20.非合理的な感情

 科学王国と司帝国の決戦は、和平締結という理想の実現を以て幕を下ろした。
 奇跡の洞窟は手はず通り無血制圧が達成された。直後に司と氷月が到着し、懐柔作戦のからくりと真実を暴かれ劣勢に陥ったものの、武力チームの抵抗、科学チームのダイナマイト開発により戦況を膠着状態へと押し戻した。
 その場で千空と司は約束を交わす。千空からは"妹"という希望を。司からは停戦を。
 約束を受け入れた司は何においても協力的であり、人が変わったかのように穏やかになった。元司帝国陣営の復活者たちも大きな衝突を起こすことなく、科学王国勢と交流を始めていた。
 ただ一人、氷月を除いては。
 裏切り、反乱。腹心のほむらによる奇跡の洞窟爆破。
 3700年とさらに幾年眠り続けた妹と引き換えに失われたのは兄の命。司は氷月の奇襲により致命傷を与えられ、その時を待つ身となった。
 彼を死から救い出す方法はただ一つ。かつて人類を滅ぼした厄災、石化技術の獲得だった。今わの際である彼の前で千空は誓い、下らないと一笑出来る会話を交わした後、冷凍庫による氷漬けという手段で彼の時を止めた。
 これは棺ではなくひと時の寝所だと、再三自身に言い聞かせ、千空は彼の妹に想いを継いだ。震えた声も、落ちたかどうかはっきりしない雫も、まとめてあの蓋の内に押し込めて。
 そして纏いつくのは虚無感。くべ続けていた目標という名の薪が尽きてしまっていた。もちろん在庫は山積みのままだが、腰を上げてそこまで次を取りに行く、そういう期間だった。
 明日から新生科学王国が本格的に始動する。では、今は何をすればいい?

*

「あ゙ーーーやる気が出やがらねえ」

 先日皮から紙に進化を遂げた設計図を放り投げ、千空は大の字になった。
 司帝国の本拠地、格子状に基礎が折り重なる天然要塞の一画。その原材料は3700年前の人工物であり、言葉とはなんとも矛盾を抱え込めるものである。
 足元に転がる着替えと思わしき塊を蹴り、寝返りを打った。遠く、誰かが活動する音がうっすらと耳に入ってくる。

(……今何してんだ、あいつ……)

 頭の中に空白が出来た途端、どこかから流れ込んでくる限定的な思考。千空が舌打ちして自身の状態に辟易する。何度目だろうか。
 だから手を動かすなり議論するなり、空白を作らないようにしなければならないのに。薪が手元のどこにもない。

(……ミカゲ。どこにいんだ、テメーは)

 和平を結んだあの日、自陣に帰還した戦士たちを迎え、彼女は短く彼を労った。そしてそれきり姿を見ていない。一気に増えた人員。環境の変化。氷月の反乱による事態の収拾。そういった要因が重なり機会がことごとく潰れていた。

(一目見りゃ、この気持ち悪さも晴れんのか?)

 会いたい。情けない。声が聞きたい。別に必須じゃない。今まで生きてきて、これ程真正面からぶつかることはなかった欲望と理性、あるいは意地。
 自分自身と争うことに慣れていない彼が出来るのは、ひたすら悪態をつくことだけ。

(あ゙ークソ、いい加減にしやがれ!あいつに関する物事の優先順位だのリソースの割合だのが上がる一方じゃねえか!これだから……これだから恋愛脳ってのは…!!)

 ここまで頑なに発することを避けていた単語。一つ心の中で叫べば、拒絶の壁が派手な音を立てあっけなく崩れていた。

「っ、ぁ……」

 呼吸を妨げる見えない"それ"が与えてくるものは苦しみだけではないと、彼はすでに知ってしまったから。
 痛い、熱い、切ない。信号を打ち出す脳または受け取る細胞のどちらかが深刻な不具合を起こし、それらを甘い快楽に変換してしまう。"欲"にはあと一歩成り下がらない衝動に、いつまでも耽っていたいと思ってしまう。

(……あ゙ぁ゙そうだよ。俺はミカゲに惚れちまって…こんなにも非合理的で煩わしいのは間違いねえのに……捨てたいとは1mmも思っちゃいねえ…!)

