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視ゴーグルをつけて“森”の中を疾走する僕たちを、爆発物処理班に所属している警察犬の“エリー”が先導する。彼女は爆発物探知犬として訓練を積んだ立派なベテランで、これまでにも都内の様々な場所で発生した爆破未遂事件を、未遂に終わらせてきた実績のあるプロだった。

「匂いだけで特定するなんて、悠長なことをしていて大丈夫なんですか?」
「解りません。ただ、報道ヘリの8Kカメラが捉えた映像をギルバートにスキャンしてもらった結果、この近くにジメチルジニトロブタンの反応があったという報告は受けています」

沖矢昴の質問に答えながら、僕は10分ほど前から飛び回り始めた報道ヘリにちらりと視線を走らせた。ジメチルジニトロブタン(2,3-dimethyl-2,3-dinitrobutane)は爆発物マーカー(探知剤)として使用される揮発性物質である。C4の組成には0.1パーセントしか含まれていないが、爆発物探知機はこの物質に対して極微量であっても敏感に反応するように作られている。

「なるほど。マスコミも、偶にはいい仕事をするんですね」
「と言うよりも、ほとんどこのためにマスコミをここに呼び寄せたようなものですから。監視カメラだけで拾える映像なんて微々たるものですよ」

本当は、ただでさえ天候不良で見晴らしが悪く、深夜帯に差し掛かろうという時間であったため、報道機関のヘリの出動は長らく見送られてきた。しかし、思わぬ経緯で上空からの映像が必要になったため、マスコミ内部の協力者に働きかけて、半ば無理やりヘリを飛ばしてもらったのである。
どうせヘリを出すなら一大スクープを撮ってやろうと、マスコミ各社は血眼になって上空からの詳細な映像を撮影し始めた。それをギルバートが待ってましたと言わんばかりに片っ端から解析して、爆発物マーカーを探し当てたという訳だ。お陰で広大な“森”を逐一探索する時間が大幅に省けた。時間がない時ほど慎重に、そして大胆に立ち回らなければ、公安の世界では生きていけない。

「ギルバートから送られてきたポイントは、ここですね」
「ここは……武道場ですか。道場の中に設置されているのか、それとも外に埋められているのか……」

ギルバートから教えてもらった爆発物マーカーが反応した地点は、講堂側に居た僕たちからは対角線上に位置する“森”の外れの武道場だった。

「さあ、エリー。頼んだぞ」

僕の言葉を聴いているのかいないのか、エリーは地面に鼻を近付けて、匂いを嗅ぎながら前進を続けている。僕たちも武道場の鍵を堂々とピッキングして、土足で屋内に踏み込んだ。

(今から見つけたとしても、起爆装置を解体するには時間が足りない。信管を無効化する時間が残されていればいいが……)

暗視ゴーグルのお陰で視界は良好だったが、焦りによって狭くなった視野の中に爆薬は映っていなかった。沖矢昴の方も僕と似たようなもので、室内干しにされていた剣道の防具などをひっくり返して確認しても、どこにも爆薬は見つからなかった。

「バウバウッ!」

タイムリミットまで残り2分となった時、屋外を探索していたエリーの態度が豹変した。

「エリー、見つけたんですか!?」

張り詰めた様子の沖矢昴の声が、夜の闇の中に響く。僕はスマートウォッチをフラッシュライトに切り替えて地面に向けた。
そこにはごくわずかではあるが地面を掘り返した跡があり、エリーはその場に鼻を押し付けたまま低く唸っていた。

「間違いない、ここですね。エリー、離れてください」

沖矢昴はリュックサックから棒状の何かを取り出して、躊躇うことなく柔らかい土を掘り返した。
お目当ての物が見つかったのは、それからすぐのことだった。地面から15センチほど掘った小さな穴の中に、クリーム色をした粘土状の爆薬がポツンと取り残されていた。

その表面に取りつけられていた文字盤を見て、僕も沖矢昴も同時に顔を引き攣らせた。

「爆発まであと―――30秒しか残っていない……!」

30秒ではどう足掻いても、信管を無効化したり雷管を除去したりすることは不可能だ。僕は辺りを一瞥すると、意を決して地中に埋まったC4に手を伸ばした。

「仕方ない、それをよこせ!」
「ッ、安室さん、一体何を!?」
「アンアンッ!」

僕は沖矢昴の手元から地中に埋まっていたC4を引ったくるように奪うと、驚きに両目を見開く彼と、全身の毛を逆立てて吠えるエリーを残して、来た道を全速力で引き返した。

「安室さん!」

沖矢昴の声が追いすがるが、今の僕にはそれに付き合っている暇はなかった。

あと20秒。
あと15秒。

鬱蒼と茂る木々を掻き分けながら前へ進み、ようやく目的の位置に着いた時、残されていた時間は10秒を切っていた。

「いっ……けええええええええ!!」



僕は人目も憚らずに腹の底から声を振り絞ると、大きく腕を振りかぶって手の中の固体を投げた。目の前に黒々と広がる、周りの風景を逆さまに映している鏡のような水面へ向けて。
“森”の中央に陣取っている大きな池目掛けて、僕は最後に残っていた爆薬を放り投げた。

