隠神刑部狸の玉章。
そう少年は名乗った。

「君のご両親から、万が一自分達の身に何かあった時には君を守って欲しいと頼まれていたんだ。正確には、頼まれたのは僕の父だけどね」

外は雨が降っている。
しとしとと降り続くその雨音を聞きながら、和室の中でなまえと玉章は向かい合って座っていた。

「君は覚えていないかもしれないけど、僕達は前にも会っているんだよ」

その瞬間、脳裏に蘇る記憶があった。
もっとずっと小さい時に一度、祖父の親戚だという人の元に連れて行って貰った事がある。
山の中で、小さな狸がいて、見上げるほどにとても大きな狸がいた。
好奇の眼差しがチクチクと肌に刺さる中、一人だけ優しくしてくれた男の子がいた。

「お兄ちゃん…?」

「ああ、そういえばそんな風に呼ばれていたかな」

玉章は唇の端を吊りあげて薄く笑った。

お花を摘んでくれた優しい男の子と、今目の前にいる少年とは少し印象が違って見える。
優しく微笑んではいるが、全体的に冷ややかな感じがするのだ。

「この際だから、はっきり言っておこう。君は僕の許嫁だ」

「え……ええっ!?」

「『娘が生まれたら、隠神刑部狸の息子とめあわせる』。それが僕の父と君の祖父との間に交わされた約束だった」

玉章は感情をこめずに淡々とした口調で説明した。

「僕の兄達は全員死んでしまったから、隠神刑部狸の息子はもう僕しかいない。つまり、君を娶る資格があるのも僕だけということだ。不服かい?」

「いえっ、そんなことは…」

「今君にこの話をするのは覚悟を決めて欲しいからだ。君を迎えて守るということは、僕の許嫁として迎えるということだからね。四国八十八鬼は僕が率いる事になる。君にその僕の妻になる覚悟があるかどうか……それを確かめておきたい」

こちらの胸のうちを見透かそうとする視線の強さに、なるほどなと納得した。
こういうところは人間も妖怪の世界も変わらない。
そうそうウマイ話などないという事だ。
なまえは気を引き締めた。

「黙って連れて行く事も出来たのに、話して下さってありがとうございました」

居ずまいを正して頭を下げる。

「でも……私は……」

「僕と一緒においで」

先ほどまでの淡々とした口ぶりが嘘のように、優しく甘い声がそう囁いた。
俯いていたなまえの頬を両手で包み込むようにして玉章が顔を上げさせる。
真正面からなまえの揺らぐ瞳を射抜く。

「君が僕を選んでくれるのなら、僕の全てで君を守ろう。僕の傍にいて、僕を支えてくれ」

「あ…」

「僕には君が必要だ」

それは、両親を失い、独りぼっちで生きていこうと悲愴な覚悟を固めようとしていたなまえの心を揺るがせるには充分すぎるほどの魅力があった。

「僕と来い。なまえ」


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