11:00


歩を終えて零さんの自宅へ戻ると、私はハロちゃんのリードを外して前足と後ろ足をタオルで拭った。

「今日も寒かったわね、ハロちゃん」
「アンッ!」
「ごめんなさい。本当は今日1日、あなたと一緒に居られればよかったんだけど……」

私はコートも脱がずにハロちゃんのドッグフードと水の準備をすると、再び外出するためにショルダーバッグを肩に掛けた。今日はこの後、阿笠博士と哀ちゃんと会う約束をしているのだ。博士はともかく哀ちゃんとは、零さんはあまり接点を持っていない。そんな相手に、ある意味零さんの最大の秘密とも言えるハロちゃんを会わせる訳にはいかなかったので、このままお家でお留守番をしてもらうことになったのである。

「用事が済んだら、なるべく早く帰ってくるわ。だからお利口さんにして待っててね」
「アンッ」
「いい子ね。それじゃ、行ってきます」

ハロちゃんのお行儀のいい返事を聴いて、その頭を一撫ですると、私はすぐに立ち上がった。ドアの外に立って零さんから預かった鍵を閉めると、再び寒風の吹きすさぶ冬空の下へと舞い戻る。
あれやこれやとギルバートと話し合った結果、博士の自宅へ持って行く手土産はコーヒー豆のセットに決定した。私の独断と偏見により、ブルーマウンテンとキリマンジャロをそれぞれ一袋ずつ詰め合わせたものである。

楕円形のドームが特徴的な建物を見上げて、私はうきうきしながら呼び鈴を鳴らした。

「はい、阿笠です」

インターホンの向こうから聴こえてきたのは、家主さんの声ではなくて落ち着いた女の子の声だった。

「哀ちゃん、こんにちは。さくらです」
「さくらさん!ちょっと待ってて、今鍵を開けるわ」

パタパタというスリッパの音と共に、玄関のロックが解除される音が響く。ゆっくりと門扉を押し開けると、私は慣れた足取りで玄関のドアの前まで歩み寄った。
すると間もなく玄関扉の前に小さな影が差し、

「さくらさん、いらっしゃい。待ってたわよ」

空いた扉の向こうに、朗らかな笑顔が花開いた。

「ふふ、ありがとう。博士はお元気?」

哀ちゃんに促されて、私はブーツを脱いで上り框に足を乗せた。哀ちゃんの手によってすかさず用意されたスリッパを拝借し、脱いだ靴の向きを揃える。これお土産ね、と言ってコーヒー豆の詰め合わせが入った紙袋を手渡すと、哀ちゃんは口元を綻ばせてお礼を言った。

「博士は相変わらずメタボってるわよ。今朝も、私の目を盗んでシュトーレンを食べようとしてたから、こってり叱ってやったわ」
「あらら……。博士ってば、哀ちゃんの目を逃れられると本気で思っていたのかしら」
「だとしたら、私も見くびられたものね。それに、そのシュトーレンは、私がさくらさんと一緒に食べようと思って買っておいた分だったのよ」

憤慨する哀ちゃんを宥めながら、私は内心とても喜んでいた。彼女が私と会うことをそれほど楽しみにしてくれていた、その気持ちもさることながら、彼女が博士に対して本当の身内のように接していることが、無性に微笑ましかったのである。

「ところで、当の博士はどこ?」

リビングに向かう途中の廊下で、私はぐるりと視線を巡らせた。いつもならすぐに出迎えてくれるはずの白衣の男性の姿は、今はまだどこにも見当たらなかった。

「ああ、博士なら」
「哀さん、さくら」

答えようとした哀ちゃんを遮ったのは、私の首許から聴こえてきた声だった。いつも冷静な彼らしからぬ切羽詰まった声音である。

「なるべく頭を低くしてしゃがんでください」
「えっ?」
「今すぐに!」

何が何だか解らなかったが、これまでの経験上、彼の忠告には従っておくべきである。そう判断し、私は咄嗟に哀ちゃんの頭に手を伸ばして自分の腕で抱え込んだ。そのまま2人して廊下にしゃがみ込んだその時、

