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安の作業は裏で進む。刑事部や交通部のように、決して表立つことはない。高層ビルやタワーマンションの免震装置のようなもので、いわゆる縁の下の力持ちという奴である。平時は静かにひっそりとしていて、傍から見れば無用の長物にも思えるだろう。与えられる予算だって、他部署と比べても少なくない。
しかし、一度天地を揺るがす有事が起これば、ときに打ち消し、打ち消せないまでも被害を最小限に抑えるべく全力を尽くす。それが免震装置の役割だ。なくてはならないが評価されることはなく、日の下に姿を現すこともない。有事が収まればまた、静かにひっそりと、何をしているか解らない状態に戻るだけである。
免震装置は知っていても、実際に目にしたものは少ないだろうし、目にしたところで特別な感動もないに違いない。子供に縁の下の力持ちなんだよと言っても目を輝かせはしない。子供は華々しく活躍するヒーローに憧れるものだ。

それで構わない、と思える者だけが公安に所属できる。また、所属すべきだと僕は思っている。
公安の主な仕事は敵対機関への諜報だ。それが例えこの国の平穏を保つためだとしても、決して綺麗事だけでは済まない部分も多い。イリーガルな手法で捜査を進めることも少なからずあるし、そのためならマスコミだろうが公共放送だろうが利用できるものは利用する。それを嫌がるような“正義の味方”は公安の方針には馴染めないだろうし、功名心が逸って派手なパフォーマンスをしたがるような人間は諜報には向かない。公安とは常に地味で、静かで、何をしているか解らない不気味な存在であるべきなのだ。

公安事件はいつの間にか発生し、いつの間にか解決している。
それが、公安警察として示すことができる最良の姿だと僕は思う。



「フタマルゴーマル。そろそろですね」
「よし、僕たちも行こうか。集会が行われる場所は当然押さえてるよな?」
「赤の3と、黒の2です」
「どういう意味だ、それは」

眉根を寄せた僕に対し、谷川はあれ?と意外そうに目を瞬かせた。

「降谷さんの協力者から得た情報ですよ。何も聴いてないんすか?」
「さくらから?」
「はい。インスタのストーリーに、一瞬だけクイズの画像を載せてました」
「そんなもの、僕は見てないぞ。いつ投稿していたんだ?」
「ストーリーはそのアカウントをフォローしてないと見えないっすからねー」

谷川はそう言って得意げに笑った。僕の知らないSNSというフィールドで2人が繋がっていたことは正直面白くはないが、今は文句を言っていても始まらない。

「それで結局、どういう意味なんだ?赤の3と黒の2というのは」
「赤と黒と言えば、降谷さんだったら何を連想しますか?」

赤井秀一と組織の連中―――と答えそうになって、僕は思わず口を噤んだ。この男には組織のことを教えてあるとはいえ、風見にはそこまで詳細に組織のことも赤井のことも話したことはなかったからだ。

「そうだな。パッと思い付くもので言えば、トランプのスートとか、ルーレットとか……」
「それです」
「ん?」

首を傾げた僕に対して、谷川は何もない空間に長方形を描くように指を動かした。

「本田さんはこの本部棟を、ヨーロピアンルーレットのテーブルレイアウトに見立てて部屋の位置を指定したんです。ちょうどこの本部棟は、テーブルレイアウトのマス目と同じ12階建てですからね」
「それじゃあ、赤の3と黒の2というのは」
「はい。最上段中央と右端の部屋、って意味っすよ」

既に部屋の前に人員は配置しておきました、と谷川は実にあっさりと言った。

今朝、ハロを連れて東都大学を訪れたさくらは、この男から歩容認証システムを受け取って、それを自分の研究室のスーパーコンピュータに接続した。そうすることで、この大学に設置されている監視カメラに写った人間の歩容データを、瞬時に全て解析できるようにしたのである。解像度の悪いカメラであっても、対象とどれだけ距離があろうとも、歩く姿がカメラに写った瞬間に解析は完了する。

