(──ああ、これは寝てしまうな)

半兵衛は笑いを噛み殺しつつ、右手で教科書を捲った。

紙が立てる密やかな音にも天音は反応を示さない。

放課後、半兵衛の部屋で二人きりの勉強会を始めてからずっと彼女が眠そうなまばたきを繰り返していたことには気が付いていた。
それが、今はもう目蓋が閉じている時間のほうが長くなってしまっている。

(眠ったらキスをしてしまおうか)

そんな不埒な事を企みながら、半兵衛は頬杖をついて少女を見つめ続ける。

その唇が誘うのがいけない。
例えば、難しい問題に悩んでいるとき、真剣な表情できゅっと結ばれた唇。
お菓子を食べるときにぱくりと口にする瞬間の唇。
半兵衛にしてみれば、誘惑されているとしか思えない可愛らしさだ。

この前は触れるだけのキスだった。
今度はもう少し──

こくり、と首がかしいだ拍子に天音がはっと目を開いた。
慌ててごしごしと目を擦る彼女の幼い仕草を見て苦笑する。

「残念」

「な、なにが?」

「何でもないよ。さあ、残りを片付けてしまおう」

「?う、うん」

「そこ、綴りが間違ってる。“t”は二個だよ」

「えっ…あ、ほんとだ」

半兵衛に指摘され、天音は間違えていた部分に消しゴムをかけた。
半分眠りながら書いた英文だが、奇跡的にスペルミスはそこだけだった。

「寝ながら書いたわりにはちゃんと出来ているじゃないか」

自分の分はとっくに終えたらしい半兵衛にチクリと意地悪を言われる。
ノートから顔を上げると、電気の明かりで彼の眼鏡が光って見えた。

「半兵衛、最近ずっと眼鏡したままだね」

「これがないと、どうも落ち着かなくてね」

指先でブリッジを押し上げる仕草もすっかり様になっている。
実のところ、半兵衛は別に視力が悪いわけではない。
彼が掛けている眼鏡は度が入っていない、いわゆる伊達眼鏡なのだ。
それは彼にとって一種の仮面のようなものなのかもしれないと天音は思っていた。

いつからだろう。
彼が眼鏡のガラスの向こうに本心を隠してしまうようになったのは。

確か、中学に入学するときにはもう掛けていた。
小学校のときはしていなかったのは間違いないから、たぶんその間に半兵衛の中で何らかの心境の変化があったに違いない。

「何を考えてたんだい?」

つい考えこんでしまっていると、半兵衛が首を傾げて笑った。

「さっきからずっと百面相してるよ」

「えっ、う、うそ…!」

「面白かったからいいけど」

「や、やだやだっ、よくない!もう見ないでっ」

「残念だけどそのお願いは聞いてあげられないな」

「半兵衛!」

「はは」

半兵衛はついていた肘を下ろして、今度はテーブルの上で両手の指を組んで正面からじっと見つめてきた。
笑ってはいるけれど、その瞳は鋭い。

「僕には言えない事?」

「そういうわけじゃ…」

天音は口ごもり、それから近頃頭を悩ませていた別の問題を身代わりに差し出すことにした。


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