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務先である喫茶店のドアを開けて真っ先に目に入ったのは、紡錘体の形をした爆弾―――ではなく、芳香を放つレモンだった。目に鮮やかなイエローの果物がキッチンの一角にゴロゴロと山積みにされているその光景は、まるで白いキャンバスの上に黄色い絵の具をぶちまけたかのようにも見える。

「梓さん、こんなに大量のレモン、一体どうしたんですか?」
「実は、米花商店街の八百屋さんがお歳暮にって言って、昨日の晩に持ってきてくださったんです。だから今日のパスタやデザートは、レモン尽くしでいきましょう!」
「なるほど。せっかくだから半分は塩レモンにして保存しておいて、残りは今日使ってしまいましょうか」
「あっ、それ、ナイスアイデア!それなら私、塩レモンを入れておくボトルを取ってきますね」

パタパタと足音を立てながら、梓さんはキッチンを出て行った。改めて大量のレモンの前に立つと、僕はふむ、とつぶやきながらその果実を1つ手に取った。至近距離で嗅いだレモンピールの香りに、深夜にさくらが作ってくれたグリューワインを思い出す。

(レモンを使ったレシピと言うと、定番はお菓子だろう。あとはパスタなんかに使ってもいいな)

レモンを処理する方法をいくつか頭に思い浮かべながら、僕はA4サイズの小さな黒板にチョークを使ってサラサラと文字を書いた。“本日のおすすめメニュー”と書かれた見出しの下に、レモンを使ったメニューを付け加えていく。

生ハムとオリーブのレモンチーズパスタ。
ガーリックシュリンプとルッコラの塩レモンパスタ。
ベーコンとパルミジャーノのレモンクリームタリアテッレ。
ツナとレモンのペンネ。
それからそれから……。

「安室さん、随分熱心に黒板とにらめっこしてますね」
「ああ、お帰りなさい、梓さん。レモンを使ったメニューを簡単に考案してみたんですが、こんな感じでどうでしょうか?」

僕が手に持っていた黒板を彼女の方に差し出すと、梓さんは目を丸くしながらそれを覗き込んで、それからバッチリです!と言って破顔した。

「それじゃあ、デザートは私が考えますね。レモンヨーグルトタルトでしょ、レモンのロールケーキでしょ、パウンドケーキでしょ……」

つい最近、梓さんと2人でニュー米花ホテルの屋上レストランまで偵察に行ったのだが(そしてそこでアンドレ・キャメルというFBI捜査官と鉢合わせする羽目になったのだが)、その時に食べたレモンのロールケーキは絶品だった。おそらく梓さんの脳裏に浮かんでいるのも、同じロールケーキだろう。

そんな話をしているうちにお客さんがやってきて、さっそくパスタの注文が入った。近所の大学に通う女子大生たちで、自らのSNSに投稿するためだろう、レモンの輪切りが乗ったパスタを意気揚々とスマホのカメラに収めていく。
そんな彼女たちを遠目に眺めて、調理を担当した梓さんは得意げに微笑んだ。

「レモンって、見た目が爽やかなのもいいですよね。黄色だからぱっと画面が華やかになるというか、嫌味がないというか」
「香りにもくどさがありませんからね。塩レモンをパスタのソースとからめると、真夏の食欲がない時期でも無限に食べられるような気がします」
「でも、意外とレモンの旬の時期って、真夏じゃなくて冬なんですよね。今回、八百屋のおじさんに教えてもらって、私も初めて知りました」
「そうですね。12月下旬から3月までの、寒い時期が一番おいしいみたいですよ」

僕は梓さんの言葉に相槌を打ちながら、梶井基次郎は一体どうしてこの果物から爆弾なんて物騒なものを連想したのだろうかと、埒もないことを考えた。

女子大生たちが食事を終えてお店を出ていくと、梓さんはやけにそわそわした口ぶりで「そう言えば」と切り出した。

「今、さくらが日本に帰ってるんですよね?」
「えっ?ああ、そうですよ。昨日の昼過ぎにこっちに戻ってきたって聴いています」
「安室さん、もう会いました?」
「はい。昨日の夜から、僕の部屋に泊まりに来てますよ」

さくらにとっての無二の親友である梓さんを相手に今更隠すことでもないだろうと、僕は正直にそう答えた。すると、梓さんは悪戯っぽい光をその瞳に宿して尋ねてきた。



「それなら、さくらお手製のディナーはもう堪能しちゃいました?」
「いえ、それはまだですが……」

彼女は昨日、東都大学の研究室のメンバーと夜まで一緒だったのだ。僕の部屋に来たのは23時を過ぎたころで、ディナーを用意するにはいささか遅すぎる時間だった。
僕が再び正直に答えると、梓さんはにやにやと目を細めて笑った。

「だったら、じっくり堪能してあげてくださいね。あの子、日本に帰ってくる前からずっと、安室さんのために何を作ろうかって頭を悩ませていたんです」
「え?」
「わざわざ私にまでリサーチしてくるほど、今回は気合入れてるみたいですよ。だから、さくらが何を作ってくれるかは解りませんけど、ちゃんと味わって食べてあげてくださいね!」
「…………」

僕は今日の深夜2時ごろ、さくらの髪を乾かしてやった時のことを思い出した。彼女が熱心にスマホを見ていた時、その画面に表示されていたのは仕事のメールだけだと思っていた。
だけど今になって思い返せば、僕が画面を覗き見るまで彼女が見ていたページは、そんな味気ない内容とはまったく別のものだった。そう、例えば料理の写真がたくさん載せられた、クックパッドのような―――。

(……なんだ)

スマホにばかり夢中になって全然構ってくれないと思っていたが、その実、彼女も僕のことをずっと考えていてくれたのだ。

僕が黙り込んだことをどう受け取ったのかは解らないが、梓さんはふと真顔に戻って、あっと大きな声を上げた。

「しまった。これ、さくらに口止めされてたんだった」
「はい?」
「自分にそんな気を遣わせていることを知ったら、安室さん、きっと気に病むだろうからって。わー、思わずぺろっと喋っちゃいました」

やっちゃった、と言いつつ梓さんはぺろりと舌を出した。だが、僕としては彼女の“うっかり”のお陰で、思いがけずさくらの真心に触れられたような気がしていた。

「あはは。解りました、僕は何も聴かなかったことにします」
「そ、そうしてください。わー、ごめんねさくらー」

ここにはいない彼女に向かって謝りつつ、梓さんはお皿を洗う手を早めた。今頃はきっと、どこかでさくらはくしゃみをしていることだろう。

(ああ、早く帰って顔が見たいな)

今朝方別れたばかりなのに、僕は早くもそんなことを考えていた。洗った食器を拭き終えて食器棚の前に立つと、そこに積まれたレモンの果実を1つ手に取って嗅いでみる。

至近距離で嗅いだレモンピールの香りに、僕はさくらが作ってくれたグリューワインと、レモンの味のするキスのことを思い出していた。