コンタクト
段々自分の生活圏が浸食されているのに気づいたのは、帰宅して、なまえが洗面台についた鏡スレスレに顔を近づけているのを見た時だった。
「……なにをやっているんだい? 瞼を間抜けな顔で引っ張って」
手を洗いたいからどいてくれよ。そう続けると、眉間にぐっと皴を寄せた彼女が振り返る。
「とれないの」
疲れ果てた、という表情でなまえがぽつりと言う。よくよく見れば洗面台には目薬や小さな鏡が散乱していた。そういえば、最近になってコンタクトを作ったのだと言っていたな、と思い出す。
「そういうのって、病院で練習してくるんじゃあないの?」
「した。したけど下手なの」
「きみって不器用だよなァ。壊滅的ってレベルで」
とにかくぼくは手を洗いにきたので、そのままなまえを洗面台の前からどかした。その間にも彼女は何度か瞬きをしてみたり、瞼を指先で引っ張ったりしている。
「コンタクト作ってもう暫く経つだろ。そろそろ慣れなよ」
「……露伴ってコンタクト?」
「いいや」
「うそ、漫画家なのに裸眼なの?!」
漫画家を一体なんだと思ってるんだ。ハンドタオルで掌の水分を取っていると、なまえが深く息をついた。ああ、だかうう、だか、兎に角怠そうに喉奥で唸って、また鼻先を壁の鏡に近づけている。
中指で瞼を引っ張りながら、逆の手で眼に触れているが、何時まで経ってもコンタクトが出てくる気配はない。そんなに時間をかけていたら十中八九目に負担がかかるだろうに。
「そんなに外れないっていうなら、ぼくが取ってやろうか?」
「無理」
親切心で言ってやったのに、びくり、と身体を震わせて、反射のようになまえが振り返った。おぞましいって感じの顔をして「こわい」ともごもご呟いている。
「でもその調子じゃあ一生取れないぜ」
「……コンタクト、取ったことあるの?」
「無い」
「絶対嫌」
ぼくの指先がコンタクトを摘む想像でもしたのだろうか、なまえは大袈裟に声をあげると、両方の手で子供みたいに両眼を覆った。
一歩踏み出せば、また一歩後ろへ下がる。
「比べるまでもなく、きみより器用だぞ、ぼくは」
「やだやだやだ」
「動くなよ、ほら」
なまえの背が洗面台についた。思わず、といったように洗面台のふちに手をついたので、掌に覆われた顔が見える。悲鳴を喉の奥で鳴らした彼女の頬を、両の手で掴み、軽くこちらを向かせると、ぱっちりと開かれた瞳と目があった。しかし、ぼくの指先が頬に触れると、ぐっと力を込めて瞼が閉じられる。
「……外したいんじゃあないのか?」
「…………」
ぴくり、となまえの瞼が震えた。恐怖と緊張で強張った表情だ。……中々悪くない。
コンタクトを外す外さないは別として、まずはこの表情を残しておくほうが先だな。鞄と一緒に置いてあったスケッチブックを手繰り寄せ、ページを開く。
瞼の痙攣、唇の歪み、滲む汗。
「まさかとは、まさかとは思うんだけど、スケッチとか始めてないよね?」
なまえの唇の端が痙攣し、また瞼がぴくりと動いた。スケッチブックの中の彼女はやはり中々にいい表情で、動くなよ、と一声かけてやれば「信じらんない」と棘のある声が落とされる。
「そのままの表情で目を開けたところも見たい。開けてくれるかい」
ページをめくる。暫くの間なまえはそのままぴたりと固まったままでいたが、少し待ってやればあきらめたように息をついて、ゆっくりと瞼を開けた。
「おい」
「開けたけど」
「さっきと全然表情が違うじゃあないか! ふざけてるのか?!」
さっきの切羽詰まったような恐怖と指先にはしる緊張が消えてしまった。これじゃあダメだ。どうにかさっきの表情が戻らないものかと、もう一度なまえの頬に片手を伸ばしたが、指先が目尻に触れても、今度はぴくりとも表情を動かさない。
仕方ない、と彼女の顔をじっと覗き込む。
「……きみ、充血してないか? 変なとこ触ったんじゃあないの」
「え、うそ」
「ずっと触ってるからだろ」
数回、その瞳が瞬いた。スケッチブックを戻し、両方の手で再び頬を包んで覗き込む。ぱっちりと開いた瞳の奥できゅうと瞳孔が拡がっていくのが見えた。
指先で、瞼を閉じないように押さえると、彼女の顔に分かりやすく動揺が広がった。
「待って」
「そのまま動くなよ」
「こ、こわいこわいこわい」
ひ、と引きつるような悲鳴があがったが、もう瞼は抑えてしまっているので問題ない。透明なコンタクトはよくよく目を凝らさないと見えなかったが、乾燥して取れやすくなっていたようで、爪を立てないように摘んでやるとすぐに取れた。
「っひ、ばか、こわ、ば、」
「なんだ、簡単じゃあないか。こんなのにてこずってたのか」
暫く目を開いたままでいたからか、それともなまえの言うように怖かったからなのか、目尻を涙が伝っていく。悪くない表情だが、さっさと取ってやらないと一生かかるのは間違いないので、そのままもう片方にも手を伸ばすと、その腕を勢いよく掴まれた。
「無理」
「取れたし痛くなかったろ、文句あるのかい?」
「指が近づいてくるの怖い。……書いて、怖くなくなるとか……」
「嫌だね」
なんでよ! と抗議してくるが、いつも書くな読むなと言うくせに、こういう時だけ頼るなんて調子が良いとは思わないのだろうか。図々しい。
「それに今きみ、いい表情してるぜ」
「最悪」
げんなりと吐き出された声は、聞こえないフリをする。彼女がぼくが手を伸ばせばすぐに目をつぶるのでコンタクトを中々取れず、この攻防は数十分続いた。
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