14.胡蝶の夢

(……?)

 まぶたを上げても眼前には闇が広がるばかりだった。
 まだ夜明け前なのか。千空はそう考えたが、一向に暗闇に目が慣れない。
 訝しみ、次は両手を上げてみる。動かした、という自覚はあったが、空気を混ぜた感覚がない。視界に何も映らない。

(!?)

 次は体ごと起き上がった、はず。首を左右に動かしたはず。腕を広げ、手当たり次第に探ったはず。
 五感がない。

(どこだ、ここは!?)

 立とうとしたのかぐらついたのか。今どんな体勢になっているか、分からない。
 思考だけがただただまともで。

(……石…化…!?)

 感覚は失われているはずなのに、脳脊髄液の温度が下がった気になった。

(秒数…クソ、どれだけ飛んだ!?いつ落ちた!?)

 ばちりと脳内によぎる画。緑、苔、岩、樹の根。
 そう、彼は確かに一度目覚めたはず。
 文明が滅んだ3700年後の世界でたった一人蘇り、友と再会し冬を越し、復活液を作り出し、もう二人を起こしたはず。
 人類の生き残りと出会い、村を訪れ、二度目の冬を迎えようとする"昨日"まで、ずっと石の世界で生きていたはず。
 はず。

(……夢……?)

 この暗闇がそうなのか。それともあの六百日全てが幻だったのか。
 分からない。分かるのは、今彼は闇の中独りきりということだけ。
 胸が不快なもので満たされはち切れそうになる。形も、色も、音も、重さも、何もかもを失っているはずなのに。

(覚めろ…っ、覚めろ!何だっていい、どっちが夢だろうが…!)

 いいはずがないのに。彼は願ってしまった。

(起きろっ……夢なら全部…覚めやがれ!!)

*

「……っ!!」

 がたん。聴力が戻っていた。

「はぁっ…はぁっ…!」

 じとりと湿る手の平。包帯を巻いた手首。ガラスが敷かれた机。それらが橙に染まっている。
 ぞわぞわと、悪寒が背筋を上っていく。冷たくなっていたはずの髄液の温度はどうなったのか。
 彼は石の世界に帰っていた。
 耳の中に何重にも響く激しい呼吸に思考を遮られる。赤い視界。夕暮れ。壁に並ぶいくつもの瓶。
 床に転がる丸椅子。座っていた、今まで。これは彼女と彼のために作ったもの。

(……スイ、カ……カセキ…!)

 村の少女、村の職人、そう、ここはラボ、石神村。
 そう、夢を見ていた。暗闇の夢、独りきり。
 誰もいない。

「……あ……」

 ここにもいない。目覚めてもいない。いつかのように、世界に一人。

(何で…!?)

 そんなはずがない。しかし音が聞こえない。取り戻したはずの感覚はまた奪われてしまっていて。
 そこにいるに違いない。幕の向こう、広がる世界の中。鉢巻を巻いた少年と、金の髪の少女。ずっと一緒だった。
 けれど、今は独り。夢が終わった時、必ず誰かがそばにいたはずなのに。

「っ……!」

 よろめきながら出口へ駆ける。
 独りは嫌だ。

(誰か……誰か!)
「きゃあ!」

 耳に届いた悲鳴。千空の視界が速度を持つ。
 彼は崩れ落ちていた。

「せっ、千空!?」

 今度こそ音が戻っていた。甲高い耳鳴りがそれまで全てを上書いていたと知る。
 ミカゲは飛び跳ねた鼓動に喉まで痛めながら、尻もちをついて呆ける彼に寄った。

「ごめんなさい、返事がなかったから…!ねえ大丈夫?千空、ねえ…!?」
「……っあ……あ…?」
「どこか怪我してない?こっち向いて千空、しっかり…!」
「……ミカゲ…?」
「そうよ。ぶつかりそうになったの、分かる?」
「…あぁ……そうか…」

 ようやく、ようやく冴えた意識。ラボの中でうたた寝をして、悪夢を見た。目覚めて気が動転し、出口に向かって駆けた。そこでミカゲと鉢合わせとなり、腰が抜けた。
 ここが現実。暗闇は夢。孤独はただの思い込み。
 どっと汗が吹き出し、彼は盛大に息をはいた。

