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せいひつを杯に満たして

 偶然だった。ほんとうに、ただの偶然。
 なまえはお腹が空いていた。空っぽの胃が泣いていた。彼女の母は帰ってきてからとても機嫌が悪く、木の棚をなぎ倒し泣き叫んでいた。なまえは家を出て、あてもなくふらふらと彷徨った。外は凍えるほどに寒く、窓からこっそり抜け出した彼女の足は、石畳を踏むたびに刺されるように痛んだ。とても疲れていた。息をするのも、なんだか疲れてしまっていた。なまえはとにかく腰を下ろしたい、それだけを考えて路地裏を覗き込んだ。そしたら、そうしたら。
 まずは赤が、目に焼き付くように映った。真夜中で明かりなんてちっぽけな裏通りの筈なのに、赤色だけが、どうしてか、目の中に。最初はそのおびただしい赤の中に倒れているのが人間だなんてなまえには分かりはしなかったが、つんと鼻を刺すような嫌なにおいがして、ついに転がっているそれが死んでいると気づいた。傍らには誰かが立っていた。暗闇に溶け込むそれは、人間の形をしていたけれど温度感がない。
 人間じゃない。なまえは殆ど本能的にそう思った。そう気づくと同時に、すとん、と突然足が立たなくなり尻もちをつくと、そのナニカが、なまえを見た。ぎょろりとした瞳がこちらを見ていて、彼女はただ、死ぬ、と思った。死ぬ、と思ったときには、同じくらいに、死にたくないと思った。こんな、暗くて冷たいところで死ぬなんて、嫌だ、と。そう思ったのだ。

「あ、い……や、」

 何を言っていいのか分からずに、なまえの口からは意味の伴わない音が出た。ずりずりと這うように下がると、それもゆっくりと足を進めてくる。逃げようともがいても、大して動けない。……ああ、これなら、家でおかあさんに叩かれていた方がずっとよかった。そう思いながら、ぐ、と目を閉じる。喉の奥が熱い。苦しい。息が出来ない。死にたくない。まだ死にたくない。
 死にたくない、死にたくない、死にたくない。その言葉が何度なまえの中に生まれては消えていったのだろう。きっと数秒も無かった筈なのに、彼女は数えきれないくらいにそう思った。そうして何度目かの死にたくない、で、バチリ、バチリ、と音がした。音と共に、痛みがあると思った。苦しみがあると思った。けれど、いつまでたっても痛みは無い。ただ瞳を閉じていても分かるほどの光があった。どれくらい経ったのか、なまえは浅い息を漏らしながら、恐る恐る、ゆっくりと瞼を開く。
 あの血だまりの中で死んでいた人間の辺りが、いっそ眩しいくらいに光っていた。辺りには荒く風が巻き上がっている。

「っ、……間に合わなかったか」

 黒いナニカが、そう言った。光に照らされて、それが黒くて長いマントをかぶったニンゲンなのだと、なまえはそこでやっと気づいた。顔までは見えなくとも、それが酷く焦っているのが分かる。
 バチバチ、と一層大きく音が響き、強い光と共に風が巻き上がった。なまえの髪を風がかき乱していく。

「召喚に応じ参上したよ、君が……おや?」

 音が止み、風が止み、辺りを覆っていた煙が晴れたその先には、一人の男の人が立っていた。とても上等な服を着たその男は、辺りの惨状に目を向けて、優雅に首を傾けてみせる。傍らに横たわる死体、黒いマントを着たナニカ……そしてなまえへと順番に目を向けて、柔らかく微笑んでみせたその姿は、なまえにはこの空間ではとても異質なものに思えた。

「これは、何というか……最悪の状況、と言っても差支えが無さそうだな……」
「…………」
「ここに転がっている私のマスター……になる予定だったであろう男を殺したのは君かい?」
「…………」

 男の質問に、ナニカは答えなかった。何も答えずに、一瞬確認を取るように宙に目を向けると、光に溶けるようにして消えた。何事も無かったかのように光の粒になって。
 何もないところから男が現れて、どこへともなくナニカは消えた。まるで夢だ。なまえは理解が出来ずにいた。いっそ、夢だと言われた方が理解ができるのに、ただずっと転がったままの男の死体と、鼻に着く嫌な匂いが自分に本当を突き付けてくる。
 男はナニカが消えていったほうを見つめながら「ふむ、自身のマスターの下へ帰ったか……だろうな。マスターを失った私と戦う必要も無いだろうし……」と言葉を零した。

「それにしても!」

 ぐるり、と思案していた男の顔が勢いよくなまえを向いた。地面に震えながら座り込んだ彼女は、もつれるような動きで後ろへ這うように下がっていく。なまえの身体はうまく動いてくれはしなかった。こんなところから、一刻も早く離れたいのに。
 男が、かつ、かつと靴の音を響かせてなまえに近寄ってくる。なまえの唇が震え、視界は今にも溢れそうな涙でかすんでいた。