 眼前に浮かび上がるこれまでの日々と、その中で確かに築いた信頼関係。今彼を弄ぶ全ての源はそこであり、否定すれば何もかもを巻き込んで切り捨ててしまう。

(嫌だ…んなこと…了承出来っかよ!このまま意地張り続けて全部失っちまうか、全部の主張翻して笑いもんになるか……選ぶなら、いや、違ぇ、俺が選ぶのは、後者だ…!!)

 それが彼の結論であり、本心だった。

(そもそも俺はいつからあいつを…?はっきり自覚したのがあの晩ってだけで、実際はもっと前から……いや知るか、もう判明させようがねえだろうが、ここまでおめでたくバグっちまった回路じゃあよ)

 喉の栓は未だに外れていないものの、この感情に名を付けると同時に不快な淀みは引いていた。思わず乾いた笑いが漏れた。
 千空は再び仰向けに戻り、しばらく石の天井を睨みつける。それから右手の人差し指を一本立て、側面を眉間に押しつけてまぶたを下ろした。

(葛藤やら何やら、暇潰しに付き合えんのは今だけだ。非合理的なら分解して合理的に再構築しろ。把握してコントロール出来るよう制御点を探れ。…俺はミカゲを信頼してる。力を借りてえとも思う。逆もそうだ…頼られてえし、助けてえ。それすら認めねえからムキんなって順位押し上げてんだ…!)

 次は手の甲を当て視界を遮る。

(落ち着いたら正式に依頼して、もう一度補佐役に就いてもらえりゃいい。それで今俺が抱く願望とやらはまとめて叶う。…ククク…勝手知ったる人材が確保出来て一石二鳥じゃねえか。それに、姿が見当たらねえ時は仕事だ何だのと納得出来る。そうだ、理由がありゃ、例え不満が発生しても今みてえなレベルまで発展しやがることはねえはずだ…)

 そこで一旦動きと独白を止めた。

(問題は一つ…あいつの都合と心情を100億%ガン無視してるっつうことだ。あ゙ー…執着の先が人間以外ならどんだけ量注ごうが責められる筋合いねえのによ。……まあ、あいつはきちんと頼みゃ引き受けてくれっか…?)

 天井に映る彼女の微笑みの数々。

(やめろやめろ、頭お花畑になってんじゃねえぞ。明日からミカゲの問題は後ろに下げる。…大樹を思い出せ…あのデカブツは五年間、日常生活に支障をきたすようなヘマは一度もしなかった。なら俺にも出来んだろ?やりやがれ。……そうだ、俺はすでに変容しちまったんだ…だから異変が起きてもそれが現状だと流せ。いちいち過去と比較して動揺すんのは無駄でしかねえんだよ…!)

 かっと目を見開き、勢いよく起き上がった。見出し、認めた着地点。予測通りの実験結果が得られた瞬間のように、ある種の満足感が湧いていた。

「ようやく、か。あ゙ぁ…片付くじゃねえか、順に整理すりゃ。つか、他でもねえ科学こそ常に定説をブチ返し続けて前へ進むもんじゃねえか。それにどっぷりの俺が拒んで停止の挙げ句放棄してどうすんだ。…ったく、最初から俺に選択肢なんぞ存在しなかったってオチか……ククク」

 がしがしと後頭部をかきむしり、両の頬を一度強く叩き、千空は曇りの晴れた赤い瞳を空へ向けた。真っ青のそこは、応えるようにどこまでも広く広く続いていた。
 彼はまだ気づかない。
 この一連の感情が一人で生み出したものではないことを。
 始まりも、終わりも、彼が定めるのではなく外から唐突に飛び込んでくることを。



  

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