寒冷地にて
高専から実家のある鎌倉までは、補助監督の伊地知さんが連れて行ってくれることになった。本来ならば、自分たちで行くのが良いのだと思うけれど、私たち2年生にはパンダくんという存在がいる。一般人にパンダくんのことを理解してもらうのは難しいだろう。
「…行きますよ。乗ってください」
道案内をしなければならない私が助手席に乗ろうとしたにも関わらず、真希ちゃんが静止するように其処に乗り込んだ。ワゴンの1番後ろにはパンダくんが寝っ転がっている。真ん中の席が空いてる状態になり、必然と私と狗巻くんが其処に座ることになった。
「ンだよ?文句あるのか」
「何も言ってないじゃん…」
怪しい笑みを浮かべた真希ちゃんを一瞥する。後ろでは、パンダくんがニヤニヤしていた。そんな彼らを全く気にしていない様子の狗巻くんは、窓の外を眺めている。私もそんな彼に倣って、外へと視線を移した。
「そういえば、須藤さん。五条さんから伝言があります」
ミラー越しに伊地知さんと視線がかち合う。続けられる言葉は、想像していたとおりのものだった。
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普段ならば悪ふざけする友人たちは、珍しく大人しかった。静寂に包まれた車内は、少し窮屈に感じてしまう。無理を言って来てもらったは良いが、みんなは一体何を考えているのだろうか。
「あ、次の信号を右です」
カチカチ、と右折のサインが一定のリズムを刻んだ。だんだんと見慣れた景色が広がってくる。近づくにつれて、懐かしさの中に紛れ込む複雑な感情に唇を噛みしめた。
「……ツナマヨ?」
誰1人として向けてこなかった視線が、私に向いた。隣を座っていた狗巻くんが、私の顔色を窺うように覗き込む。心配してくれているというのは明白で、私は力強く頷いた。
「大丈夫だよ。ありがとう」
この地には、良い思い出がない。そう言えば嘘になるかもしれないけれど、覚えていることは悲しい思い出ばかりだ。楽しい思い出は、思い出すと辛くなるから封じ込めた。そのせいで、気がつけば大事なことも忘れてしまったから。ぎゅっと拳を握りしめた。
「おかか」
おかかおかかと否定の言葉が紡がれる。マイナスな意味合いで使われる言葉なのに、その中に色濃く優しさが宿っていた。幾度となく感じたこの優しさが、そっと私の心を溶かしていくような錯覚がする。
「もうー。大丈夫だよ、狗巻くん」
「……しゃけ?」
「本当に!でも、心配してくれて、ありがとう」
握りしめていた拳の上に、狗巻くんの大きな手のひらが重なる。そして、彼は私の大好きなおにぎりの具を紡いだ。私にしか、使われない言葉。私だけの言葉。大丈夫だよって言ってくれてるように感じる。
「おい、何イチャついてんだよ」
「いやあ、いいなあ梓、棘。青春だなあ」
その様子に、残りの同級生が黙っている訳がなかった。気恥ずかしい空気を誤魔化すように、
「イチャついてなんかない!!」
と叫ぶ。そんな私の様子を見た狗巻くんが、悪戯っ子のように瞳を細めて、クスクスと笑った。あっという間に、いつも通りの空気に戻った。そのことに気づいてないフリをしながら、心の中で感謝を唱えた。
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1時間ほど車に揺られて、ようやく実家のある場所へと辿り着いた。伊地知さんにお礼を言ってワゴンを降りる。
「それでは、終わったら連絡をください」
呪霊の討伐に来たわけでもないので、本日は帳を降ろす必要はない。全て、終ったことの筈なのに、この拭えない不安はなんだろうか。そんな想いを秘めて、この場所から去って行く伊地知さんを見送る。ワゴンが見えなくなったところで、
「梓ちゃん…?」
「あ…」
見計らったかのように、40代くらいの女性が顔を出した。遠戚の方だった。昔、数年私のことを引き取ってくれたことがあるけれど、この人に抱いている感情は、決して良いものではない。隣に居た狗巻くんの腕を思わず掴んでしまう。
「お久しぶりです」
なんとか、そう言葉を紡いだ。顔が強張っているのが分かる。
「ええ。元気そうで良かったわ。今日はどうしたの?」
当たり障りのない言葉の中に含まれる感情に、そっと瞼を閉じた。偽りの笑顔も直ぐに分かる。そんな顔をしていながら、優しい言葉をかけたつもりになって、影で私のことを罵っていたくせに。そんなこと露知らずなのだろう。だって、普通ならば聞こえないくらいの声音だったから。それも、私には通じない。歌沢の血を引く人間は、常人よりも遙かに"耳"が良いのだ。
「家が取り壊されると聞いて、最後に見に来たんです。直ぐに、帰りますから」
だから、安心してください。そんな想いを込めて呟いた。そんな私を見て、おばさんの身体から力が抜けていくのが分かる。
「そう。くれぐれも変なことはしないでね」
あからさまに向けられた敵意に頷いた。すると、真希ちゃんや狗巻くんが、私を隠すように目の前に立ってくれる。パンダくんが、そわそわと動いたところで、大丈夫だからと静止した。
「行こう」
着いてきて、と足を踏み出す。不機嫌さを隠すことなく真希ちゃんが舌打ちをした。パンダくんは閉口したままでいてくれたが、眼光が鋭くなっている。
「おかかおかかおかかー!」
狗巻くんの精一杯の威嚇は聞こえてないだろう。私は口角が上がるのを抑えられなかった。拗ねた顔をした狗巻くんが、私の手を握りしめる。温かい指先から、結界のような力を感じてしまうのだから不思議なものだと思った。
20210120