×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -


世界を愛するということ


 祖母のことがすごく好きだ。皆がよく言うおばあちゃんっ子、ていうやつ。父と母は共働きで帰りが遅くて、わたしは幼い頃は学校からおばあちゃん家に帰った。
 おばあちゃんはすごく物知りで、わたしの知らないことを沢山知っている。

「おばあちゃーん」
「んー?」
「なんか部品余った」
「あらあら」

 のんびりした声を出して、おばあちゃんが台所からやって来る。「よっこらせ」と声を漏らしてわたしの傍に腰を下ろした彼女は、目の前にある机をじっくりといろんな角度から眺めた後、わたしの手から説明書をさらっていった。
 おばあちゃんがふんふんと鼻の奥で歌って、何故か余ってしまったネジを一本取る。

「ここ、つけるところ違うみたいね」
「えっ……ほんとだ」
「ちょっと待ってなさい」

 おばあちゃんはそのままドライバーを巧みに使いこなして、わたしの間違えた部品を、綺麗に付け直した。あっという間だ。
 ころりと一人ぼっちになっていたネジは、もうあるべき場所にぴったりはまっている。

「早いね!」
「そうでしょうそうでしょう」
「すごいね」
「昔、こういうのが得意な同居人が居たのよ」

 本当におばあちゃんは物知りで、しかも大抵のことはできてしまう。農家の娘だったわけでもないみたいなのに、おかしいくらいに野菜を栽培する知識があったり、何故か馬の種類をよく知っていたり、その辺に生えている植物の名前を図鑑も見ずにすらすら言う。
今わたしの目の前にあるような、工作みたいなことも得意だし、歴史の知識が変に豊富だし、帳簿を付けるのも上手だ。
わたしがいつもすごいねえ、と言うと、おばあちゃんは決まって「昔、こういうのが得意な同居人が居たのよ」と返す。

「おばあちゃんどれだけ同居人居たの?」
「百人以上かなあ」
「んもー」

 おばあちゃんは、昔の話になるといつものらりくらりと答えを躱してしまう。
 わたしが知るおばあちゃんの話は、おばあちゃんが母と出会ってからの話だけだ。

 おばあちゃんは、わたしの母を二十代で引き取った。その時母は5歳だったけど、えらくシャキッとしたお姉さんが園に来たから印象に残ってる、といつも言う。
 昔。わたしのお母さんが、おばあちゃんに引き取られるまで、おばあちゃんは何をしていたのか、ちっとも教えてくれない。「しがない公務員よ」なんて言うけど、もしかして秘密警察とかだったりしたんじゃないかって、わたしは思ってる。修羅場を潜り抜けて来た、そんな風格が彼女にはあった。

「ねえおばあちゃん」
「なにー?」
「おばあちゃんって結婚してるの?」
「やあねしてないわよ」
「したことも?」
「ないない」

 おばあちゃんをまじまじと見つめる。
 正直おばあちゃんは身内の贔屓目抜きにしたって可愛いらしいし、パーフェクトだ。おばあちゃんに釣り合う人が居ないのはわかるけど、そういう浮ついたエピソードを聞いたことが無い。

「なあに、高校に好きな人でも居るの?」
「えっ、いな、居ない」
「分かりやすいわね」

 別に、……確かに、高校でちょっと気になる人は居るけど、それは関係ない。おばあちゃんの恋の話がもしあるなら、聞いてみたかっただけだ。
ふふ、と笑って、おばあちゃんがそのまま出来上がった机を愉快そうに、ぽんと片手で叩く。「ちょっと休憩にしなさい」と言いながら。

「じゃあ恋バナして」
「恋バナって……」
「おばあちゃんの恋の話、聞きたい」
「…………そうねえ」

 おばあちゃんが、一瞬迷ったように視線を他所へ向けた。そうして、僅かに頷いて、ふと笑う。話してくれるみたいだ。
 わたしはおばあちゃんににじり寄って、隣からその顔を覗きこんだ。おばあちゃんが昔の話をするのは、すごくレアだから、聞き逃すわけにはいかない。
 おばあちゃんが、少しだけ、照れたみたいにこほん、と咳をして、そうして口を開いた。




