117.1、花のひかり


117話の夕方辺りのおはなしです。



偉大なる航路はおもしろいくらいに天候がコロコロ変わる。
一口もお腹に入れることができなかったナミのお粥を女子部屋からラウンジに持ち帰って、自分で食べようと火をつけたところメリー号は突風に背中を押されて、左右に激しく揺れながら前進を始めた。何事だ、と外に出てみると船がひっくり返りそうなほどの風が吹き荒れていて驚いた。つい、ほんの数分前までそよ風が肌を掠めるほどの心地の良い気候に包まれていたから。

帆を引くゾロに助力して、アリエラが三角帆を上手く風に合わせて、ウソップとビビの指示の元、船を動かすとメリー号は無事に突風海域を脱出することができた。ふう、とひたいを拭ったところ、お粥を火にかけていたことを思い出して飛んでラウンジへと戻っていく。普段こんなミスは絶対にしないし、ゼフに火の元のことは叩き込まれてきたのだが、航海士のいない偉大なる航路はあまりにも恐ろしく、転覆を防ぐためにすぐに駆けつけてしまったため火を切る余裕もなかったのだ。

「うわあ…黒焦げ…」

こんな失敗、幼少期以来だ。
なんて失態だろう。料理人としてあり得ないミスにひどく肩を落としてしまう。そりゃあ、船の転覆を防ぐためと言えど、それはサンジにとってただの弁解に過ぎない。あのジジイだったら、たとえ航海士がいない今の状況でも必ず火を切って外に出ていただろう。と思うと潜在的な部分ではまだまだ敵わないと悟り、大きなため息を吐いた。

「…まあ、食うけどよ」

例え、どんなに失敗してもそれが食材である限りサンジは絶対に完食すると幼少期の経験から誓っている。誰よりも空腹の恐怖と苦しみ、食べ物のありがたさを知っているから。サンジがこの世で最も許せないのが、女に手をあげる男と食料に感謝を払えない者、仲間を侮辱する者だ。
外はもうゆったりとした航海を取り戻していて、まずは一息つこうと煙草に火をつけた。煙草のストックももう少なくなってきている。次の島で買わなくちゃな…とロッカーの中身をぼんやりと頭の中で広げていたところ、ふと春のような柔らかい気配をドアの前で感じた。
アリエラちゃんだな。と頭よりも先に心が感じ取って、胸を高鳴らせながらゆっくり振り返った。

「サンジくん、喉が渇いちゃった」
「アリエラちゃん。うん、何がいいかい? お茶淹れようか」
「わあ、嬉しいわ。ありがとう」

にこにこ春のような笑みを浮かべる彼女は、サンジにとってまるで太陽のようだった。深い深い深海にまで強く突き刺す一筋の光。けれど、ギラギラしているわけではなく心を照らす穏やかさにどうしても春を感じてしまって、サンジの頬は自然と上がってしまう。

「アリエラちゃん、腰掛けててくれ。すぐ出来るから」
「うん。なんだか焦げ臭いわね?」
「あ、ごめん臭ェよな。換気してるんだけど、なかなか…外で飲む?」
「ううん。サンジくんと二人っきりでいたいからここで飲むわ」
「え……あ、はは。ありがとう。すっげェ嬉しい…」

これがナミやビビだったらメロリーン!と大喜びできるのに、相手はこの世で唯一惚れているレディーだから心のそこから、酷く嬉しくってニヤケてしまう。アリエラには見せられないからお茶の準備のテイで背を向けているが…。正面を向いたら恥ずかしくて死んでしまいそうだ。

もし、もし。天地がひっくり返ってこのおれが女性に無用で蹴りを入れるような男になるほど、世界がぐちゃぐちゃになるほどにもしのあり得ない世界で、アリエラちゃんがゾロと付き合うことになったら悔しいし、胸が痛むけど、惚れた女の子には幸せになってほしいから素直に祝福すると思う。まさか、この無垢な女の子がおれに惚れてくれるわけがねェから…どちらかと付き合うという未来は存在しねェはずだが、もしというのはどんな話でもつきまとうものだ。
その“もし”がくるまでこうして彼女との二人きりの時間を大切にしようと、最近決めたのだった。

っとどんな話をしようかな。アリエラちゃん相手だと、ドキドキし過ぎて頭が真っ白になることがある。彼女の大好きなジャスミンとウーロンのブレンドティーを淹れながら、そんなことを考えているから気がつかなかった。

