19:50


ーフシチューを作る時、私はいつも3時間以上もの時間を掛けて丁寧に調理をしていた。
最初は玉ねぎとセロリを炒める。そこに下ごしらえをしておいた牛肉を取り出して更に炒め、お肉に色が付いたら、水とローリエを加えてまず1時間煮込むのだ。この時、こまめに灰汁を取ることが重要なポイントである。

1時間放置したら、肉を漬けておいた赤ワインとコンソメ、ブイヨンを加えてまた煮込む。この間に付け合わせのマッシュポテトとザワークラウトと作ってしまうのが吉である。生クリームを加えたマッシュポテトは、舌触りのいい食感とちょうどいい塩梅に塩味の効いた味わいがクセになり、我ながら中々においしい、と私は1人で自画自賛した。

副菜を作り終えると、私はコトコトと音を立てる鍋の蓋を取った。もうもうと立ち上る蒸気を手で遮りつつ、水の減り具合を確かめる。少しばかり少ないかも知れない、と判断して、私は目分量で鍋の中に水を注ぎ足した。

(あとはここに、トマトジュースとデミグラスソース、お塩を加えて……)

最後に少量の蜂蜜を垂らすと、私は火を弱めてもう一度蓋をした。ここからまた30分煮込んだ後、ニンジンとジャガイモを加えて更に30分煮込めば完成である。

ここまで手の込んだ料理をすることは、ドイツに渡ってからは滅多になかった。私は元々食事を摂ることに重きを置いていない人間である。研究が大詰めの時は、3日間ゼリー飲料のみで生活することも苦ではなかった。もちろん差し迫った課題がない時はきちんと自炊するようにしているが、30分程度で完成するお手軽な料理をすることが多いように思う。

けれど、今日だけは特別だ。何と言っても、仕事を終えて帰ってきた零さんにご馳走するための、特製ディナーなのだから。彼の喜ぶ顔を想像しただけで、3時間以上もの手間がひとつも惜しくないと思える。心を込めれば込めるだけ、彼が早く帰って来てくれるような気がして、私の鍋をかき混ぜる手にも力がこもった。

……実際には、私がいくら努力した所で、彼の元にその気持ちが届くことなどあり得ないのだけれど。

「愛の力は偉大ですね」

そう言って私の努力を真っ先に褒めてくれたのは、人の心を解さないはずの人工知能のギルバートだった。

「降谷さんの好物であるセロリも入っていますし、栄養価もバッチリです」
「当然よ。このために、梓から零さんの好物を教えてもらったんだもの。最後のトッピングにもセロリの葉っぱを散らせば、彩りも綺麗になるでしょう」
「降谷さん、喜ぶでしょうね」
「ええ。喜んでくれるわ、きっと」

きっとね、と念を押すように繰り返して、私は一旦コンロの前を離れた。テーブルの椅子を引いて腰かけると、タブレットを操作してテレビ番組を流し始める。前に泊まったことのある別のマンションにはテレビも備え付けられていたが、この部屋にはテレビが置いていないため、ニュースを見ようと思ったらパソコンかタブレット端末で見るしかなかった。

「クゥーン」

調理に一区切りついて、私が腰を落ち着けたのを気配で察したのか、寝室で眠っていたハロちゃんがやって来て私の脚元に頭を擦り付けてきた。私は微笑んでその体を抱き上げると、膝の上に乗せて一緒にタブレットを覗き込んだ。



「あなたも一緒に見る?」
「アンッ」
「ふふ。何の番組がいいかしらね」

適当にザッピングしている振りをしながら、私の目は抜け目なくニュース番組を追っていた。けれども湾岸線を大渋滞に陥れたはずの銃撃事件について詳細に報道している番組は1つもなく、その他のニュースのうちの1つとして箇条書きにされているのが精々だった。公安部という組織の影響力を、こういう時にまざまざと思い知らされる。

(風見さんは無事に戻ってきた……。でも、それだって彼の状況分析が的確だったからであって、下手をすれば死んでいたかも知れない)

これから零さんが挑む相手も、この襲撃事件を引き起こした相手と同様、もしくはそれ以上に危険な相手であるらしいことは、ギルバートからも、風見さんの後輩にあたる谷川さんという公安部の刑事さんからも聴いている。

私が谷川さんと接触したのは今朝のことだ。ハロちゃんを伴って東都大学の敷地内を散歩していた時に池ですれ違った男性というのが、つまり谷川さんである。彼は自分の特徴のない外見を最大限に利用して大学生の中に紛れ込み、あの池のほとりで私を待っていた。顔を知っているはずの私でさえ、彼がその手に持っていた“大きな双眼鏡”というアイテムがなければ、すぐにそうと気付くことは出来なかったかも知れない。

あの時、すれ違いざまに彼から受け取った封筒には、警視庁公安部が独自に開発したソフトウェアが入ったチップが封入されていた。私はそれを持ったまま、私個人で使える専用のネットワークと、私専用のスーパーコンピュータに繋がった研究室へと向かった。ドイツに留学している間も、東都大学の教授が好意で残しておいてくれた部屋が今回も役に立ったと言う訳だ。
チップに蓄積されていたデータには何重ものロックが掛けられていたが、それを突破することはギルバートにとっては苦でもなかった。そうしてようやく解凍したソフトウェアの正体は、ドライブラインを利用した歩容認証システムの簡易版だった。

歩容、すなわち人が歩く時の挙動というのは、無意識下で体に染み付いたものである。いくら顔を変えようと体型を変えようと、数十年かけて体に染み込んだ歩き方までは変えられない。たとえ完璧に演技をしているつもりでも、ちょっとした所に癖が出る。歩容認証システムとは、そうした人体のメカニズムに注目して開発された最新鋭のソフトウェアである。ゆくゆくは歩き方から健康状態を測定する医療分野への応用も考えられており、私たち未来学者にとっても非常に興味深い開発だった。

この最新鋭のシステムを公安部の彼から受け取って、東都大学の研究室に接続して起動させる。それが、今朝零さんから聴かされた私のミッションだったのだ。ハロちゃんとの散歩コースに母校の中庭を選んだのは、決して母校の景観が美しいから、という愛校心溢れる理由からではない。谷川さんと接触するための、カモフラージュだったのである。

(今夜、零さんが無事に帰ってきたら)

そうしたら真っ先に、よくやったと言って褒めてもらおう。

まるでご主人を待ちわびる忠犬のようなことを思いながら、私はことことと音を立てる鍋の様子を見るために、ハロちゃんの体を抱いたまま立ち上がった。