余ったリーフレタスを一枚もしゃもしゃ食べていたら、台所に入ってきた玉章に「ウサギみたいだね」と笑われた。
そういう旦那様は狸の妖怪だ。
今は湯上がりで、しっとりと湿り気を帯びた黒髪や全身から色香を漂わせている。
まるでここが妖怪の屋敷ではなく、何処かの老舗の温泉宿のような風情だ。

「今日は牛スジ入り?生意気な奴だな。犬のくせに」

肩に掛けた真っ白なタオルで濡れ髪を拭きながら玉章が言った。
勝手口の近くでは彼の犬がご飯の真っ最中だったのだ。
玉章の指摘通り、煮込んだ野菜の中に牛スジを混ぜこんである。
犬は玉章のほうを見て軽く尻尾を振ると、またすぐに食事を再開した。
今日の餌には小さく切ったキュウリが入っているため、噛み砕くたびに小気味の良い音がしている。

なまえは玉章の犬に市販のドライフードと手作りの餌を朝晩交互に与えていた。
好き嫌いは無いみたいで、今のところ何でもよく食べてくれている。
特にうどんが好きなようで、たまに茹でた野菜や鶏ささみと一緒にうどんを出した時には大喜びで食べている。

「玉章さんが用意してくれたお肉じゃないですか」

「別にあげろとは言ってないよ」

涼しい顔で言って犬を見下ろす玉章に、なまえは水を注いだグラスを手渡した。
受け取った玉章はやはり喉が渇いていたらしく、ごくり、ごくり、と喉を鳴らして水を飲み干した。
その白い喉元で動く喉仏のなまめかしさときたら、まあびっくりだ。
これでこの間まで高校生をやっていたというのだから信じられない。

玉章は濡れた唇を僅かに開き、「ふう…」と息をついた。

「入っている時は気持ちがいいけど、この時期はやっぱり少し暑いね」

「湯上がりは特にそう感じますよね」

相槌を打ちながら玉章の肩に掛けられていたタオルを取り、彼の頭に被せて丁寧に水気を吸収させていく。

「犬に餌をやり終わったのなら、君も早く入って来るといい」

「はい、そうします」

あらかた水分を拭き取り終えたのを確認して、なまえはタオルを外した。
ドライヤーがないので完璧に仕上げられないのが残念だ。

「それとも…この前みたいに一緒に入りたかった?」

玉章との距離は半歩ほど。
顔を上げた状態でいたなまえの目には玉章が映っている。
頭一つ分高い位置にあった顔が近づいてきて、ごく自然に唇が重なった。
鳥がそうするように、なまえの唇を何度か軽く啄んでから離れていく。

──わん!

一声吠えた犬が足元にまろび寄ってきたことでなまえは我に返った。
どうやら餌を食べ終えたらしい。
何か言われる前に犬は自分からごろんと仰向けに転がり、玉章に腹を見せた。

「なんだ、この腹は。だらしない」

口では責めるような事を言いながらも、玉章の左手は丸く膨らんだ犬の腹を優しく撫でてやっている。
なまえも近頃では慣れたもので、この男は言葉攻めと優しい愛撫が1セットなのだということが分かってきていた。
犬も自分が構われているのがちゃんとわかるらしく、尻尾がはたはたと動いて土間の上を掃いている。

「あの……お風呂入ってきます…!」

なまえはドキドキしている胸元を手で押さえ、逃げるように台所を出た。
そうしなければ、“物足りない”と感じてしまった自分が何を口走ってしまうかわからず恐ろしかったのだ。
まさしく狸に化かされた気分だった。


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