10:00


米花通りの両脇に植えられた裸になった並木の下を、中央通りに向かって歩いていくと、左手側に見えてくるのが僕の潜入する喫茶ポアロである。そのポアロの上の階に事務所を構える私立探偵、毛利小五郎が、自身の片腕とも言うべき少年を伴ってやって来たのは、午前10時を回った頃合いだった。

「おはようございます、毛利先生、コナン君。遅めの朝食ですか?」

無難に挨拶をしながらお冷をテーブルの上に置くと、毛利小五郎は無精ひげの生えた顔で眠たそうに頷いた。

「今日は蘭が空手の朝練があるとか言って、さっさと家を出て行っちまったからな。コイツと2人なら朝飯なんて何でもいいだろってことで、ここに連れてきたんだよ」
「おじさん、昨日の夜は寝るの遅かったもんね」

昨日の夜というと、生放送の歌番組で沖野ヨーコが出演していたはずである。彼の寝不足の原因はそれだろう、と当たりを付けて、僕はそれなら、と人差し指を立てた。

「そんな毛利先生にちょうどいい食材がありますよ。昨日の夜、商店街の八百屋さんからお歳暮にいただいたレモンなんですが」
「レモンだぁ?」
「ええ。レモン果汁に含まれるリモネンという成分が、体内時計を正常にする効果があることが最近の研究で解ってきたんです。よければ、それを使って何か作りましょうか」
「へぇー、そうなんだ。おじさん、せっかくだから作ってもらいなよ」

僕の意見にコナン君も賛同する。それから彼は僕と梓さんがさっき書き込んだばかりの“本日のおすすめメニュー”にちらりと視線をやって、「僕はツナとレモンのペンネがいいなあ」と子供らしからぬ注文をしてきた。

「かしこまりました。梓さん、毛利先生のために今日のスペシャルメニューをお願いします」
「はーい、解りました!」

キッチンの奥から梓さんの生き生きとした声が返ってきて、最初は乗り気じゃないように見えた毛利小五郎も、ちょっとは興味が擽られたらしい。

「しゃーねーな。梓ちゃんがこの俺のために特製パスタを作ってくれるってんなら、食べてやろうじゃねえか」
「きっと、おいしすぎて一瞬で目が醒めますよ。出来たらすぐにお持ちしますね!」

にこやかに微笑んでテーブルの前を辞そうとした僕を引き留めたのは、少年の甲高い声だった。



「ねえ、安室さん」
「ん?」
「安室さん、何か今日ご機嫌じゃない?」

思いがけない指摘を受けて、僕は目を瞬かせた。

「そう見えるかい?」
「うん。何かいいことでもあった?」

さすがに目敏い。些細な感情の機微をこうも容易く悟られるほど、自分はこの少年に対して心を許していたのだろうか。

(まあ、どうせ誤魔化した所で梓さんあたりからバレるだろう。さくらも阿笠博士の家に遊びに行くと言っていたし、阿笠博士とこの少年はツーカーの間柄だ)

変に否定するよりも、素直に肯定しておいた方がいいだろう。そう判断して、僕は正直に答えることにした。

「実はね、昨日からさくらさんが日本に帰ってきてるんだ」
「さくらさんが?」
「へぇ。そんじゃさくらちゃんも、後でここに顔を出すのか?」

さくらの名前に反応したのはコナン君だけではなかった。毛利小五郎の質問に、僕は緩く首を振って否定の意を表した。

「残念ながら、彼女は今日は先約があるとかで、ポアロには顔を出せないらしいんですよ。毛利先生たちにも会いたいとは言っていたんですが、今回はちょっと厳しいかも知れませんね」
「厳しいって、今回はあんまり長くこっちに居られないの?」
「そうだね。今度は5日間しかこっちに居られないって言ってたかな」

しかもその5日間も、2日間は京都に行って講演会や学会に参加しなければならないため、たったの3日間しか東京には居られないとのことだった。だからこそ、なるべく一緒にいられる時間を作ろうと、昨日今日と僕の部屋に泊まりに来てもらうことにしたのである。

「ふぅん。相変わらず忙しくしてるんだね」
「そうだね。でも、僕はそういう、自分の夢に向かって全力投球する彼女を尊敬しているんだ」

寂しくないと言ったら嘘になる。だがそれでも、僕はさくらが仕事にひたむきに打ち込んで、自分の技術が認められたと喜ぶ顔を見るのが好きだった。
彼女が僕の仕事に対する姿勢を尊重してくれているように、僕も彼女の仕事に傾ける情熱というものを尊重したい。お互いにそんな風に思える相手に出会えたことは、僕にとっては本当に幸運であったと言えるだろう。
照れもせずに堂々と惚気てみせる僕に、毛利小五郎もコナン君も何とも言えない表情を浮かべたが、やがてやって来た梓さん特製のレモンを使ったパスタに対しては2人揃って目を輝かせた。

「おおー、こりゃあうまそうじゃねぇか!さっすが梓ちゃん!」
「いただきまーす!……うん、おいしい!ペンネとレモンって、意外と相性がよかったんだね」

うまいうまいと繰り返しながら食事の手を進める彼らを尻目に、僕はそっとテーブルを離れた。ちょうど話の矛先も逸れたことだし、エプロンのポケットに入れておいたスマートウォッチが5回振動したのを感じ取ったからである。キッチンを素通りしてバックヤードに下がると、僕はおもむろにそれをポケットから取り出した。
画面の横の電源ボタンを1回押す。すると期待した通り、その画面には2件の新着メッセージが届いていることを示すポップアップが表示されていた。

(この時間にメッセージが来たか。さすがに仕事が早いな)

口許に不敵な笑みを刷いて、僕はメッセージの全文を表示させるべくポップアップをタップした。間を置かずにスマートウォッチの表面に表示された文字は、至極シンプルなものだった。

『35-42-48. 139-45-44.』
『接続完了しました。』

2件のメッセージの内容は、そんな味気のないものだった。この数字の羅列と短い一文が一体何を示しているのか、すぐさま理解できる人間はそう多くはないだろう。勿論、Wi-FiのようなネットワークやBluetoothのようなデバイスとの接続が完了した、という意味ではない。
しかし、僕はそのメッセージが示す正しい意味を過たず受け取った。

(これは、思ったよりも早く家に帰れるかも知れないな)

帰ればさくらのおいしい手料理が待っている。その幸せな光景を脳裏に思い描いて、僕は暫時、本心からの微笑みを口許に浮かべた。
キッチンの向こう側では、毛利探偵と眼鏡の少年が、食後のコーヒーを梓さんに注文している声が聴こえている。

「梓ちゃん、食後のコーヒー、ホットで1つ頼むよ」
「解りました!コナン君はどうする?ホットにする?」
「あ、それじゃあ僕はアイスコーヒーで……」