水月乙子のことを訊ねると、大抵の死神はこう答える。
 「彼女は模範的な死神ですが、それが何か?」と。

 水月乙子は模範的な死神だ。
 屈強な男が叩けば脆く折れてしまいそうな華奢な体つきではあるものの、その背中は猫背と言うものを知らず、いつも何かしらの仕事を抱えてあちらこちらを歩き回っている。
 長いこと席官を務めていることもあってその精神も強く、部下の言葉には真摯に耳を傾け、上司である猿柿ひよ里の言動も苦笑いだけで済ます程度のおおらかさがある。
 大抵のことでは揺らがず、真面目に規律を守り、部下の面倒もよく見、一を要求すれば五や六になって返してくるような、所謂優等生であった。
 そんな彼女を隊の席官に、はたまた空席のままの隊長に、と推挙する声がある。
 しかし、どれだけ称賛を受けようとも、昇進を提案されても、水月乙子は頷かなかった。
 その理由を知る者は極僅かで、隊士の間では「斬魄刀との相性が悪いのではないか」「自分達の知らない問題が何かあるのではないか」と憶測に憶測を重ねた噂が飛び交っているが。

 十二番隊の四席である水月乙子は、少なくとも五十年はその席を動いていない。

何を失くすより奪うことが怖かった


「慣れと言えば、乙子はどやった? ひよ里と比べたら天と地の差でええヤツやろ」
「乙子サンですか? そりゃあもう、ちょっとびっくりしちゃうくらい歓迎してくれました」

 せやろせやろ、と平子が笑うのを見て、浦原も微笑みながら頷いた。
 隊舎に少し残ってから帰ると言った浦原に、「初日ですから、あまり無理しないでくださいね」と頭を下げて退勤していった新しい部下の印象は、ほとんど良いものだったからだ。むしろ、今日のやり取りで彼女を嫌うような要素は一つも無かったと言っていい。

 十二番隊四席。水月乙子。
 三席の神代藤丸と五席の白市榧よりも長く十二番隊に在籍する、副隊長の猿柿ひよ里と並んで古株の隊士だ。
 朗らかな人柄と、眼鏡の奥でいつも笑みを湛えている瞳は他人に警戒心と言うものを抱かせない。きっと彼女にも今回の人事に思うところはあるだろうが、それをおくびにも出さない姿勢は、浦原が想像していたよりもずっとありがたいものだった。
 新任の自分が思うのもおこがましいと思うほど、四席は模範的で良い部下そのものだった。

「他所の隊長から見ても、あいつほど遣いやすい部下もいひん。自分、就任する前に乙子に逃げられなくて良かったな」
「いやあ、本当に…ひよ里サンには結局逃げられちゃいましたけど、乙子サンがボクが来る前にって仕事のほとんどを並べて管理してくれてたおかげで、初日でもなんとか隊務把握できました」
「一隊に一人欲しい言うて引く手数多やから、奪られへんように気張りや」

「ま、本人は頼まれても動かへんやろけど」平子の言葉に瞬きをして、浦原は掴んでいた柵の隙間から顔を突き出した。

「何で乙子サンは昇進も異動もしないんスかね? 本人に訊いても、それとなーくはぐらかされちゃって」

 浦原の言葉に、平子はハハハと声を上げながら笑う。
 部下に煙に巻かれた浦原を笑ったと言うより、心の底から相手を歓迎しつつも身を捩って質問を避けたであろう乙子の様子を想像して洩れた笑いだった。
 十二番隊の前隊長である曳舟桐生にはしなかった下手な誤魔化しをしているあたり、乙子も考えていることが無い訳ではないらしい。

「自分で何も言えへんやったら俺に訊いてもしゃあないやろ」
「平子サンは知ってるんスか? 乙子サンが昇進しない理由」
「そりゃあ自分、大分昔からの知り合いやからな」

 暗に、そこまで親しくもない相手に乙子は自分のことを話さないと言われ、浦原は眉を下げた。月光に照らされた口許はへの字に曲がっている。
 ひよ里のように攻撃的でいられるよりは接しやすいが、それでも歓迎してくれていた乙子でさえも完全に自分に心を開いた訳ではないということを頭では理解していても、他人に言われると尚のこと落ち込んだ。