投げたと同時に踵を返した。爆弾が水面に吸い込まれていくのを見届けることもせず、一心不乱にその場から離れようとひたすらに足を動かした。短い階段を駆け上がり、近くに植えられていた太い幹をした樹木の背後に回ると、そこにしゃがみこんで姿勢を低くする。

直後、
ドォン!
と轟音が鳴り響き、池の中央から大きな水柱が立った。

「―――!!」

頭を下げて両耳を庇っていたにも関わらず、その音波は僕の鼓膜をびりびりと痛めつけた。空気の圧力が遅れてやって来て、僕が背中を預けていた大きな樹をざわざわと揺らしていく。
空気の振動が収まった頃、きな臭い匂いに顔を顰めながら、ようやく僕は池の中央を振り返った。

「…………はっ」

大きな池は黒々とした水を湛えているばかりで、静かに揺れる水面が爆風の余韻を漂わせているのみだった。明日、朝日が昇れば池に住んでいた多くの生物の遺体が上がることになるだろうが、明かりもないこの時間にこの距離でそれを判別することは、いくら暗視ゴーグルを着けていても不可能だった。

助かった。
最後に残っていた爆弾は、たった今目の前の水中で跡形もなく消し飛んだ。

「っ痛、ぅ」

そう思った瞬間、極度の緊張感から体が解放され、右肩に走る痛みを脳がようやく認識した。今の今まで気付いていなかったが、どうやら先ほどの爆風で飛んできた枝が肩を掠め、大きなケガではないが切り傷が出来ていたらしい。

「命を喪うことに比べれば、こんな傷、微々たるものだ」

僕は誰にともなく一人言ちながら、太い幹に手を掛けて立ち上がった。砂埃と煙の臭いがひどい。洗濯しても落ちなければ、コートもシャツも潔く捨ててしまおう。
そんなことをぽつぽつと考えていると、左手首から小さなクリック音が鳴り、落ち着いた男の声が聴こえてきた。

「お疲れ様でした、降谷さん。今度こそ本当に、C4の脅威は去りましたよ」
「ああ、お疲れ、ギルバート。マスコミは最後の水柱を綺麗に撮影できたかな」
「そうですね。あなたが最初にヘリを飛ばせと協力者に指示を出した局のカメラだけは、綺麗に一部始終を収められたようですよ。いい置き土産になりましたね」
「ふ……、それでもやっぱり、スクープとしては地味だがな」

だが、その地味さこそが公安警察の真骨頂である。この大学が火の海になれば、マスコミ的にはおいしい絵面になったことだろうが、翌日には日本中が大パニックになっていただろう。

「沖矢昴と、エリーはどうしている?」
「爆発の瞬間、沖矢さんがエリーを抱き込んで地面に身を伏せていたお陰で、両名ともかすり傷1つありません」
「そうか。こんなにボロボロになっているのは僕1人か」
「ですが、名誉の負傷でしょう?」
「……さくらはきっと、僕のこんな姿を見たら泣くだろうな」
「それは仕方ありません。甘んじて受け入れてください」

決して僕を甘やかしてはくれない相棒の言い草に、僕は苦笑を漏らして空を仰いだ。さっきまで、確かに分厚い雲が広がっていたはずの夜空には、風が雲間を吹き飛ばしたかのように、いつの間にか丸い月がぽっかりと姿を現していた。
それを見て、何故か僕の脳裏に過ったのはふわふわのパンケーキだった。そう思った途端に、腹の虫が鳴かないまでも、急激に空腹を意識してしまう。

(そう言えば、昼の休憩時間にも碌にものを食べていなかった)

道理で疲労感が強いわけだ。手足が鉛を付けているかのように重く感じる。だが、今日は家に帰れば、さくらの特製ディナーが僕を待っているのだ。それを思い出すだけで、再び全身に力がみなぎってくるようだった。

まずはこの暗視ゴーグルを返して、マスコミを追い払って、それから風見たちと共に撤収して、それから。
誰よりも愛しい彼女の待つ家に、帰ろう。

瞬き始めた夜空の星に誓うように呟くと、僕は最初に立てた目標を達成するために、“森”の外れに立っている武道場へと足を向けた。