちは脅かされたように体をびくっと跳ねさせ、心臓の鼓動をいつもより速くして船長を見とめると、いつもの健康的な顔色は蒼白していて、目もぐるぐる回っている。
「つ、津波だァァアアァアッ!!」
「えっ、」
「わっ、」
「何だ何だ?」
「おい、ルフィ! しっかりしろ!」
奇声を上げたと思いきや、砂漠ではありえない現象を叫び、犬が自分の尻尾を追いかける様子でその場をぐるぐる回りはじめた。相当パニックになっているようで、顔は汗でだくだくだ。
異様な姿にサンジも目を丸めていて、ゾロもチョッパーの荷台のロープから手を離して船長に近づいていったが、ぶんぶん振り回している腕には最大限の力が込められているに違いない。
これに当たったらちと厄介だな…。と、制御しようとした身体をストップさせた。
「やっぱさっきのがマズかったか?」
「うん…たぶん、」
「さっきのって何だい? アリエラちゃん」
眉を下げ、こそっと話し合っているウソップとアリエラに気がついたサンジが声をかけると、アリエラは困ったように小さな唇を開いた。
「それがね、ルフィくんったらサボテンを口にしたのよ」
「えっ、サボテン!?」
アリエラが紡いだ単語に真っ先に反応したのはサンジではなく、横たわっていたチョッパーだ。
「おれ達はやめとけって言ったんだけどな、喉が乾いてダメだって言うからそこらのサボテンを食べまくってたんだよ。なあ、アリエラ」
「うん。ルフィくんったらなんでも口にするんだから」
「サボテンってどんなサボテンだ?」
「ああ。あの丸っこいやつ」
むくりと起き上がったチョッパーは恐る恐るふたりに聞くと、ウソップの指差した方を見て驚きの悲鳴を上げた。
「ど、どうしたの? トニーくんっ」
「だめだぞッあれは…!」
「ん?」
「あれは“メスカルサボテン”といって幻覚剤を作るやつだぞ!?」
「んなァにぃッ!?」
「だからルフィくん、津波なんておかしなことを」
サボテンが生えているところには二、三個食べかけのそれが転がっていて、この量を食ったのか!?とチョッパーは瞳をわなわな震わせる。その間もルフィは「うわァアア!」と咆哮のような雄叫びをあげていて、もう姿の見えなくなってしまったナミたちの元にまで届いているのではないかというほどの声量を砂漠に響かせている。
「波が来るぞォォ!! もーー終わりだァァアア!!」
尖らせているルフィの瞳には巨大な波浪が映っている。目の前にずらっと横並びしている仲間達の後ろにはもう高波がきていて、ルフィは抗えぬ液体に対してチョッパーを乗せていた荷台を武器に構えた。
「うわッ!」
「きゃあっ」
「やべェアリエラちゃん! こっちに!」
「何する気だ、こいつ……」
手に持った木の板をブンブン振り回すから、チョッパーは涙目でゾロの後ろに隠れ、サンジは前に立っていたアリエラの腕をやさしく引いて自分の後ろに守り隠す。ルフィは力も強力であり、野生的だからこう暴れてしまったら手に負えない。
ウソップも身体をぶるぶる震わせて後ずさると、ルフィは波が全てを飲み込もうとするタイミングで勢いよく荷台を振りあげて、砂の上に叩き割った。
「“ゴムゴムのォォオ”!!」
「やべェッ」
「わあっ、やめてルフィくんっ!」
「おいおい、冗談じゃねェぞ!」
平静だったゾロもサンジも少し未来の現状を想像し狼狽えはじめた。
ここで強烈な技を繰り出されたら大惨事だ。下手したら重傷者を出してしまう。ゾロも刀に手をかけ、サンジも後ろにいるアリエラから一歩前に踏み出し、脚に力を込める。この一撃で船長が止まってくれたらいいが…。
一か八かにかけたとき、ピンと張り詰めていた空気が力を失ったようにふっと緩んだ。強張っていたルフィの表情が途端に力を失くし、目を伏せるのと同時にばたりと倒れ込む。