「あら、」
「うわッ!?」

アリエラが背後まで近づいていたことに。急に愛おしい声が真横で飛んで、必要以上に体が飛び上がった。心臓はバックバクだし、顔は上気していく。サンジの驚きようにアリエラは大きな目を更に広げて少し前屈みにこちらを覗いていた身体をすうっと伸ばした。

「ごめんね、サンジくん! 驚かせちゃったわね」
「う、ううん…こちらこそごめんね。アリエラちゃんと一緒なのにちょっと考え事しちまって…」
「ううん、サンジくんは何にも悪くないわよ。謝らないで」
「キミはなんって天使のような笑みを浮かべるんだ…アリエラちゃんに触れるたびおれの心が洗われるよ」
「えへへ、そうかなあ。そんな嬉しいこと言ってくれるサンジくんの方が天使よ」

目をぱちぱちさせた後、照れ臭そうに微笑むアリエラがあまりにも愛おしくって胸が痛いくらいに締め付けられた。うっわあ…可愛過ぎだろ、この子。とどこか他人事のように呟き、荒ぶる心拍数に気づかれないようそれとなく声を発する。

「アリエラちゃん、この茶葉好きだろ? これはね、いつもみたいにそのまま飲むのももちろん美味しいけど、ミルクティーみたいにお砂糖とミルクを合わせてもまた違った美味しさを味わえるんだ。また今度試してみてくれ」
「まあ、美味しそうね じゃあ、今からお願いします」
「え、今からでいいの? …かしこまりました、プリンセス」
「わ、ありがとうプリンス
「ははっ、かわいいなそれ」

ミルクを足すなら茶葉を濃くしないと、と少しポットを揺らしながら彼女を捉えると頬を染めて小さくなっていた。え、なんだ…? 彼女のいうソラの色の虹彩をくるりと丸めると、その空気にはっとしてアリエラは慌てて顔を持ち上げた。

「さ、サンジくんって、何だか…わたしには少し意地悪…」
「え、そう? …アリエラちゃん、可愛いってのが照れ臭かったのかな?」
「ん…」
「うっわあ…おれの言葉で照れているなんて…クソ可愛いな、アリエラちゃん」
「…ほおら、こうやってからかってくるもの」
「あははっ、可愛いは本当の本心なんだけど…頬染めるアリエラちゃんもまた可っ愛いなあ」

煙草を器用に口だけでぷかぷかさせながら笑うサンジがひどく大人に見えた。ナミやビビには見せない反応をまた見せてくれて、変に意識をしてしまう。サンジくんってとてもずるい人だと思えば思うほどハートがばくばくうるさくってかなわない。

「だがよ、アリエラちゃん言われなれてるだろ?」
「…うん、」
「こんな美女だもんなあ…。ああ、もっともっと早くアリエラちゃんに出会えていればよかったぜ…っ」
「…うふふ。サンジくんにエトワールのわたしをあまり見せたくないわ」
「え、どうして? そりゃあもう…言葉にはできねェほどなんだろ? 拝みてェな」
「…サンジくんにはこのままのわたしを見ていただきたいもの」
「……うん。おれ、ありのままのアリエラちゃんすごく素敵だなあっていつも思ってるぜ。本当に無垢で綺麗な心を持ってて、うん。やっぱりキミの心も女神であり天使のようだよ」

そっと瞳を逸らして、逃げるようにコンロに目を向けるからそれ以上サンジは何も言えなかった。サンジの暖かな愛がじんわりと胸の奥をほぐしてくれるのをひしひしと感じる、この愛にどんな意味が込められているのかは分からないけれど、聖母というか慈しみを感じさせる想いを抱いていることは何となく察しがつく。彼がどんな幼少期を送ってきたのかは分からないけれど、たまに無性に光を求めるような瞳を一瞬見せるから、母親もしくは女性の親族と何かあったのでは、と勝手な推測をしてしまっていた。

真っ直ぐ射抜くように目を見つめて、心の底からそう告げてくれた彼に、悪事を働いていた男限定だけれど、美貌と愛嬌で夢を見させお金を吸い取っていたエトワールを見せたくはなかった。今でもよく覚えていて、トゲとして深く胸に刺さっている言葉がある。

『お前は愛を知らないからこんなことができるんだ! 頂点に立ち男を好き勝手にできるエトワールなんかに愛など一生分からんだろうな! 人の愛を踏み躙るお前なんかに本物の愛を渡す男などいるものか』

