…………いい匂いがする。

ああ、これはお母さんが朝ごはんを作ってくれている匂いだ。懐かしいなあ。
独り暮らしを始めてからはずっと自炊で、誰かに食事を用意してもらうなんてなかったからなあ。

「おはようございます」

「おは、ひぇっ!?」

お母さんじゃなかった。
およそこの世で一番恐ろしい人物が、真っ白なシャツに黒いエプロンを着けてベッドの横に立っていた。

「朝食とお弁当、出来ていますよ」

「あ……ありがとうございます……?」

流れでお礼を言ってしまったが、色々とツッコミどころが多すぎる。
まず、大前提として、この男は不法侵入者だ。昨夜はしっかり施錠して寝たから間違いない。
そして、そもそも私と彼はそういう関係ではない。むしろ、追いかけられて泣きながら逃げ回っているのが日常茶飯事である。

「起きてお支度して下さいね」

キッチンに戻って行った赤屍さんを混乱したまま見送り、それから我にかえって急いで身支度を始める。とにかく顔を洗って歯を磨いて着替えないと。メイクはもう手抜きでいいや。

支度を終えると、赤屍さんに促されてテーブルについた。美味しそうな料理が並んでいる。
ワカメと豆腐のお味噌汁を飲みながらちらりと視線を向ける。赤屍さんはにこにこと微笑みながら私を見つめていた。怖い。
今すぐここから逃げ出したい。だが、これから仕事なのでそんなわけにはいかない。
恐ろしい現実から目を背けて、私は美味しい朝ごはんを掻き込んだ。

「もうお腹いっぱいですか?」

「はい、ごちそうさまでした」

一瞬、頭をよぎったのは、ヘンゼルとグレーテルの童話だった。
お腹いっぱいになったところで食べるつもりなのだろうか。心臓がバクバク言っている。

「では、職場まで車で送って行きましょう」

「あ……ありがとうございます……?」

繰り返して言うが、この男は恋人でもなんでもない。不法侵入者だ。
何が目的なのかわからないことが余計に恐怖心を駆り立てる。

「さあ、お弁当を忘れずに。行きましょうね」

小脇に抱えられて車まで連れて行かれる。
ちょうどタイミング悪く、ゴミ出しに行く途中の大家さんがいて、興味津々といった感じで私達を見ていた。

「おはようございます」

「あら、おはようございます」

大家さんが頬を染めて赤屍さんに挨拶を返す。

「いつもなまえさんがお世話になっています」

やめて!勘違いされるからやめて!

「いいわね、なまえちゃん。素敵な彼氏がいて」

やめて!勘違いされてる!やめて!

車の助手席に詰め込まれた私はもはや半泣きになっていた。
赤屍さんにしなやかな指でそっと涙を拭われる。
慈しむような眼差しから目を逸らしてぷるぷる震える私に、赤屍さんはにっこり笑いかけた。

「なるほど。外堀から埋めるのもアリですね」

ぱおん!


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