「え…?」
「ル、ルフィ…?」
半ば涙で濡れているアリエラとウソップの声がシーンとした空気を震わせた。
突然深い眠りについた船長のそばには注射器を持ったチョッパーがいて、みんなに向かってふんっと笑顔を見せる。
「麻酔打った!」
「ナイス、チョッパー!」
「はああ助かったァ。ったく死ぬとこだったぜ」
「本当に…」
危機一髪で止めてくれた船医にグーサインを送るサンジの後ろで、ウソップとアリエラは持ち上げていた肩をほっと下げた。
あのまま暴走技を繰り広げられていたら、ますますナミたちとの距離を離されていたところだ。一件落着したことにふとウソップはエースに声をかけようと、ぐるりと目線をあたりに滑らせるが、ついさっきまであったオレンジ色のテンガロンハットの姿はどこにも見当たらない。
「……エースは?」
そこで、ゾロたちも彼がいなくなったことにようやく気がついた。
ルフィのことで精一杯で全く気が付かなかったが、いつの間にかエースと逸れてしまっていたらしい。ウソップと同じように、見晴らしのいい四方に目を移しながら「さあ」とそれぞれ声を揃えた。
その頃、エースはルフィたちからずいぶんと離れた道を歩いていた。
「フウ…結構歩いたな。ナミたちは見えたか?」
テンガロンハットを少し持ち上げて、前を歩いているはずの弟たちに声を投げたが。前方には人の影は一つもなく、息を飲んで目を見開いた。直射日光を避けるためにずっと下を向き歩いていたせいだろう。いつ逸れてしまったのかさえも検討がつかない。
そういえば、とエースは思う。そういえば、今考えてみりゃあ…。ゾロが荷台を引く音も、サンジのアリエラを気に掛ける声も、ウソップのか細いうめきも、ルフィのうだうだも。何も聞こえない沈黙が続いていたような──。
「…なにぃぃい!?」
思案から一息置いて、エースは腹の底から焦りを吐き出した。
土地勘のないこの広大な砂漠で逸れてしまうのは少々致命的である。まずった…。はあ、と重たいため息を砂の上にこぼし、アテもないけれど、とりあえずは歩き出そうと再び動き始めた。
「おかげでずいぶん楽だわ、マツゲ」
「ブルゥッ」
一方ナミ達も、後ろにルフィ達の姿が見えないほどに前へと進んでいた。
ジリジリ焼き付ける太陽は痛く、座っているだけでも息が切れてしまうけれど、身体を預けて進む砂漠の旅はなかなかいいものだ。
頑張ってくれているマツゲの顎を撫でていると、ビビが不安そうに「大丈夫かしら」とこぼした。
「心配?」
「だって、みんな逸れちゃわないかしら?」
「足跡つけているんだもの。それを辿ってくるから大丈夫よ」
「ルフィさんたちは体力がありそうだけど、アリエラさんが心配だわ」
「ああ見えて体力あるわよ、あの子。さっきアリエラも自分で言ってたでしょ?」
「ええ。だけど…」
「もー気にしないの。私だってアリエラ残すのは気がかりだったけど、ほら考えてみなさいよ。サンジ君とゾロがいるのよ? 惚れた女の子に無理させるような二人じゃないでしょ。特にサンジ君なんてアリエラが疲れているのを彼女よりも先に察知してどうにかするに決まってるわよ。だから心配いらないの。いい?」
「ハイ…」
つん、とおでこを長い指で押されて、ビビはじんとするそこをそっと押さえた。
確かに…。アリエラさんのことになると二人張り合うように行動するような…。そう思い、それなら私と一緒にいるよりも安全なのかしら? と思考を楽な方へと持っていく。
緩んできたビビの表情に、ナミもほっと面差しをやわらかくする。
この子はほんっと人の心配ばかりするんだから。柳眉を下げて、マツゲに向き直る。
「さあ、いけ」とロープを強く握ると、マツゲは嬉しそうに鳴き声をあげて、細い脚を軽やかに動かした。