22:45


々と輝く月を分厚い雲が覆い隠した、気分が重苦しくなりそうな曇天の晩だった。
僕は沖矢昴と並んで歩きながら、雲の向こうの星空に想いを馳せてため息を吐いた。

「どうしたんですか、ため息なんて吐いて。幸せが逃げていってしまいますよ」

飄々と、あるいは抜け抜けとそんなことを尋ねてくる男に、僕は憮然とした眼差しを向けた。この場の空気を中和してくれそうな風見と谷川は、本部棟に立て籠もっている犯行グループの身柄を押さえに行っているためここには居ない。僕は犯人たちに存在を知られる訳にはいかない“ゼロ”の人間であるため、身柄確保の現場には居合わせない方がいいと判断したのだ。風見だけならまだしも、谷川が一緒ならば犯人たちを取り逃がす心配もない。

「いいえ、どうもしませんよ。あなたが僕の知らない所で僕の恋人と勝手に取引をして、重大な任務を任されたからと言って、僕は何にも気にしてなんかいませんよ」
「本田さんを疑うのはやめてあげてください。彼女は本当に、あなたを助けることだけを一心に願っていたんですから」
「……言われなくても」



今更お前などに指摘されなくても、さくらがどれだけ僕のためを思って行動して、手を尽くしてきてくれたのかは、誰よりも僕が1番知っている。僕はそう答える代わりにツンとそっぽを向いて、この大学のシンボルであるゴシック様式の建物を見上げた。正面にやけにデコラティブな時計が取り付けられた講堂は、先ほどまで真っ先に爆破される危険性があったにもかかわらず、そんな事実はまるで知らん顔といった体で、今もどっしりとそこに鎮座している。

時刻は、間もなく23時になろうかという頃合いだった。警視庁から報道陣にタレコミを流した時に“爆破予告”として伝えた時間は21時。それからおよそ2時間が経過しても、一見して何の変化もない大学構内を、マスコミは今もただダラダラと中継し続けている。キャンパス内では公安の刑事たちが目まぐるしく動いているのだが、そんなことは露ほども知らないアナウンサーたちは、既に退屈している様子だった。

(それでいい。このまま、犯人たちが大人しく風見たちのお縄に付いてくれれば、公安事件の解決としては最良の結果になる)

スクープとして扱うには地味だろうが、放送局の視聴率などこちらにとっては知ったことではない。願わくばこのまま、何事も起きないうちに解決して欲しかった。

「降谷さん。踏み込みます」
「了解。―――抜かるなよ」
「はい。お任せください」

風見からの報告を受けて、僕は短いエールを送った。講堂の隣の建物、本部棟の右端の、さくら風に言うならば“赤の3、黒の2”の部屋へと視線を移す。現在あそこに立て籠もっているメンバーは全部で5人。リーダーである博士課程の男が1人と、修士課程の男が2人、そして学士課程の男女が合わせて3人いるはずだった。

このリーダーの男というのが、とんでもない曲者だった。さくらに接続してもらった歩容認証システムで抜き出したリーダーの歩く姿勢が、警察庁の犯歴データベースに保管されていた某国の工作員のものと一致したのだ。

現在彼は岡林英二と名乗っているが、それは偽の名前である。いや、正確には偽の名前というのも違う。岡林英二という東都大学の博士課程に在籍する男は、実在していたのだ。それを某国の工作員が、背乗りに利用するために殺害した。
背乗りとは、他国人が1人の人間を殺し、その身分や国籍を乗っ取ってなりすますことである。旧社会主義国などのイリーガルな諜報活動では常套手段として使われており、今の“岡林英二”もそんな諜報を行う人間の1人だった。そうして彼はこの大学の中で地道に同志を増やし、今回の犯行に及んだという訳である。

犯行の動機は本人に聴取してみなければ解らないが、思い当たる候補はいくらでもある。日本の政治家のポストは依然として東大出身者によって占められている。それは僕のような警察官僚にしても同じことだ。その牙城である東都大学を、何の前触れもなくテロによって跡形もなく吹き飛ばされてしまったら。一部政治家に走る衝撃の度合いは、過去に類を見ないものになるだろう。

