「能を見に行かないか!」 そう誘われたのは、任務明けで部屋に戻っていた時のことだった。 煉獄のほうも同じく任務帰りのはずだが、その表情からは疲労のひの字も伺えない。 外出はもはや決定事項であるらしく、彼は隊服ではなく着物に袴姿で、濃紺の羽織を肩に羽織っている。 「えっ」 「疲れているところすまないが、すぐに支度をしてくれ」 「わ、わかりました」 「ありがとう!では、待っている」 障子が閉められるや否や、なまえは慌てて行李から余所行きの着物を引っ張り出した。 なるべく急いで、しかし、見苦しくないように身支度を整えなければならない。 逢い引き、という言葉が頭に浮かぶ。 なまえはぶんぶん首を横に振ってそれを打ち消した。 違う。 師範はただ継子に様々な見聞をさせてくれようとしているだけだ。 面倒見の良い煉獄の純粋な気遣いを特別な好意だなどと勘違いしてはいけない。 そうわかっていても、浮き立つ気持ちを抑えられなかった。 「その着物は初めて見るな!良く似合っている」 支度を終えたなまえを見て、煉獄は優しくそう言ってくれた。 本当に優しい方だ、と胸が熱くなる。 「ありがとうございます」 「では、行こうか!」 「はい」 今日くらいは楽しんでもばちはあたらないはずだ。 何しろ、こちらは年頃の娘だというのに、年がら年中あちこちを駆け回って鬼退治に命を懸けているのだから。 「情報収集以外で町を歩くのは久しぶりです」 「そうか、そうだな」と頷いた煉獄が尋ねてくる。 「開演までまだ時間がある。何処か見てみたい場所はあるか?」 「いえ、大丈夫です。師範こそ、普段お忙しいのですから、お好きな所へ寄って下さい」 「では、一軒付き合ってくれるか」 「はい、喜んで」 煉獄がなまえを連れて行ったのは、いかにも老舗といった佇まいの店だった。 「胡蝶に聞いてな!ここの細工物が一等優れているらしい!」 簪や髪飾りなどが並ぶ店内に入って行きながら煉獄が言った。 なまえはというと、高級そうな品の数々に気後れしてしまって、煉獄について行くのが精一杯だ。 「これはどうだろう。似合うと思うのだが」 一瞬、煉獄の言葉が理解出来なかった。 似合う?誰に?胡蝶様?と頭の中でぐるぐる考える。 「うむ、やはり思った通りだ!君に良く似合う」 なまえの髪に髪飾りを寄せて煉獄が笑った。 それは、胡蝶姉妹が身につけている蝶の飾りと同じくらい繊細な細工が施された花の髪飾りだった。 「そんな、こんな高価なもの頂けません」 なまえは青ざめて首を振った。 いったい幾らするのか想像もつかない。 それに。 「それに……こういう可愛らしいものは、蜜璃さんのほうが」 「俺は君に贈りたい」 猛禽類を思わせる眼がなまえをひたと見据えていた。 「嫌ならば無理強いはしない。だが、そうでないのなら、どうか受け取ってくれ」 困惑するなまえに、煉獄が告げる。 師範である彼にそこまで言われては、断るのは逆に失礼な気がして、なまえはおずおずと頷いた。 「ありがとうございます、師範」 「礼には及ばない。俺が好きでやったことだ」 じっとしていろ、と言って、煉獄は購入したその髪飾りを手ずからなまえの髪に着けてくれた。 「可愛いな」 満足そうに笑う煉獄に、なまえは恥じらって俯いた。 その後観に行った能の内容がさっぱり頭に入って来なかったのは言うまでもない。 |