24:00
冬
の香りがした。
私を孤独に追い込んでいく、しびれるような冷気の匂いがした。
温かいお湯を張った浴槽の中に肩まで浸かっているはずなのに、強張った指先は今も冷たいままだった。極度の緊張状態にあると、それを解決しようとして頭に血液が集まり、末端の指先は冷えていく。実に解りやすいメカニズムである。
(今更、何を緊張する必要があるの)
私は自嘲気味に吐息を零して湯船の中で膝を抱えた。とぷん、と音を立ててさざ波が広がっていき、浴槽の淵から僅かにお湯があふれ出る。
あの人が最後に目にしたあの池も、こんな風に波立っていたのだろうか。
と、私は今回の事件のクライマックスの舞台となった意外な場所を思い浮かべた。
東都大学で起きた爆破テロ未遂事件の顛末については、ギルバートから粗方報告を受けて知っている。零さんが周到に伏線を張り続けていたお陰で、首謀者の素性も、彼らの動機が何であったかも、その手段がどんなものであるのかも、全てが手に取るように解った。今回、私が彼のためにしてあげられたことはほとんど何もなかったけれど、阿笠博士と共に開発したアイトラッカーが、そして私の頼みを引き受けてくれた沖矢さんが、私の代わりに事件を解決に導く支えとなってくれた。
だから、あの人は大丈夫。
多少のケガは負っているようだけれど、命に別状はないはずだ。
あの人はきっともうすぐ、私の待つこの部屋に戻ってきてくれる。
(大丈夫……)
自己暗示のようにそう繰り返しても、身体の震えはちっとも収まる気配を見せなかった。
このまま湯船に浸かっていても到底リラックスは出来ないだろう。私は入浴による気分転換を諦めて、浴槽の縁を掴んで立ち上がった。
タオルで肌の水分を拭き取って、手触りのいい部屋着に袖を通すと、私は入念にボディケアを行った。零さんが帰ってきた時に私がくたびれた姿をしていると、優しい彼はきっと気に病むだろうと思ったのだ。以前、彼が「この香り、好きだな」と言っていたボディクリームを掌に出して、脚の表面に薄く延ばしていく。ようやく納得がいくまでスキンケアが終わると、時計の針は既に12時を回っていた。
「…………」
今日は長い1日だった。今朝、この部屋の玄関から零さんをポアロへ送り出したのが、遠い昔のことのように感じられる。
人間の時間感覚が伸び縮みするということは、実は脳科学でも解明されている。
触覚、味覚、視覚、聴覚、嗅覚といった五感を、人間はそれぞれ脳の中の1つの特定領域で処理している。これに対して、時間の感覚は脳のいくつもの領域を使って多段階のプロセスで処理している。そのため、目まぐるしく情報を次々に受け取らなければならないような時間を過ごすと、時間感覚を生み出すための脳の処理には時間が掛かる。注意力が高まった時に、脳内の情報処理に時間が掛かれば掛かるほど、人間は時間が長くなったように感じるのである。反対に、脳が多くの情報を処理する必要がない時は、時間は短く感じられることになる。
今日は情報量が多い1日だった。だからこんなにも長く感じるのだ。あの人と離れて、まだたったの17時間しか経っていないはずなのに。
寂しさを振り払うように頭を振ると、私はスキンケアセットの入ったポーチを持って脱衣室の扉を開けた。リビングに戻ると、私が近付いてきたことを察知して、すかさずハロちゃんが駆け寄ってくる。
「おいで、ハロちゃん」
「アンッ!」
「あなたは温かいのね。ふわふわして、気持ちいい……」
アニマルセラピーとやらを体験したことはなかったけれど、まさしくこういう気持ちなのかも知れない。冷え冷えとした心に温かいモフモフは強烈に効いた。ハロちゃんも今の私がかなり弱っていることを知っているためか、嫌がる素振りも見せずに好きなだけモフらせてくれた。
「ごめんなさい、ハロちゃん。あなたも飼い主さんが戻らなくて不安でしょう」
「クゥーン……」
「だけど、酷いと思わない?せめて一言、連絡をくれたっていいのにね」
私がわざとらしくしかめっ面を作って唇を尖らせると、ハロちゃんは同調するように元気に相槌を打ってくれた。
「終わったよ」でも「無事だ」でもいい。何ならギルバートに言付けするだけでも構わないのに、零さんからの連絡はついぞなかった。だから、余計に彼を待つ時間が長く感じられるのだ。彼の言葉で直接彼の無事を確かめることが出来ていないから、こんなにもそわそわしているのだ。
あの人が帰ってきたら、最初は寝たふりをして困らせてやろう。あの人だって今朝、私に全く同じことをしたのだから、怒られる筋合いはないはずだ。半ば本気でそう思うほど、この時の私は憤慨していた。
けれどそんな決心は、いとも容易く崩れてしまった。
玄関の外から聴こえてくる、ひとつの足音によって。
「―――……」
唇だけを動かして、思い当たる人物の名前を呼ぶ。その声に応えるかのように、足音は次第に大きくなった。
「アンッ!」
人間の聴覚よりもよほど発達した耳を持つハロちゃんが、私の腕をするりと抜け出て玄関へと駆けていく。その背中を茫然と見送って、私もゆっくりと腰を浮かせた。
足音が大きくなる。その音に導かれるように、私の足も勝手に玄関へと向かっていた。
1秒でも早く駆け付けたいと思っていたはずなのに、雲を踏んでいるかのような心地がした。
そうして伸ばした私の手が、青い扉のドアノブに触れようとした瞬間、
外側から勢いよく扉が引かれ、身を切るような冷気と共に、誰かの気配が玄関先に飛び込んできた。
「っ!」
相手もまさか、私がこんな所で待ち構えているとは思っていなかったのだろう。驚きに目を丸く瞠ったのも束の間、すぐにその瞳を甘く蕩けさせて目尻を下げた。
「……さくら、」
「…………ッ」
「さくら、こんな時間まで待たせてすまない」
ただいま。
そう言って、彼は血と砂埃で汚れた両腕を広げた。
夜露に濡れた枯葉のような、冬の香りがした。
苦しくて寂しくて、けれど最後はとびきり幸せな、冬の1日が終わろうとしていた。
Fin.