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シュガースパイスパレエド


 フーゴはキレやすい。ナランチャはよくそう言うけれど、わたしは実際彼に怒りをぶつけられたことがなかった。それどころか、彼が怒りをあらわにするところだって見たことがない。それは彼が我慢をしているからなのか、もしくはわたしが奇跡的に彼の地雷を踏まずにいるからなのかは分からないけれど、兎に角、わたしはフーゴの怒りという感情に今まで触れてこなかったのだ。
 だからこそ、今こんなにも驚いているのだけれど。

 ただのナンパだった。大したことじゃあない。よくあることだ。ただちょっとだけ質が悪かっただけで、適当にあしらえば済む話だった。
 飲み物を買ってくるから、とフーゴがその場を離れて少しした頃に声をかけられて、まあ確かに少ししつこいし距離も近かったけれど、別に騒ぐほどのことではなかった。
 だから、わたしはフーゴが「ごめん、思ったよりも会計が混んで……」と言いながら現れたときにも、ああ、スムーズに彼らを追い払えそう、くらいに思っていたのに。

「オイ……誰だよ」
「フーゴ?」
「なんだ、恋人かい?」

 フーゴが波風立てずここからわたしを連れ出してくれるのだろう、そう思って差し出した手をぐい、と引っ張られ、よろけながら彼の背中へと移動させられる。わたしにはフーゴの背中しか見えないけれど、その声はいつもの数段低くて威圧的だった。あれ、これは一体誰かしら。間抜けにそう考えてしまうくらいに。

「お前今、この人に触ってたか?」
「ああ、あんまり綺麗だったから、ついな」
「ああ、ああ、そうだろうな……綺麗だ、なまえは。だからお前が触っていいような人じゃあないんだよ……」

 ぐつぐつ、ぶくぶく。まるで沸騰寸前の鍋が立てる慌ただしい音のように。ゆらりと揺れた彼の声にこれ以上無いくらいに怒りが込められている。
 もっとシンプルな「彼女は僕の恋人だから他をあたってくれ」くらいの一言で終わりだと思っていたのに。ナンパしてきた彼らも、フーゴがキレていることを察したのか、苦く笑って「愛されてるね」と言ってすぐに離れていった。それもそうだ、フーゴの声にはそれくらいの圧があった。

「フーゴ?」
「…………」

 おそるおそる、彼を呼ぶ。もしかして、ちゃんと拒否していなかったように見えただろうか、満更でもないふうに思われてしまったのかもしれない。そう思って段々と不安が濃くなっていく。
 けれど、振り返った彼の顔にはもう怒りは見る影も無かった。

「大丈夫でしたか?」
「う、うん。平気」

 むしろ「大丈夫か」と聞きたいのはわたしの方だ。そんなケロりとできるくらいの怒り方じゃ無かった。しかしもう既に彼は何事も無かったかのように買ってきた珈琲の説明を始めている。「こっちが君の。砂糖一つで合ってますよね?」なんて言って、こちらへカップを差し出していた。

「ありがとう、助けに入ってくれて」

 しかし、ここでさっきのことをまるきり無かったことにして会話を始めるのもおかしなことな気がした。わたしがお礼を口にすると、フーゴが僅かに気まずそうな顔をする。

「当たり前だろう、そんなの。……なまえなら自分で対処できるってわかってたけど、すまない、我慢できなくて」

 苦いものを噛んだような顔をしたフーゴが、そう言って視線を僅かに下げた。あからさまに「やっちまった」って感じをしているので、わたしは驚いた。
 フーゴって、本当に怒るのね。そしてそれを、きっとわたしに見られたくなかったんだわ。
 そんなことを考えて彼の顔をただじっと見つめていたら、何を思ったのか、フーゴが息苦しそうに数回呼吸をして、わたしの名前を呼んだ。

「怖かったでしょう、その、ぼくが」
「え?」

 驚きはしたけれど、別に怖いってほどじゃなかった。そう思って数回首を横に振ったけれど、それでもフーゴの表情は晴れず、ただ二人分の珈琲を持ったまま、切ない顔をしてわたしを見ていた。

「ちょっとびっくりしたけど、フーゴのことにちょっぴり詳しくなった気がして嬉しいわ」
「え?」

 実はずっと、あんまりナランチャがフーゴは怒りっぽいって言うものだからもやもやしていたのだ。わたしはまだフーゴのことを全然知らないって突き付けられているみたいで。きっとナランチャにはそんな気これっぽっちもないし、彼のことを嫌に思うわけじゃない。これはただの、自分の中の拗ねた子供みたいな感情だった。
 だから、どんな感情だったとしても彼に触れられたのならそれは嬉しいことだ。

「わたし、怖かったらきちんと怖いって言うし、嫌だったら嫌だって伝えるから、別に無理に押し込める必要ないのよ」
「そう、ですか」

 フーゴは驚いたふうに目をぱっちりと開いて瞬かせていたけれど、少ししたらふっとくつろいだふうに笑って、改めてわたしへ珈琲を差し出した。まだ珈琲はきちんと温かくて、この会話の間もそう時間が経っている訳ではないのだと思うと不思議だった。

「ぼくも、きみのことに前より少しだけ、詳しくなった気がする」
「いい意味だよね?」
「もちろんです」

 差し出された腕に、軽く掴まる。今日のデートでどれだけ沢山の新しい貴方を知れるのかしら、そう弾んだ声を漏らしたわたしに、フーゴがくすぐったそうに目を細めていた。



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