 もうずっとずっと、前の話。あなたのお母さんが、私の娘になってくれた日よりも、ずっと前。そのひとに出会ったのは、私が仕事を始めてから、一年ぐらいかしら。
 そのひとはねえ、びっくりするくらい、綺麗なひとで、雪の中に溶けていきそうなくらいに儚く見えるのに、口を開くと楽しい言葉がぽんと飛び出てくるひと。ただ、最初に会った時はあまりに綺麗で、何も言えなくなっちゃって。今思うと、情けない姿を見せたかしらなんて思うけれど、仕方ないわね。だってもうその時には、恋に落ちてしまっていたんだもの。

 大好きだった。きっと周りには、筒抜けだった筈だわ、私の心は。時々、恋が実るように手伝ってくれる子も居たけれど、やっぱり、叶えるには難しい恋だった。
 どうして? どうして、かあ。そうね、私とは、生きている世界が違うっていうやつね。姿形は同じだけど、やっぱり違うの。だから、協力してくれるのとは反対に、難しい顔をする子も居たわ。みんな、優しかったから。私のことを、すごく大事にしてくれたから。

自分でもちゃんと、分かっていたの。難しい恋だって。ちゃんとこの気持ちは最後まで、自分の中に閉まっておこうって、そう決めていた。けれど、ずっと溜め込んでいくには、やっぱり少しだけ、苦しかったのかもしれないわね。ある日ぽろりと言ってしまったの。そのひとに、好きだって。




おばあちゃんの話には、その好きだという「彼」の名前も、「みんな」の名前も出てこなかった。どんな経緯で知り合ったのかも語られることはなく、ふわふわとしている。けれどその口ぶりには常にあたたかな愛が感じられて、それが「ほんとう」なのだと言うことが、じわりと染み込むように感じられた。
おばあちゃんが、一度、ふう、と息をついた。「彼」の顔を、その瞼の裏で、思い起こしているのだろうか。

「その人はなんて?」

 声が上ずった。おばあちゃんが、そんなわたしを見て笑う。そんなに恋の話が好きなのねえ、なんて揶揄うように言うけれど、わたしは他でもない彼女の話だから聞きたいと思うのだ。




そうね、私が想いを零したときに、彼は。
……彼は、とても困った顔をしていたわ。困りきった顔で固まって、それで……言葉を沢山、探してくれたのでしょうね。私を傷つけまいと、そう思って。今でも覚えてる。私の目を、しっかり見つめて、「俺は君の物だが、君は俺のものになれない。なっちゃいけない」って。




 おばあちゃんの顔には、寂しさよりも、穏やかさが浮かんでいた。ちょっと瞳を伏せて、彼の瞳や声を、じわりと思い返しているのかもしれなかった。おばあちゃんの声の端々には、きっとその初恋の人の面影があった。その色には拒絶はなく、ただひたすらに、慈愛があった。心の底からの、愛情だった。一度も会ったことのないわたしだって、確信を持ってそう思うくらいに。

「悲しくなかった?」
「当時はね、とっても悲しかった」
「泣いた?」
「初恋だったもの。そうね、……でも、どうやったって、嫌いになれなかった」

 目尻をきゅうと細めて、祖母は笑う。




だって彼は、私のことを本当に大切に思ってくれていたもの。ほんとうに。自分でも、仕方がないことだって、理解はしてた。彼と結ばれるってことは、……私が、もう私でなくなってしまうってことだからね。
きっと彼にとっては、それが一番嫌だったことなのね。優しいひとだから。けれど当時の私はまだ若くって、やっぱり悲しさは拭えなかった。