「にしても、持つべきものは頼りになるタマ(協力者)っすねー」

さくらの研究室から転送されてくるデータをタブレットで確認しながら、谷川はしみじみとそんなことを言った。

「実は俺、彼女にもういっこ依頼したことがあって」
「何だって?今回はなるべく、彼女を頼らないようにと言ったはずだ」
「そんな怖い顔をしないでくださいよ。現場がこの東都大学なだけに、在籍中の彼女を巻き込みたくないっていう降谷さんの気持ちは解りますけどね」

今からこの大学、C4でぶっ飛ばされるかも知れませんし。と簡単に言ってのけると、彼はわざとらしく首を竦めた。

「そこまで解っていながら、なお彼女の力が必要だったということか?」
「そういうことです。それに協力って言っても、具体的に何かをしてくれって頼んだ訳じゃないっすよ。阿笠博士とかいう発明家と開発しているウェアラブル端末を、一時的に貸してくれって頼んだだけです」
「……。ウェアラブル端末?」

さくらが今日、阿笠博士の家に遊びに行く予定だったことは当然僕も知っている。だが、その裏に今回の作戦が絡んでいたことは知らなかった。

「はい。彼女が今、阿笠博士と共同で開発しているのは、ETを応用した人間の行動学を解明するシステムです。2人はそれを眼鏡という形の端末に搭載して、人が何を、どんな風に見ているのか計測できるようにしたんです。ちょっと前に話題になった、グーグルグラスみたいなもんですね」

ET、すなわち視線計測(Eye Tracking)とは、先程彼が言った通り、人が“どこを・どのように・いつ見るか”を教えてくれる技術である。それは、視覚から多くの情報を受けて生きている僕たち人間の行動について、深い洞察を与えてくれる研究分野である。
言葉だけでは聞き出せない、顔には出さない本音。それを探るためには、様々な生体計測が有効であるとされている。例えば心拍、唾液、発汗、体温、脳波の測定。そしてこの視線計測(ET)である。
中でもこのETは、注意・興味を明らかにする唯一の技術と言われている。歩容と同様、視線の動きというものは無意識下に刷り込まれた挙動であり、簡単に矯正することは出来ないものだ。“目は口ほどに物を言う”という諺は、蓋し名言であると実感する。

「なるほどな。博士はこれまでにも、犯人追跡眼鏡のようなウェアラブル端末を開発してきた実績があるし、さくらも医療用の望遠グラスを作ったことがある。そんな2人が、今度はアイトラッカーを開発しているという訳か」
「その通りです。それを貸してもらえるなら、どんな形でも構わないから何らかのレスポンスをくれって、今朝すれ違った時に伝えました。無理なら無視してもらって構わないから、と」
「それで彼女は了承したのか。したんだろうな」

さくらはそういう女である。僕が自己完結して自嘲気味に呟くと、すぐさま肯定の言葉が返ってきた。

「はい。インスタの動画、降谷さんは見てないんですか?」
「……。あれは、君へのメッセージだったのか」
「そういうことです」

彼女は“博士にも使用許可を取りましたよ”とこの男に伝えるために、博士のラボで突貫工事の動画を撮影し、短い時間だけそれをSNS上に公開した。園子さんがそれを見つけたのは単なる偶然だが、その偶然が、僕に彼女が影で動いているという事実を教えてくれた。

「アイトラッカーを借りる所までは解った。だが」
「はい」
「どうやってここまで持って来てもらううつもりなんだ?まさか彼女自身をここに呼び出したんじゃないだろうな」

絶対に僕の家から出るな、と昨晩あれほど厳命したのだ。よもやその言いつけをさくらが破るとは思えない。たがそうすると、折角借りることになったウェアラブル端末をどうやってここに運ぶのかという問題が浮上する。
思わず詰問口調になった僕に対する返答は、思いがけない方向から聴こえてきた。

「それはね、こういうことですよ」

誰も居ないと思っていた場所から冷静な声が聞こえてきて、僕たちは一斉に振り返った。暗闇の中でも全く焦りを見せないゆったりした足取りで近付いてきた相手は、僕たちの目の前で立ち止まると、勿体つけながら両腕を広げた。

「メリークリスマス、安室さん。君の恋人から、大事なプレゼントを預かって来ましたよ」

そう言って、突如乱入してきた男―――沖矢昴は、眼鏡の下の薄い唇を不敵に綻ばせた。