「今頃は、あなたのお仲間が犯人たちを取り押さえている頃ですかね」

思考にふける僕の意識を引き戻すように、沖矢昴が口を挟んだ。

「彼らは別に、僕の仲間じゃありませんよ。僕は一介の探偵に過ぎませんから」
「そうですか。あなたがそう言うなら、僕は別にそれで構いませんが」
「でも、そう言えばやけに報告が遅いですね。突入してから5分はゆうに過ぎていますが」

まさか取り逃がしたなんてことはないだろうな、とギルバートに問いかけようとすると、それより先にインカムから風見の焦ったような声が聴こえてきた。

「降谷さん、大変です!」
「どうした。目標に逃げられたのか」
「違います。身柄の確保は滞りなく終わったのですが、彼らが最後に隠していたC4の位置が解ったんです!」

それは悲報ではなく朗報だ。最後の爆弾の場所を突き止められたのなら、彼らに爆破される前に取り除きに行けばいい。
しかし、僕の楽観的な意見とは対照的に、風見の動揺は収まらなかった。

「それが、その場所が、―――な、中庭の」
「中庭?」
「中庭の、―――“森”の中のどこかだって言うんです!」

その言葉の意味を理解して、僕は自分の血の気が引いていく音を聴いたような気がした。

この大学のど真ん中にある、“森”とも称される広大な中庭。幸い、今僕たちが立っている場所からはすぐ歩いて行ける距離にあるが、これだけ広い庭の中からたった1つの爆弾を探し出すのは至難の業だ。ましてや今は深夜に差し掛かろうとしている時間である。いつも以上に見通しが悪くなっている“森”の中を歩くには、こんな軽装備では到底準備が足りなかった。

「岡林が言うには、爆弾が爆発するにはあと10分程度しか残っていないそうです!“森”であれだけの威力を持ったC4が爆発すれば、周囲への爆風の被害はもちろん、大規模な火災が発生しかねません!」
「―――解った。風見、君たちはそのまま岡林への尋問を続けろ」

爆弾は僕が探しに行く。とは、言葉にしなくとも伝わったらしい。息を呑む音がインカムの向こうから聴こえてきたが、僕は無視して通話を切った。

「待ってください、降谷さ―――」

最後にそんな声だけを残して、インカムは沈黙した。
心の中でこっそりと謝罪しつつ、僕は沖矢昴を振り返った。

「沖矢さん」
「はい」
「ちょっと困った事態になりました。今から10分で、あそこの“森”の中から最後の爆弾を探し出さないといけないそうです」
「……それはそれは。この期に及んで難易度の高いミッションが課せられましたね」
「あなたに手伝ってくれ、と言うつもりはありません。でも、その大きな荷物の中から、あるものを貸してほしいんです」
「あるもの、とは?」

首を傾げた沖矢昴に向かって、僕は確信を持った口調で問いかけた。

「暗い森の中でも遠くを見渡すことのできる、暗視ゴーグルを。あなたなら、持っているんじゃありませんか?」
「…………」

暗視ゴーグルは日本警察の中でもあまり出回っていない代物だ。だが、他国の警察機関の間では、割に手に入れやすい支給品であると聴いたことがある。
他国の警察機関―――そう、例えばインターポールとか、FBIだとか。

「…………」

何を考えているのか解らない細い目で僕の顔をじっと見つめたかと思うと、沖矢昴は小さく何事かを呟いて、肩に背負っていたリュックサックから暗視ゴーグルを2つ取り出した。

「解りました、使ってください」

そのうちの片方を僕に向かって放り投げると、彼はリュックサックを背負いなおして不敵に笑った。

「ただし、貴重なゴーグルを持ち逃げされないように、僕も爆弾を探すのを手伝います」

……その言葉がほんの少しだけ心強く感じたなんて、口が裂けても言わないけれど。