 二番隊『檻理隊』の部隊長を務めていたとは思えないほどの素直な感情表現に笑いを堪えながら、壁に寄りかかった平子が二本指を立てた。

「下っ手くそな誤魔化しに踊らされてるんが可哀想やから、ヒント二つやるわ」
「ヒント、っスか?」
「せや。喜助、乙子の欠点は聞いたか?」

 欠点。
 おおよそ人格にも仕事ぶりにも欠点らしい欠点が見受けられなかった乙子の今日の様子を思い返して、浦原は首を傾げた。
 ややあって、ああと頷く。

「忘れっぽいってやつっスか? 日記も見せてもらいました。あの、小さい革の手帳の」
「そこまで見たのに説明はされんかったんか。ま、初対面やったらそんなもんよな。
 最初に言っとくと、乙子が忘れっぽいのは単なる健忘症でも病気でもあらへん。どんだけ真面目に記憶を文字として記録して忘れへんように努めても、あいつは絶対にいつかどこかの誰かの記憶を失くしてくる時があるねん」
「…よくわからないですけど、そういう体質ってことですか? でも、そんなに重篤な記憶喪失が頻繁に起こるなら、死神として働くことも大分難しいんじゃ? 何より、彼女、そういう風にはまったく見えませんでした」
「そうやろうな。そういうところを見さへん為に手帳でわざわざ細かく日記つけてるんやから」

 一般に脳の中に長期間貯蔵される記憶は大きく二つに分けられる。言葉で表現できる記憶である陳述記憶と、言葉では表せない非陳述記憶だ。
 前者は事実と経験を伴った学習で得られる知識などが挙げられ、普通の人間でも緩やかに忘却していくが、記憶を再認する回数が多ければ記憶は長持ちする。
 後者は技能を保持するもので、意識しなくとも使うことができる文字の書き方や箸の持ち方、泳ぎ方などが該当する。体で覚えたものは日常的に反復されるものがほとんどなので、忘却することはそうないだろう。

 乙子が手帳につけているのは日々の記憶と予定だったはずなので、恐らく彼女の忘却は陳述記憶に対するものなのだろう。

「でも、ちょっと尋常じゃない記憶喪失体質が昇進拒否の理由になりますか? 記録も読みましたけど、彼女が四席として働いている間に一度も大きな事件も事故も起きていないじゃないですか」
「記憶の話はあくまでヒントや。それが答えやないぞ」
「…じゃあ、二つ目って言うのは?」

 掲げられていた平子の指のうち、片方がぱたりと折りたたまれる。人差し指を残したまま、「こんな話を知っとるか」と平子は御伽噺でも謳うように語り出した。

「具象化も屈服もしないまま卍解まで至った斬魄刀の話や」
「……それ、実在の話っスか?」
「火のないところになんとやらって言うなァ」

 飄々と笑う平子の横顔から真偽は読み取れない。浦原は一旦疑いを捨て、黙ったまま話の続きを促した。


 いつからか、誰かが噂した斬魄刀の話。
 持ち主が柄を握った瞬間から対話を持ちかけ、所有者を護ることのみを理念とする斬魄刀。故に、始解も卍解も思うがまま。
 鞘は白と黒が相克する斑模様。透けるように青白く幻想的な刃を持つ美しい刀。

 ――その斬魄刀はしかし、苦労せず卍解を手にした持ち主と共にひっそりとどこかの隊に紛れ込んでいると言う。


「……斬魄刀が、自分から真名を教える……あり得ないことじゃないんでしょうけど、ちょっと現実味に欠けますね」
「苦労して卍解習得したやつらが泣いてまうやろな〜」

 長い話はこれで終わりだ、と言わんばかりに肩を竦め、平子は歩き出す。

「そ、その斬魄刀の持ち主が乙子サンってことスか?」
「ヒントは終わりや。まあ、知らんでもええことなんや、知らんままでも乙子とは付き合うていけるで」

 それはそうだけど、と口ごもる。
 新参者でも上司として部下のことは知っておくべきだ、という芽生えたばかりの隊長としての理性が囁く。

 そしてそれ以上に、未知を前にした本能が、甘い謎は果てまで暴き知り尽くすべきだと声高に叫んでいた。


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