「本当にごめんなさい。とりあえず…立てる?」

 ミカゲが手を差し出し、千空がよろよろと腕を伸ばし、重ねる。
 ぐいと引き上げたつもりだった。反対の手の平で地を押したつもりだった。
 しかし実際は千空の体はまるで動かず、予想外の重みに負けてミカゲが大きく傾く。

「あっ…!?」

 どさ。
 二人して床に倒れ込んでいた。
 衝撃をほとんど吸収してもらった彼女がいち早く状況を理解し、飛びのいた。

「たっ、大変!頭打ってない!?」
「………入んね……力…」
「えっ!?ほ、他の人も呼んで…!」
「っ…」

 服を摘ままれ、はっと彼を覗き込んだ。彼女以上に顔面蒼白。拒否する動作はあまりにも弱く。
 ミカゲの心臓が不可視の力に締め上げられていた。

(あ、ぅ……!…お、落ち着いて…落ち着くのよ…!)

 何とか自身に言い聞かせ、彼女は千空を気遣うだけの平静さを手繰り寄せる。彼と目をしっかり合わせ、動揺を抑え込んで語りかけた。

「まずゆっくり呼吸して……力を抜いて……そう。痛いの、残ってない?…起きて平気?次はちゃんと支えるから…」

 助力を受けながら、千空がやっとのことで上半身を起こす。うなだれ右手で顔を覆っていたが、視線に気づき多少我に返っていた。

「……あ゙ーーー……」
「大丈夫?まだどこか変…?」
「しつけえ…ガキじゃねえんだ、放っとけ…」
「千空……千空」

 強引と言える力で、追い払う仕草に移った右手を奪われていた。上下から包むように握られて、逸らしていた目を彼女に向ける。
 はっきりと伝わる意思。ややしてから撤回の意味を込めて指を押しつけた。互いの熱がわずかに増した。

「……ちーと夢見が最悪だっただけだ」
「そう…ありがとう。身体はいけそう?」
「あ゙ぁ」

 ようやくミカゲの悲愴な眼差しが和らぐ。温もりがほどけていく。

「……」
「……」
「…ねえ、千空。もう少しだけ…あなたに触れてもいい?」
「………なん、だよ」

 まだ下がった眉のまま、それでも嬉しそうに彼女が微笑んだ。かすかな物音と共に、彼の背後へ移動する。
 今だけは小さな背中。広い方が本当の彼だと、彼女はよく知っているから。
 年下の"この子"を庇うのではなく。長の"この人"に縋るのではなく。彼である"千空"を支えたい。
 心から、そう願う。

(……あぁ、私はきっと…あなたが……)

 肩口に両の手をそっと添え、腕に向かって撫で下ろした。角を通り過ぎれば、また始めに戻る。

「あなたは、誰かに頼るべきことと、一人で背負うべきことがあるのをちゃんと分かってる。でもね、私には…あなたが背負うと決めたことが、あまりに途方のない大きさに思えて仕方ないの…」

 次は、背中を下っていく。

「降ろせ、とは言わないけど…いつ休んでも、いつ誰かに手伝ってもらっても構わないのよ。私たち皆、あなたの力になりたいと思ってる。どうかそれを、頭の片隅に留めておいて…」

 動きを止め、少しだけ体重をかけて。手の平の熱が彼へと染み込んでいく。
 その温もりは、皮膚を通り、肉を抜け、骨を伝い、未来永劫居場所を突き止められないはずの心にまで到達する。

(……)

 不安が溶けていく。科学では解明出来ない、しなくていいと素直に思える人の力。
 初めて千空の唇が弧を描いていた。丸まっていた背を正し、天井を仰いだ。

「……あ゙ーー、ミカゲ先生のご高説に感動感動…お涙ちょちょ切れて止まんねえわ」

 まぶたを下ろし。

「ありがとな」
「!…どういたしまして」

 ぽんと最後に一押しして、彼女は腕を引いた。

「落ち着いたら来て。じきにご飯よ、皆で食べましょう」

 足音が遠ざかる。それでも、耳を澄ませば確かに聞こえる、誰かの生きる音が。
 次に夢を見ることがあっても、迷いなく否定出来るだろう。もう今は独りではないと。
 千空は今度こそしっかりと地を踏みしめて立ち上がり、裾の土ぼこりを払った。



  

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