「っ!」

ドォンと地鳴りのような音が響き、ぐらりと世界が揺れた。

「きゃあっ!」

しゃがんだ体が浮かび上がるほどの衝撃に、私たちは体を固くした。建物が大きく軋む音と、哀ちゃんの悲鳴と、廊下の窓ガラスがビィイン、と震える奇妙な音とが入り混じる。明るい時間帯だったからまだよかったものの、もしこれが暗闇の中の出来事だったら、何が起こっているのか見当もつかなかったに違いない。

(一体何が……)

それはひどく長い間の出来事だったように感じたが、実際はそれほどでもなかったかも知れなかった。やがて辺りは静かになり、私たちの呼吸音だけが後に残った。
ギルバートが「もう大丈夫ですよ」と太鼓判を押してようやく、私たちはそろそろと顔を上げて周囲の様子を窺った。

「何だったのかしら、今の」
「地震じゃないわよね。緊急地震速報は来ていないもの」
「ご安心ください、2人とも。地震ではありませんよ」

恐る恐る顔を見合わせる私たちに、ギルバートは何でもないことのようにしれっと答えた。

「博士のラボで爆発が起こっただけです」

それを聴いた私たちはというと、

「なぁんだ。また博士の発明が失敗したの。もう今月に入って3回目よ」
「ああびっくりした。博士のラボで起きた爆発っていうんなら安心ね」

これまた何でもないことのように笑って返した。
本来ならば、堅牢なラボ内とは言え家の中で爆発が起きたのだから、何一つ安心なことなどないはずなのだが、博士のそれは最早日常茶飯事と呼んでも過言ではなかった。そのため、ついつい私も哀ちゃんも、そしてギルバートも、心配するよりも“いつも通りの光景”に対する安堵感が勝ったのである。

やがて、ギィ、と音が響いてラボの扉が開き、もうもうと白い煙が中から廊下に這い出てきた。その中から現れたのは、白衣の裾を黒く焦がした丸いシルエットの男性だった。

「やれやれ、またやってしまったのう……。まったく、新調したばかりの白衣が台無しじゃわい」

けほっと小さく咳き込みつつ、博士はひびの入った眼鏡を外して廊下に出てきた。私と哀ちゃんはくすりと微笑んで、煙の臭いを漂わせる博士のもとに駆け寄った。

「阿笠博士、こんにちは。お邪魔してます」
「おおさくら君、来ておったのか。こりゃあ恥ずかしい所を見られてしまったのう」
「いきなり爆発するもんだから焦ったわよ。ほら、顔拭いてあげるから屈みなさい」

哀ちゃんは母親のような口調でそう呼び掛けると、博士の煤けた頬をハンカチで拭った。一体どちらが保護者なのかと思ってしまいそうな光景である。



「ふふ。でも博士、あれだけの爆発で服が焦げた程度で済んでよかったですね」
「そうじゃのう、さくら君。哀君も、心配してくれてありがとう」
「べ、別に、今更心配なんてしてないわよ。……でも、ケガがなくてよかったわ」

煙の臭いの染みついた白衣を脱がせると、哀ちゃんはツンとそっぽを向いた。その頬が僅かに紅潮しているのを見て、私と博士は無言のうちにアイコンタクトを交わした。

「それじゃ、爆発したラボの片付けをしたら、お昼の準備をしましょうか。哀ちゃん、一緒に手伝ってもらってもいい?」
「ええ、もちろん。この白衣、すぐに洗濯してくるわ」

パタパタと音を立てて、哀ちゃんの後姿が遠ざかる。それを目を細めて見送ると、私は爆発の後片付けをするべく、博士に続いてラボの扉をくぐった。