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アイコノクラズム


 どうしてわたしがこんなめにあわなくてはいけないのだろう。
 ぐしゃぐしゃになった頭で、そう思う。もはや思考は意味を成さず、ただひたすらに絶望するだけだった。震える身体と、とめどなく溢れていく涙が、呼吸を荒くしていく。わたしが何をした。
 いつもとなんら変わりのない日常だった。なまえは自身が教鞭を取る小学校での業務を終え、スーパーに寄って、いつものように帰り道を歩いていただけだ。彼女は音楽の教師として、子供たちと触れ合うことが今の生活の潤いだった。明日の授業のことを考えていた。楽しそうに歌う子供たちの顔を思い浮かべると、楽しかった、嬉しかった、幸せだと思えた。

「久しぶり」

 それなのに。
 あまりに突然だった。後ろから羽交い締めにされ、なまえは路地裏に引き摺りこまれた。声をあげる間もなく意識が薄れ、そうして気づけば見知らぬ部屋で、目の前には男が居た。見知らぬ男だった。何が起こったのか分からず、なまえはただ震えていた。後ろ手に縛られた腕も、きつく結ばれた足の拘束も、口に貼られたガムテープも、彼女の思考をかき乱す要因にしかならず、ままならない思考の中で、どうしてと、そればかり考える。

「ねえ、歌ってよ! 君の歌のファンなんだぁ、俺」

 男は目元を優しく緩ませた。その慈愛に満ちた色とは全く似合わない拘束が、なまえの身体には施されている。恐怖だけが脳をかき乱す。
 男が、ほんとうに、愛おしさが溢れたように、笑う。


△△△


 初恋というやつは、誰にとっても忘れられないものなのだと、龍之介は思っている。
 「冬木の悪魔」とも揶揄されるような、残酷な所業を繰り返す彼にも、やはり初恋は存在した。甘美な痺れが身を貫き、夢見心地のまま、穏やかに、そうして時折激情に駆られるように心臓が揺られる。それは間違えようもなく、恋だった。
 まだあどけない小学生の頃、心惹かれたのは同じクラスの女の子だった。決して目立つようなタイプでは無かったが、とても、綺麗な声をしていた。国語の時間に彼女があてられて、朗読させられている時には、まるで敬虔な信者が神父の言葉に耳を傾けるように熱心に、ともすれば恍惚としながらそっと耳をすませた。
 彼女は合唱クラブだった。放課後の音楽室からは、いつだって彼女の透き通るような声が聞こえていた。それが聞こえてくるたびに龍之介の心は沸騰するように揺すぶられた。初めて聞いた時は、天使の詞が聞こえたのだと思った。幼い彼はその音が聞こえてくるほうに、そっと、足を進めた。階段をのぼっているうちに、いつの間にか四階に足をつけていて、そうして気づけば音楽室の前に立っていた。龍之介はそっと扉についた小窓から、中のようすを盗み見た。彼女がその小さな唇を開き、喉を震わせ歌う姿の、なんと美しいことだろうか。それまで生きてきた中の何よりも、彼女は美しかった。「てんしだ」口から漏れた言葉は、扉の中で歌う彼女に届く筈は無い。けれど龍之介は、ガラス越しに彼女と目が合ったと、そう思った。彼女の歌声が、自分だけに向けられたのではないかと、その瞬間思ったのだ。

「だからさァ、旦那」

 新しく作られた「作品」は、未だびくびくと海岸に打ち上げられ、悶える魚のように動いている。生きているのか死んでいるのか、本人にさえ分からないのかもしれない。笑みを深め、龍之介はくるりと回った。満足気にそれを眺めていたキャスターは口元を引き上げたままこてりと首を傾ける。

「ええ、ええ、なんでしょう龍之介」
「珍しく、後悔してるんだ」

 龍之介が目を閉じれば、あの子の姿がみえる。夕焼けに染まった音楽室で、彼女は歌っている。本当なら、その透き通る声で、自分の耳を震わせてくれるはずなのだ。しかし声は響かない。無音の中で彼女は唇を開き、喉を震わせ続けている。どれだけ慎重に彼女の声に耳をすませても、もう聞こえない。

「あの時、あの子を永遠にしてあげるべきだったんだ」

 恍惚としながら、龍之介は微笑む。それは誰しもが身を焦がす、恋というものに他ならなかった。そこに居るのは、悪魔では無く、ただ一人の、純然たる感情のままに笑う少年しかいやしないのだ。
 キャスターは心臓が震えるのを感じる。ええ、ええ、と相槌が、口の端から歓喜と共に漏れていく。天使を永遠にしましょう。愛おしく美しい天使を、永遠にしてさし上げましょう。


△△△


心の底から湧き上がる歓喜と共に、龍之介はなまえの顔を覗き込んだ。涙でぐちゃぐちゃに顔を歪めながら、彼女は必死に身をよじっている。口元に貼られたガムテープの隙間から懸命に声を絞り出している姿は相変わらず可愛らしい。

