「…鉄明。ちょっといいかな」
「鉄穴森さん。はい、何でしょう?」
夕方。
集会所に顔を出そうと赴いた早苗に声をかけたのは、鉄穴森だった。
玄関前で早苗を呼び止めた彼は、集会所から少し離れたところに連れていく。
早苗の隣にいた杏寿郎は一人置いていかれた儘だ。
「こ、こ、こ、これを鉛さんに…」
「は、はい…って。研いだ包丁ですか?
依頼された本人が持っていけば…」
「いいから!とりあえず渡しておいて下さい!!」
集会所の厨房で働く女性達は、時折包丁の研ぎを鍛冶師に頼むことがある。
紳士的に対応してくれる数少ない鉄穴森は打って付けで、早苗はこの時も研いだ包丁を戻すのかと思い、彼に言うが…。
勢いよく鉄穴森に託された桐箱を両手に抱えながら、再び集会所に戻ってきた早苗に杏寿郎は声を掛ける。
「お帰り。…何だったんだ、先程のは?」
「…うーん、何だろう…。よく分からないや」
早苗は依頼されたように、桐箱を厨で働いていた鉛に渡す。
誰からかと聞かれ、早苗が鉄穴森と答えると途端に鉛が顔を真っ赤に染める。
「鉛!開けちゃいなさいよぅ」
「う、うん…」
鉛は他の女性に促され、ようやく箱の蓋を取った。
箱の中身は簪だった。臙脂色の硝子玉が印象的だ。
鉛の浮ついた様子を見るに、彼女と鉄穴森はどうやら懇ろの間柄であるようだ。
鉛の恥ずかしそうにしながらも、幸せそうな笑顔を見ると早苗はつられて嬉しい気持ちになる。
就寝前に、少し会話を交わす早苗と杏寿郎の二人の習慣は変わらない。
交わしていた話題が一旦区切りを見せると、早苗は少しだけ言いづらそうにしながらこう切り出した。
「…杏寿郎には、いい人はいる?」
「何だ急に!…今は任務に追われてるからなぁ。
その暇があったら稽古に励みたい気持ちしかないな」
「そっか。…鉛さん、幸せそうだったから。
杏寿郎にも、誰かいい人が見つかったら教えて欲しい」
「…君は、誰かと添い遂げたいという気持ちはないのか?」
杏寿郎の言葉に、早苗は黙り込む。
そして頭を横に振り、その気持ちはないと一言を返す。
「刀鍛冶師を目指そうと思ってからは、そういう気持ちになろうと思ったことはないよ。
杏寿郎と同じように、自分で今出来ることをしようと頑張っているから、そういう気持ちになれない。
それに、自分のように背丈が大きい女が嫁の貰い手を探そうだなんて無謀すぎる」
「… 早苗。そう自分を卑下にするな」
早苗は自嘲ぎみに笑う。
「だって、そうでもしないと」
「…俺は、早苗には幸せになって欲しい。
誰かと結婚して、子を産み育てる。
それが女として生まれたならば、当たり前のことではないか。
あの日の惨劇は君の人生を一変させた。
刀鍛冶師になろうと努力しているのは理解出来る。ただ…」
杏寿郎が早苗の言葉を遮って、意見するのは珍しく、そして早苗が彼の言葉を否定するのもそうそう無い。
「……ごめん。ずっと心の中で燻っていた気持ちだから、杏寿郎の言葉も今は素直に受け入れられない。
母は最愛の人に見捨てられた。
父は母に嘘をついた。亡くなった母が可哀想でいたたまれない。
そんな恋愛の結末を知っているから、自分は人を愛することが出来るのかという不安だけが先行してしまう」
「…」
「…杏寿郎と一緒にいる時は心が安らぐ。それがどういう感情なのか分からないけど、大事にしようと思う。
杏寿郎。あなたこそ幸せになって欲しい。
命懸けで得体の知れないものと戦っている毎日だからこそ、あなたを心から愛して、支えてくれる優しい女性が現れてくれると、自分のことのように嬉しくなる」
早苗はそう言い切った後、ひょっとすると自分は杏寿郎を好きになっていたのではないだろうかと気づいた。
それが単なる友としての友愛なのか、それとも一人の異性としての愛情なのか。
分別がつきにくい感情に敢えて蓋をして、早苗は杏寿郎を引き続き友として見守ることを決めた。
それからというもの、杏寿郎は早苗の前で再び前述の話をすることはなくなった。
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