「こんにちは、お嬢さん」

 しかし男は、なまえの前に当たり前のように膝をつき、着ていた上等なジャケットをその肩に優しくかけてみせると、にっこりと笑ってそう言った。震える彼女に柔らかく笑い、「名前をお伺いしても?」なんて言う。辺りに血が飛び散ったこの場所で朗らかに挨拶が出来る男なんて可笑しいに決まっている。大抵の人間はそう考えるのだろうが、なまえは傷つけられなかった安堵感からか、いつの間にか身体から力が抜け、口からは「なまえ」とその名前が反射的に零れていた。それに男はとろりと目を緩ませて「なまえ」と繰り返す。
男はゆっくりと手を伸ばしなまえの手をとると、大きく目を見開いた。なまえの手の甲にハッキリと咲くように残る痣を見つめて固まっている。

「これをどこで?」
「ちょっと、まえ、多分」

たどたどしく、なまえは答えた。それは彼女の手の甲に、数日前から現れた痣だった。鋭い痛みと共に現れたもので、それがあまりに模様のようにくっきりと赤く浮き上がっていたので、母親が気味悪がって沸騰した湯を浴びせたから、痣の上から痛々しく爛れていた。男が気遣うように「痛いかい?」となまえに問いかけると、彼女は首を横に振る。嘘では無かった。痣はあれから一度も痛まなかったし、その上の火傷も、母に殴られた場所よりは痛くない。なまえが手を取られたまま男を見つめ返すと、彼は流れるように、そこへ唇を落とした。ケロイド状になったそこに嫌悪感など微塵も感じていないように、ただ優雅に。なまえが家で読んだ絵本の中の、童話に出てくる王子様のようなそれは、男には良く似合っていて自然なものだった。

「召喚されてこの惨状を目にした時はなんて運が悪いのかと、そう自分を呪いたくもなったが……しかし、ああ、……君のような素敵な人に会えるなんて。うれしいよ、可憐なメカクレのお嬢さん」
「……めかくれ?」


▽▽▽


「人間は二種類に分けられる。メカクレかそうじゃないかさ。……わかるかい?なまえ」
「わかんない」

 またおんなじ話してる。なまえはこの男と出会ってから何度目になるか分からないため息をついた。ライダーは心底楽しそうに柔らかい笑みを浮かべながらなまえを見つめている。
 ライダーの、彼女に比べると大きな掌が#nam#の前髪に優しく触れた。神聖な儀式の一貫のように彼女の髪をすき、ふふふ、と笑い声を漏らす様は不気味な筈なのだが、なまじ顔が良くまた品が良いこともあってか、絵になっているのが何とも言えない。

「ライダーはそうやってわたしを抱っこするのがすきね」
「ああ。愛おしいひとは抱えたくなるだろう?」
「子どもあつかいしないで」
「はは、すまないね」

 なまえには未だ理解が出来ていないが、ライダーは、メカクレというものが心底好きだった。厳密に言えば、長い前髪でその瞳を隠した少年少女が好きだった。彼にとって言えば今は無き魔術師に路地裏で召喚され彼女に出会ったのも運命だった。風にその長い前髪が靡き、不安そうな瞳が覗いた少女の愛らしさよ。その瞳を写した途端に彼は電流が走る心地だったのである。毎日毎日少女にメカクレの素晴らしさと溢れ出る愛情を言葉にして伝えるのだが、返ってくる反応はどれも照れ隠しのようなそれだったが、それすらも愛おしいと彼は思う。
一方なまえにとって、こうしてライダーに甘やかされることは、どうにも背筋がむずむずとして、慣れないものだった。しかし何度繰り返してもライダーは辞めてくれないので、なまえはもう諦めている。子ども扱いをされるのは好きではないが、けれど、これまで頭を撫でられる、ということが無かった彼女にとって、それは案外心地いいものだった。なまえがもう一度ふう、と息をつくと「おや、お疲れかな?」と柔らかな声が降ってくる。誰のせいだと思っているのだろうか。

 ライダーはなまえと路地裏で出会った後すぐに自身を召喚した男の死体を漁り、男が根城にしていたらしい「工房」への道のりを得た。運命のいたずらか、目の前には可憐なメカクレの少女が、手の甲に令呪を携えてこちらを見上げている。迷いは毛ほども無かった。ライダーは彼女と契約を済ませ、男の残した工房へと向かった。復唱して、と契約の文言を教えれば、なまえは素直に繰り返して見せた。可愛らしい子だ、ライダーは笑った。
 なまえは殆ど現在の状況を把握できていない。魔術師が、サーヴァントを戦わせて、勝った者がなんでも願いを叶えて貰える、だから私のマスターになって欲しいのだと、そう簡単にライダーが説明すると、なまえは驚くほどすんなりと頷いてみせた。ただ頷く前に一度だけ「帰らないとおかあさんにおこられちゃう」と困ったような顔をしたが、ライダーが「お母様には私が説明するさ」と笑うともう迷いは無いようだった。