……私があまりにも情けない顔をしていたんでしょうね。だから彼、こっそり、誰にも聞かれないような小さな声で言ったの。小さな子供に、内緒話をするみたいに。
「君が沢山生きて、もう飽いてしまうくらいに生きて、そうして俺のものになっても良いと、そう思えたら、迎えに行く」って、そう言ったのよ。今思えばそれは、泣き出した私を慰める言葉に過ぎなかったのかもしれない。けれど嬉しかった。とても、嬉しかったの。
だから、私は今でも毎日、なるべく笑って生きてる。やるべきことが終わって、彼と離れ離れになった後も。こっちに帰ってきてからも、どうしても他の人と一緒になる気はしなかったけど、でも貴方のお母さんと、貴方と一緒に過ごせて、毎日幸せよ。
貴方のお母さんが、とても心の綺麗な子に育ってくれて嬉しかった。貴方が産まれた時も、こんなに幸せなことはないって思ったわ。あの時彼と結ばれてたら、きっとこの幸福は無かった。だから感謝してる。あの子と、貴方に出会えて。人としての幸せを沢山もらって。本当に、本当に幸せ。
……迎えに来たか? まだよ。だってまだ私、飽きるほどには生きていないでしょ。彼はすごく気が長いから大丈夫よ。きっと彼は彼で好き勝手にやって、面白いことを沢山見つけて、私が眠ったらひょっこりやって来るわ。




 おばあちゃんの初恋の話はやっぱり時々抽象的で、不思議で、けれどそれが作り話だとは思えなかった。彼女が恋の話をしたのは、その時の一度きりだ。話し終えた後、はにかむように笑って、「お母さんには内緒よ」と言ったおばあちゃんは、恋する乙女の顔をしていた。
こんな可愛らしい人を一度だって振るなんて、信じられない。そう思ってちょっとムカついたけど、きっとその人もおばあちゃんが好きだったに違いないのだ。だってこんなに素敵な人だもの。

 おばあちゃんが死んだのは、それから何十年か経った頃だった。わたしは社会人になっていて、それでもおばあちゃんは相変わらず元気だったけれど、一年ほど前に癌が見つかって、そしてある日眠るように亡くなった。
 病室をぐるりと見渡す。おばあちゃんの言った恋の話を思い出したからだ。白くて美しい鶴のような人。
けれど彼女が息を引き取る時まで、結局その人は来なかった。
もうとっくにどこかで死んでしまっているのかもしれない。わたしは一人落胆して、おばあちゃんの恋の相手を少しだけ恨んだりもした。あんなに健気に待っていた彼女を、迎えに来てくれなかったのか。
 最期の日、おばあちゃんを看取ったのはわたしだけだった。母は今こちらへ向かっている。



 ふと、気づいた。
いつ窓を開けたのか、カーテンが揺れている。窓から入りこんできた風が気になって立ち上がると、いつの間にか、おばあちゃんの眠るベッド脇に、酷く綺麗な人が佇んでいた。
透き通るほど白いその人は、おばあちゃんの顔を覗き込んで、その頬にそっと手のひらで触れた。その瞳はあまりにも穏やかで、柔らかくて、わたしは間抜けにその様子を眺めていた。
 彼はおばあちゃんの手を取って、わたしのほうをちらりと見た。悪戯っぽく笑って、そうして軽く手をあげる。友人に挨拶するような気軽さで。唇が僅かに動く。声は聞こえない。けれど、「彼女は連れて行くよ、沢山待ったんだから、いいだろう?」と、そう言った気がした。

 わたしは何か言おうとして口を開いたけれど、しかし瞬く間に、鶴は消えていた。
 ばくばく、と鳴る心臓をそのままに、白いベッドへ近づいた。彼女が息を引き取った時にはどうにもそれが現実なのか分からなかったけど、ここに、もうおばあちゃんはいないのだと、わたしはやっと理解した。
……いいや、あの人が来るまで、おばあちゃんはまだここに居たのかも。彼女は待ち人と一緒に行った筈だから。
 気づけば涙があふれていた。ぼろぼろ、と次から次へと零れてくる涙を拭いながら、わたしはおばあちゃんの、あの日の笑顔を思い浮かべていた。恋する少女のような、可愛らしい、幸せそうな笑み。さっき手をひらひら振っていた、彼が浮かべたのとそっくりな笑顔を。
 おばあちゃんの傍には、桜の花弁が落ちている。それをそっと手に取って、彼女の胸の上へ置いた。おばあちゃんの表情は、やっぱり穏やかさに満ちていた。





back