切り立った崖の向こう側には青い海原が広がっていた。
赤い夕陽を受けてキラキラと輝く様がとても美しい。
玉章がこの場所を選んだ理由がわかる気がする。

近くの沢で汲んで来た水を五つ並んだ石の墓標に掛け、途中で摘んだ野の花を供えた。
石碑のようにも見えるこれらは、浮世絵町で犠牲となった妖達を弔うために玉章が建てたものだ。

なまえが手を合わせて冥福を祈っている間、玉章は彼女の傍らで静かに佇んでいた。
その足元には一匹の犬が主人に従う忠犬といった様子で寄り添っている。
口に出して言った事はないが、なまえはこの犬を一目見た時からまるで犬神の生まれ変わりのようだと思っていた。
そうならいいのにと願う身勝手な願望からくる思い込みかもしれないけれど、もしも本当に犬神の生まれ変わりならば今度こそ幸せになって欲しいと思わずいられない。

「そろそろ陽が沈む」

なまえが顔をあげると、独り言のような口ぶりで玉章が呟いた。

「帰ろうか」

“帰る”
そう、自分にはちゃんと帰る場所がある。
両親と暮らした家はもうないけれど、新しい居場所が出来た。玉章が作ってくれた。
彼の足元にいる犬が、舌を垂らしてハッハッと息を吐き出しながら尻尾を振る。

「はい…!」

なまえは頷き、踵を返して崖に背を向けた玉章の横に並んで歩き出した。


**


「ほら、怖くないからおいで」

わん、わん、くうーん。
鳴いて逃げ回る子犬を、なまえは困った顔で見遣った。
別に苛めようというわけではない。
家に入れる前に足を洗ってやろうとしたところ、濡れるのを嫌がってか、逃げ回っているのだ。
外で寝るのならそれでもいいが、玉章にくっついて帰ってきて以来この野良犬は彼にベッタリで、屋敷の中で寝起きさせているため、土で汚れたまま畳に上げるわけにはいかない。

自分の足元に逃げてきてつぶらな瞳で見上げてくる犬を、玉章は冷ややかな目で見下ろした。

「汚れたままじゃ家に上げてやらないよ」

途端にキュンキュン情けなく鳴きながら慌てて戻ってきた子犬の足を、なまえは笑いながら手早く洗ってやる。

「何を笑ってるんだい」

「いえ、可愛がってるなあと思って」

「そう見えるとしたら君の目はかなりおかしいね」

玉章はふんと鼻で笑い、さっさと屋敷に入っていった。
桶の湯で泥を洗い落としてなまえに綺麗に拭いて貰った子犬が、廊下で滑って転けつまろびつしながら慌ててその後を追いかけていく。

玉章は「僕は甘やかしたりしないよ」と言ったけれども、甘やかしてるよなぁとなまえはしみじみと思う。
もちろん、世間一般で言われるところの『バ飼い主』みたいな甘やかし方ではない。
子犬は普段、玉章の後ろをついて歩くか、そうではない時は彼の腕に抱きあげられている。
それだけ見ても随分と可愛がってやっていると思わずにいられなかった。
犬の餌なんて残飯で充分だなんて言いながらも、ちゃんと犬のご飯用の野菜も手配してくれていることだし。

「よしよし。全く…仕方のない子だね」

呆れたように言いながらもちゃんと子犬を抱き上げてやっている玉章を見て、なまえは必死に笑いを堪えなければならなかった。

(あれで可愛がってないって、逆におかしいよね…)

怪訝そうに柳眉を寄せた玉章が足を止めて振り返る。

「早くおいで。置いていくよ」

なまえは最近、自分の旦那様はもしかしてツンデレなのかもしれないと思いはじめていた。


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