「首振るだけじゃ分かんないよ。あー、どうして泣くの? ……ガムテ、苦しい?」

すっかり忘れていたそれを、ごめんね、と謝って、彼女の口から剥がしてあげた。路地裏であまりにも反抗するものだから、仕方なくつけたものだった。龍之介は気を使いながら優しく剥がしてあげたのだけれど、それでも、彼女は涙をぼろぼろ零して苦しそうにしている。
困ったなあ、と呟くと、彼女の肩が震えた。

「ほらほら、歌って?」
「た、す、たすけ、て、誰か、」

自分が歌を催促しても、彼女はただ涙を流しながら声を震わせるだけだった。なんで歌ってくれないんだろう。
ひきつって喘ぐその声はあの透き通る声とは程遠い。はくはくと口を動かしながらただ「助けて」と繰り返す彼女は、何処をみているのか全く目が合わない。

「ねえ、こっち見てよ?」

少し苛立って無理やりに顔を引っ張ってこちらを向かせた。痛みで歪められた顔には、あの頃の面影がしっかりと残っていた。なんて綺麗なのだろうか。彼女はまた瞳から涙を零すと、苦しそうに声を漏らした。

「……ど、う……て」
「ん?」

龍之介は、聞こえてきたか細い声を拾おうと、彼女の傍に耳を寄せる。ふっふっ、と浅くなった呼吸が、龍之介の鼓膜に直接響いてくるようで、ほろりと笑みが零れた。

「どうして、こんなこと、する、の」
「え……?」

彼女の言葉の真意がよく分からず、龍之介は首を傾けた。さっきから再三繰り返しているように、ただ龍之介は「お願い」しているだけだった。

「言ってるじゃん」
「…………?」
「君の歌が聞きたいんだ、ただそれだけ」

満面の笑みを浮かべながら彼女の手を握ると、彼女は震えながらも何度か頷いた。引きつるように喉を鳴らして泣いている。目尻からぼたぼたと涙が垂れていく。

「う、歌う、歌う、歌います、……だから」
「ほんと!?」

 ひゅう、ひゅう。喉の奥から、空気の震える音が聞こえてくる。その音を聞くたびに龍之介の心臓は高鳴った。ああ、もう一度聞けるのだ、あの歌が。今、この場所で! その上彼女は他でもない俺の為に歌う。ただ、俺の為だけに。
 心臓は張り裂けんばかりに拍動し、指の先は震え、上気した頬は燃えるように熱い。
 震える唇が、ひらく。あの天使の音色が、天上から。彼女の喉の奥から、艶やかな音色が溢れ――

「…………あれ?」

 すう、と。先程までの無邪気なほどの笑顔が消え去った。ワンフレーズをたどたどしくも歌い終えたなまえは、歯の奥をがちがちと鳴らしながら龍之介の顔を伺っている。
 龍之介はただ首を傾けた。

「なんで?」
「へ、? え、なに? なんで、」

 龍之介の掌が、彼女の喉にそっと添えられる。力はこもっていない。ただ、優しく添えられているだけだ。力はこもっていないのに、息を奪われるような苦しみに、なまえは引きつるように悲鳴を漏らした。
 いやいやと首を振る子どものように身をよじる彼女の瞳を真っすぐに捉えながら、龍之介は不思議な気持ちでいっぱいになる。

 彼女の声は、もう福音では無かった。ああ、きっと、歌は「上手い」のだろう。けれど、違う、身を捧げたいと思ったあの声ではない。聞いた瞬間に目の前が光で覆いつくされてしまうような、背筋に走った痺れに支配されるような、恍惚に身を浸すような。あの声ではないのだ。

「そっかあ、」
「や、やだやだ、やだ、」
「あの時やっぱり永遠にしてあげればよかったんだ」
「ご、ごめんなさい、ゆるして、」
「大丈夫」

 穏やかな声色に、彼女の涙に濡れた瞳が瞬く。柔らかく微笑んで見せた龍之介に、希望の光が灯った彼女は、引きつったように笑った。

「間に合うよ、大丈夫」
「…………?」
「あの時永遠にしてあげられなくって、ごめん、ほんとうに、ごめん」

 本当の、心の底からの、言葉だった。龍之介にとってそれは懺悔でもあった。
 とす。軽い音、衝撃。少なくともなまえにはそう感じた。肺から空気が溢れ、息が苦しくなる。身体が異様に冷たい。

「今から天使にかえしてあげる!」

 最後に龍之介はそう声をあげて、なまえの身体をぎゅうと抱きしめた。反動で腹部に刺さった包丁が食い込んで、彼女の瞳から光を消していく。殆ど彼女の心臓が動かなくなると、龍之介は口の中で「てんしだ」と呟いた。

 壁に打ち付けられた女を見て、キャスターが唇を吊り上げる。龍之介は彼女を救済した、遅れてしまったものの、それでも果たしきったのだ。愛する天使を救ったのだ。

「…………てんしだ」

 恍惚とした表情で、龍之介が天使のつま先に唇を落とした。女の顔は安らぎに満ちている。



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