「ライダー」
「どうしたんだい?」
「今日の夜もお出かけしちゃうの?」
「……ああ」

 ライダーは毎夜、なまえをベッドに寝かしつけると、この工房を出る。戦争の準備をしているんだ、そうライダーはなまえに言った。彼の説明はなまえにとって殆ど意味が分からないものであったがライダー自身もなまえに理解させる気は無い。ただ、一つだけなまえに理解が出来ているのは、そのせんそうに勝てば、なんでもお願いが叶う事、それだけなのだ。その願いを巡ってどれだけの人間が死に、どれだけの血が流れているかなど知りもしないのだ。ライダーは最少限の活動範囲で毎夜駒を進めている。
 なまえを工房に連れてきたその日、ライダーは彼女に問いかけた。

「何か、望みはあるかい?」
「のぞみ?」
「お願い事さ」

 なまえは数度そのまるい目を瞬いて、ぽつ、と言葉を零した。段々とか細くなっていくその声を拾うために、ライダーは顔を寄せる。迷ったように、なまえは視線を彷徨わせ、伺うようにライダーの瞳を見つめている。ライダーはなるだけ優しい顔で彼女の言葉を促した。大丈夫さ、何だって言ってごらん、聞いているとも。

「…………かぞくが」
「家族?」
「かぞくが、ほしい」

 今度はライダーがその目を見開き瞬きをする番だった。少しだけ意外そうな顔していたが、しかしすぐに通りにっこりと笑うと仰々しくなまえの手を取って見せた。
 そうして彼は「やくそく」をする。彼女の爛れた手の甲に優しい唇を落として、瞳を愛おしさで染めあげる。

「叶えると誓おう」

 嬉しそうに目を輝かせたなまえに、ライダーは「もう一つ聞いても?」と言う。頷くなまえに、彼は家の場所を問いかけた。彼女の、住んでいるところ。住んでいたところ。

「近くに大きな林檎の木があるお家」

 なまえが「きっとおかあさんが寝てるけど、起こしたら痛いから、だめなの、起こしちゃ」と困ったように続けるが、ライダーは笑みを深めるだけだった。
 少し待っておいで。そう言って、ライダーは工房を後にする。きらきらとした粒になって霊体化(なまえにはちっとも仕組みが分からなかった)して消えて行く。
 居なくなっちゃった、怖いな、寂しいな、そう思っていたけれど、案外ライダーはずっと早く工房へとかえってきた。時計が一周もしないうちに帰ってきた彼はなまえがほっとしたように顔を綻ばせると、その掌で優しく彼女の髪をすいた。

「家族が欲しい、なんて、可愛らしいお願いだ」

 心底嬉しそうな顔で、ライダーは笑っている。
 彼の手がなまえの頬に触れると、ふと、あの路地裏で嗅いだ匂いがした。それと一緒に焦げ付くような林檎の匂いがした。

 その時のことを思い出すなまえの頬を、あの日と同じようにライダーが触れる。もう彼からは香水と、潮のような匂いしかしない。なまえはこの香りが好きだった。
 かぞくがほしい。なまえの零したお願いは、ふと思いついたものだった。彼女はかぞくというものがどんなものなのか分からなかった。生まれた時から、彼女には母しか居なかった。家の奥にあった本で読んだ、「優しくてあったかくて、ずっと一緒にそばにいるひと」。それが一体どんなものなのか分からない、彼女には自分にとってその「かぞく」と呼べる人間は傍に居なかった。近頃は、ライダーがかぞくになってくれればいい、と思っている。優しくて、あったかくて、そばに居てくれるひと。ライダーにぴったりだ。

「ライダーは優しくてあったかいね」

 だから思っているままのことを、なまえは口にした。彼女が零したその言葉に、ライダーはとても美しい顔を柔らかく溶かすように笑った。

「……ああ、可愛らしい子だ。けれどいけないよ。海賊は、卑劣で卑怯な奴ばかりだから、そう簡単に信じては」

 なまえには、ひれつもひきょうも、知らない言葉だ。ただ、それが良い意味では無いことは理解できた。ライダーは嫌なひとじゃない。そう思うから彼女は唯首を横に振って、彼の髪を、いつも彼がしてくれるみたいに撫でつけた。
 ライダーが、目を見開く。そうして目をとろりと、はちみつみたいに甘くして、彼は嬉しそうに微笑んだ。「ほんとうに可愛らしい子だ」
 信用してはいけないと、言っているのに。


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