王子さまのキスの呪い
ネームプレートに書かれた歌沢の文字の上を、そっと撫でた。歌沢梓と名乗らなくなって約10年。名乗っていた頃のことは、ほとんど覚えていない。けれど、須藤と呼ばれるよりも、歌沢と呼ばれる方が心地が良いと思う。名乗ることは厄介な血を引いていることの証明になるようだけれど、それでも、そう思えてしまうのだ。

「なあ、さっきのババア何者?」
「一時期私の面倒を見てくれていた親戚の1人だよ」

真希ちゃんの問いに答えつつ、五条先生から預った錆び付いた鍵を鍵穴に入れて、ガチャガチャと回す。回りの悪さが人を立ち入れていない年月を主張した。そして、立て付けの悪くなった引き戸を無理矢理開く。埃が舞って肺に侵入してきたのにも関わらず、気分は高揚した。それなのに、直ぐに、ぎゅっと胸を締め付けてくる。

「大丈夫か、梓」
「うん、大丈夫だよ」

心配そうにこちらを窺ってくれるパンダくん。その横の狗巻くんや真希ちゃんも似たような顔をしていた。浮かび上がる情景は、任務に出かける両親の姿。あの日なくした幻影の1つ。靴を履いたまま、ズカズカとその中へと踏み込んだ。埃をたくさん被った床に、私たちの足跡がついていく。これも数ヶ月後には無くなっているんだろう。襖で遮られた数々の部屋。どれが自分の部屋だとか、全く覚えてはいない。雑草が生い茂っている庭も、ボロボロになった縁側も、カビだらけの浴室も、錆び付いたキッチンも。何処を見ても、何も感じなかった。

__梓

不意に聞こえてくる声。それは、とても見覚えがあった。でも、両親のものではない。

「おい、梓?」
「梓?何処行くんだ?」
「高菜?」

何も言わずに、私の後ろを歩んでくれていた友人達の戸惑う声が聞こえてくる。けれど、それは、私の動きを制するには甘かった。徐に何かに導かれるように、階段を上がっていく。階段を上れば、また襖でしきられた幾つもの部屋があった。床下や壁には、色濃く血痕が残っている。

「おかか!」

突然、狗巻くんに腕を掴まれて引き寄せられた。私が見ている物を見た友人達が息を呑む音が聞こえてくる。

「多分、この辺で、両親が殺されたんだと思う」

言わなくても分かるだろう現実を口にした。それは、まるで自分自身に言い聞かせるように、思い返すように反芻する。幾つもの部屋を一瞥し、ある一室で足を止めた。そこには、錆び付いてしまった楽器達が散らばっていた。それらは子供用の大きさだった。そして、窓際にはピアノも置いてある。

__梓、手の平をペシャンとしてはダメよ。丸くね、猫の手。
__いいの?本当にピアノを弾いていいの?
__いいわよ。私が結界を張っておきますからね。
__結界?
__あなたの旋律が人を呪わないように、旋律に乗る呪力を抑えるものよ。いずれ、大きくなったら使いこなせるようにならなきゃね。だって、

"音楽はたのしくて、やさしくて、美しいものだから"

此処で、はじめて結界という力を教えてもらった。旋律に負の感情を込めないといけない私に、まずは、楽器を弾くことの楽しさを教えてくれた場所。今では酷く矛盾していると分かるのに、両親は、音を奏でることを嫌いにならないで欲しいと願ってくれていたのだ。

「此処、多分…私の部屋だ…」

今では寝っ転がることもできないサイズのベッド。勉強机には、楽譜が積み上がっている。

__音楽なんてクソだ!!

「!」

急に響いてきた声。それは、さっき私を導いたものだった。それと同時にフラッシュバックする記憶たち。今の自分と同じ歳くらいの青年の顔が浮かび上がってきて、そして、紅に染まっていく。

(……だれ?もしかして、)

目の前が真っ暗になっていって、上手く息が吸えなくなった。助けを求めようと顔を上げた途端、

「ツナマヨ!」

闇の中を切り裂くように、狗巻くんの声が聞こえてくる。その後に、真希ちゃんやパンダくんが私の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。

「あ……ごめん、なさっ…」

触れてしまった真実を否定したいと思った。憶測が正しくなければ良いのに、と思う。そんな想いと共に、こみ上げてきた熱が、鼻をツーンとさせた。雫となって瞼から零れ落ちる雫を、丁寧な手つきで拭われる。

「狗巻く、」
「ツナマヨ」

狗巻くんの瞳の中に写る私の姿は、酷く滑稽だった。それに顔を顰めると、すかさず腕を引かれる。狗巻くんの匂いが、結界のように私を包み込んだ。その後ろから、真希ちゃんやパンダくんの手のぬくもりを感じる。

「おいおい、梓。私らのこと忘れてんじゃねえよ」
「どうしたどうした?棘だけじゃ満足できない?」
「おかか!」

彼らによって、普段の空気が再び巡ってくる。

「それにしても、棘、王子様みたいだったぞ?」

パンダくんのその言葉に、狗巻くんがグッと親指だけを立てた。顔半分が覆われているけれど、その表情はとても誇らしげだ。そして、ゆっくりと身体が離されて、自分自身の足で地に立たされた。指先をやさしく掬われて、それがゆっくりと狗巻くんの顔へと近づけられる。普段隠されている口元が、露わになって、ちゅっと甘い音を立てて私の手の甲に触れた。

「しらす」

2人が見ているのに、恥ずかしげもなく行われた行為。それを理解すると共に、全身が熱くなった。まるで、何かの誓いを立てるように示された言動は、とても美しくて熱帯びていた。

「やるなー棘。もう隠す気はないってか!?」
「隠さなくても、梓以外にはバレバレだったしな」

後ろに居る真希ちゃんとパンダくんが囃し立てる。気がついてなかったわけではないし、最近それがダイレクトに伝わってくることも多かった。けれど、認めたくなくて、踏み込むのが怖くて突き放すように、こわいと言ったばかりなのに。待ってって言ったばかりなのに。待つって言った癖に!頭に流れるのは抗議の思いばかりだ。

「あ…えっと…」
「ツナマヨ」

__分かってる

気づけば震えは止まっていて、視界に過ぎっていたあの日の幻影は消えていた。頭の中を支配するのは、狗巻くんのことばかり。

「いくら、めんたいこ。しゃけしゃけ」

励ましのように紡がれていくおにぎりたちが、私の全てを肯定しているような気がした。






20210122
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