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えっ、くしゅ。
と、我慢できずにくしゃみをしてしまった時、私は足元に転がっていた小石を蹴ってしまった。目の前の池の中にぽちゃりと音を立てて落ちたそれは、周りの風景を逆さまに映していた鏡のような水面を乱し、小さなさざ波を生み出した。

「アンッ」
「ああ、ごめんねハロちゃん。何だか急に鼻がムズムズしちゃって」

風邪でも引いたのかしら、と言いながら私はすん、と鼻を鳴らした。
私たちが立っているこの場所は、私の母校でもある東都大学の敷地内にある中庭である。零さんがポアロに出勤してから、お洗濯や部屋のお掃除などの家事を粗方済ませ、ハロちゃんを伴って散歩にやってきたのだ。



たかが大学の中庭と侮るなかれ。全国でもトップクラスの敷地面積を持つこの大学は、正門から続くイチョウ並木をはじめとした景観に対する評価も高く、この中庭もさまざまな文学作品の舞台となってきた。大学のど真ん中に位置しながらも、背の高い木々が立ち並ぶ様子はさながら“森”と形容してもいいほどで、その中央に陣取っている大きな池はその森の木々を美しく水面に反映させている。

「今日はハロちゃんが一緒にいてくれてよかったわ」
「?」
「この池はね、1人で見ると、学生は留年、受験生は浪人するって噂があるのよ」

私は首を傾げるハロちゃんに向かってそんな冗談を言った。ハロちゃんは私の言葉を理解した訳ではなかったが、私が笑うのに合わせてアンアンッと高い声で鳴いた。

「ところで、さくら。今日はこの後、降谷さんが戻って来られるまでどうするつもりなのですか?」

頭に嵌めたヘッドホンから、小さなクリック音と共に落ち着いた男の声が聴こえてくる。人工知能の素朴な質問に、私はハロちゃんの尻尾がふりふりと揺れるのを見つめながら、そうね、と相槌を打った。

「この後は、阿笠博士のお家にお邪魔する約束をしているの。博士と哀ちゃんにPodcast、SEO、Palettaの新機能についての相談に乗ってもらおうと思ってて」
「なるほど。それではここから阿笠博士の自宅までの間で、手土産を購入できそうなお店をいくつかピックアップしておきます」
「ありがとう。博士のお腹周りを哀ちゃんが気にしてるみたいだから、お菓子よりも別のものの方がいいかも知れないわ」
「承知いたしました」

その時、池の向こう岸で物音が聴こえたような気がして、私はふと視線を巡らせた。思った通り、左手の丘の上に男が1人、こちらに背中を向けて立っていた。彼の視線の先にあるのは、東都大学のシンボルとも言うべきゴシック様式の講堂である。
男は朝日を背に浴びていたため、その姿は私の位置からでもはっきりと見えた。
カーキのダウンジャケットとネイビーのジーンズを身に着けて、大きな青いリュックサックを背負っている。その手に握られているのは大きな黒い双眼鏡だった。あの位置からなら、わざわざ双眼鏡で覗かなくとも講堂は綺麗に見えるだろうに。そう思いつつ、私は男の横顔から目が離せなかった。
男の手にした双眼鏡が回る。それは講堂から“森”の木々の枝葉を通って、やがて私の立っている池のほとりへと向けられた。何も疚しいことなどなかったのに、私は咄嗟に木の影に隠れた。お陰でこちらの姿はその双眼鏡に捉えられることはなかったようだ。
しかし、

(あっ)

と心臓がどきりと音を立てたのは、男がこちらに向かって動きを見せたからである。彼は双眼鏡を下ろして何事かを口にしながら、坂を降りて来た。私はやっぱりその顔から眼を逸らすことが出来ずに、男の動きをじっと見守った。
坂の下には石橋がある。渡らなければまっすぐに理科大学の方へ出る。渡れば水際を伝ってこっちへ来る。果たして、男の足は迷うことなく石橋を渡った。
私は慌てて“たった今ここを通りかかったばかりの通行人”のような顔を取り繕った。背中を向けてこの場を立ち去るのは却って不自然だと解っていたので、敢えて池の前でしゃがみ込み、ハロちゃんの背中を撫でながら男が横を通り過ぎるのを待った。

「…………」

じっとりとした沈黙が纏わりつく。男は私の横をすり抜ける際に、大きなリュックサックから白い封筒のようなものを落として行った。地面と紙面が擦れ合う音に、ハロちゃんの耳と小さな鼻がぴくりと動く。私はその様子をヘッドホンのカメラで撮影しながら、緊張した面持ちでその封筒をハンカチで包み込んだ。
誰にも見られていないことを確認し、ハンカチをショルダーバッグの奥にしまう。それから膝を払って立ち上がり、私は男が去っていった方向とは反対側の、池の向こう岸に足を進めた。
石橋を渡り終えて丘の上に昇ると、私は初めて背後を振り返ってみた。既に男の姿は“森”のどこにも見えなくなっていたが、私の鼓動はいやに忙しなくビートを刻んでいた。

「まるで“三四郎”ですね」
「ッ!」
「あなたが1人の人間に対して、そんなに目を奪われるというのも珍しい」
「変なことを言わないで、ギルバート。あれは目を奪われていたんじゃないわ」

あなただって解っているくせに、と私が頬を膨らませると、ハロちゃんが何かを言いたげな眼差しでこちらを見上げ、クゥンと鳴いた。

「ああごめんなさい、ハロちゃん。別に喧嘩をしている訳じゃないから、心配しないで」
「クーン……」
「そろそろ行きましょうか。零さんの部屋に帰る前に、赤門前のおいしいパン屋さんに寄って、明日の朝に食べるバケットを買っていきましょう」

私が安心させるように微笑みかけると、ハロちゃんはようやく元気に「アンッ!」と返事をしてくれた。

それから私は自分が立っている場所が先ほど男が立っていた場所とほぼ同一であることに気が付いて、男と同じようにざっとあたりの風景を見渡した。向こうの青い木立の間からは赤い建物が覗き、そして背後には空を切り取ったかのような水鏡が広がるばかりだった。