どうしようもない悪事を働いていた公爵から資産も名誉も地位も全て吸い取った後に吐き捨てた言葉だ。本当にその通りだと思った。みんなこの容姿と作った愛嬌を褒めてくれるし、恋して愛してくれる。エトワールを脱いだら、この身体を脱いで心だけが残ったら、これまで散々お金を叩いてきた者たちも途端に踏み潰すだろう。そうして、いくら相手が目も当てられない悪事を働いていた者でも、甘い蜜を吸うだけ吸って捨ててきたエトワールというのはアリエラの心にはずっと残っていて、17歳の本当のわたし、わたしの心を愛してくれる人が現れても決してこの汚い手で純真を掴むことができないと思う。それが、例え両片想いの相手ならなおさらだ。だから、恋はしないと自分に誓ったのだ。恋をしても、するだけで掴むことはしない、と。

綺麗な彼の瞳から逃げるように目を向けたコンロにかけられている一人用土鍋の中身は真っ黒焦げで、先程の思考は一気に飛んでいった。

「わ、サンジくんこれどうしたの?」
「え? ああ、それね…いや、弁解しても仕方ねェ…おかゆを温め直そうとしてそのまま忘れちまってたんだ。クソ…こんなミスするのガキの頃以来でむしゃくしゃしちまって…そんなところにアリエラちゃんが来てくれたからおれの心はスペシャルハッピーさ
「えへへ、嬉しい。でも、サンジくんの気持ちはよく分かるわ。こういう普段は絶対にしないミスをしちゃったらどうしようもなく悔しくってモヤモヤしちゃうわよね。自分は成長できていないんじゃないかしらって…」
「あァ。おれもさっき思ったよ。まだまだあのジジイの足元にも及ばねェんだなって…あのジジイならこんなミスは絶対にしねェ。料理人である以上、火に気を配るのは息するのと同然なくらい当たり前なことで自然なことで…。その初歩的にも満たねェ人として当たり前なことに細心を向けられねェなんて…」
「…サンジくんってすっごくかっこいい人ね」
「え、かっこいい?」

そういった要素は一切なく、ましてやあり得ない失敗の話をしていたのに…急に何を言い出すんだ、この子は。と顔を向けると、やはり女神のような笑みを浮かべているから余計に困惑した。
「サンジくんでもそんなミスをするのね」と、そう言われると思っていたのに、彼女はもう一度、耳にした言葉を咀嚼してから「うん、かっこいい」と頷いた。

「いや、どこがだよ…。クソ情けねェ男だろ、アリエラちゃん。このミスはアリエラちゃんで例えると完成した絵を間違えて破り捨てちまうような、本当にあり得ねェミスなんだ」
「破り捨てた絵は切り絵にできるわ。起点をきかせて組み立てなくちゃいけないからまた芸術の技量を身につけられるわね」
「え、ええっと…ごめん分かりにくかったかな、それじゃあ──」
「ううん、すごくよく伝わっているわ。サンジくんは忙しかったから仕方なかったって理由をつけるんじゃなく、あり得ないとされるミスをきちんと受け止めて、自分を叱責しているじゃない? それがすっごくかっこいいの。そこを仕方なかったって弁解する方ってとても多いのよ、認めるって簡単ように見えて誰にでもできることじゃない…。サンジくんは世界で一番強いコックさんね」
「……、」
「えっ、あ、あのごめんなさい……コックさんでもないのに上から目線でこんなこと言っちゃって…」
「…ううん…。…そっか、そう捉えてくれるのか…そうだね、失敗を認めて前を向くことって何をするにも大切なことだよね。アリエラちゃんありがとう、キミの言葉は正しいし、おれは正直救われた。多分、このことがずっと頭にチラついて集中できずにまた変なミスをするところだった。ありがとう」

わたしもよくするのよ。って困ったように笑うアリエラに光をまたもらって、胸がすとんと軽くなる。不意に泣きそうになってしまった。どうしてこの子はこんなにも──。
新しい気持ちのまま、茶葉をポットから出してお砂糖とミルクを絶妙なバランスで合わせていると、食器棚の前に立ったアリエラがスプーンを一つ取り出してまたこちらへ戻ってきた。この中身をかき混ぜたいのだろうか。だけど、それはカレー用のもので、え?と瞠目した。

「アリエラちゃん、そのスプーンデカくねェか?」
「そうかしら? どれ…」

ふわりと微笑んだアリエラは呆然してるサンジの前で、真っ黒焦げなおかゆをひと匙掬い取って、いただきます。ときちんと断ったあと、真っ黒なそれを口いっぱいに頬張った。
え…、?思考が追いつかずに、胸が激しい動揺を覚えた。え、待って彼女は何をしているんだ?

「おい、待てアリエラちゃん!  キミはレディなんだぞ!?  そんなもの食うんじゃねェ!」

ようやく溶けてきた脳が、目の前の事実をサンジの理解に送って、あまりの光景に少し乱暴な口調で制してしまった。頬いっぱいに頬張っているアリエラは嬉しそうににこにこしているが、唇はその酷さを表すように少し黒をひかれていた。

「ん おいしいっ!!」
「──!」

ふわりと心に風が靡いた。花と清潔なにおいが漂っているお部屋。緑色のカーテンと薔薇の装飾がついた大きな鏡。中央に置かれたベッド。その上に美しく優雅に佇んでいる最愛の人。
酷い雷雨だったあの日、サンジの夢と人生がはじまったあの日。
今思い返せば、弱っているあの人になんてものを食わせたんだと悔やむこともあった、とても食べられるものではないものを口にして、今目の前でニコニコ笑っているアリエラと同じ言葉を昔、母親にもらったことを思い出した。嘘だろう…アリエラちゃん。おれの過去を何も知らねェキミが…どうして、ずっと求めていた、また見せてくれと願ったはじまりの、愛の光景を見せてくれたんだ、どうしてこの子はこんなにもおれの欲しい言葉を、ものをくれるんだ──。

「さっすがサンジくん!」
「……ホント…?」
「ええっ!」
「……っ」

素材の味は全て消えてしまっている。匂いが舌に伝わってくる。苦くてえぐみがあって、お世辞でも美味しいなんて言えるものではないのに。

“母ならもう死んだ!亡き者の影を追うな!”
 
脳裏によぎる、父の糾弾。
違うんだ、おれはお母さんを追っていた訳じゃない…。おれはお母さんからもらった自分の生きる道を探していたんだ。いつか、おれの作る料理を食って、夢を与えてくれた人のように「おいしい」って心の底から笑ってくれる人が現れたらいいとずっとずっと願っていた。これまで、何千何万の人の舌を唸らせて、陶酔させてきたが……初めてあの日以来ほしかった言葉を聞けたような気がして。ああ、もうダメだと思った。今の一瞬のやり取りでもう戻れなくなってしまった。上がろうとすればいつでも上がれるつもりで泳いでいた恋は、まるで足を掴まれ海底に引きづり込まれたように逆らえずに深く深く揺蕩っていく。

“もし”なんて無理だ。死んでも来てほしくねェ……、おれは、おれは──。キミが…アリエラちゃんじゃねェとだめだ、もう…もう──。

「……ごめん、煙草取ってくる」
「うん。サンジくん、いつも美味しいご飯本当にありがとう」
「ああ……こちらこそありがとう、アリエラちゃん」

彼女に背を向けて逃げるようにラウンジを飛び出した。その間、アリエラは美味しいとパクパク食べ進めているから気が付くことなかったが、サンジのシャツは一部濃い色に染まっていた。外に出て冷気に当たると少し気持ちが落ち着くが、それでも甲板でわいわいしてるルフィたちに会いたくなくて、男部屋へと飛び降りた。

煙草なんて口実だ。スラックスのポケットから箱を取り出し、一本口に咥えると同時にまたボロボロ涙が溢れてシャツを濡らす。

「アリエラちゃ…、アリエラちゃん……ッ、」

ずっと包まれたかったあたたかな女性の愛。なんとなく母に似ているな、と感じていたけれど、今日を境に彼女の気配から母親の気配が完全に抜けていって、今やたった一人の大切な大切な唯一無二の恋しいレディになってしまった。潜在的に求めていたのは、母親のような女性ではなく光だった。
胸を突き刺すような、この光があれば生きていけると思えるような、そんな強く柔らかい光にもう一度包まれたかったのだ。この光だけはもう死んでも手放したくない。

「…アリエラちゃん、好きだ……っ、」

溢れて止まらない涙と一緒に彼女への想いをこぼしてみれば、胸の締め付けは少し和らいでいく。
彼は気づいていないのだろうか。その後ろ姿をハンモックで眠っていたゾロは徐に目を開けて、震える彼の大きな背中を見つめた。同じ女に恋する者だ、気持ちは痛いほどに分かるから茶化すわけでも声をかけるわけでもなく、彼の啜り泣く声を耳にしながらゆっくりと綺麗な瞼をもう一度閉じて己の気配を消したのだった。


 

TO BE CONTINUED



1/1
PREV | NEXT

BACK



×