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※Twitterで上げたイラストに基づいた平安パロ。



笛の音が聴こえたなら、それは“今宵、いつもの場所で”の合図だった。

時は深更。衛士の焚いた篝火の他には灯りの差さない渡殿を、僕は指貫の裾をさばいて足早に進んでいた。宿直をしていた年若い侍従が、僕の姿を見てさっと身を引き、頭を垂れる。
その横を無言で通り過ぎると、僕は目的の場所までやってきて広廂の濡れ縁に腰を下ろした。部屋の主は不用心なことに、こんな時刻になっても蔀戸を下ろしていなかった。

「尚侍の君」

御簾の内側にいるはずの相手に向かって、僕は声を潜めて呼び掛けた。すると、しゅるりと衣擦れの音が響き、几帳の影から一人の女人がこちらの方に近寄ってきた。

「頭中将、お勤めご苦労様です」

一重の御簾の向こう側から慣れ親しんだ声が聴こえてきて、僕はようやく詰めていた呼吸を吐き出すことが出来た。

「申し訳ございません。お忙しいあなた様を、こんな時刻にお呼び立てしてしまって」
「お気になさらず。どうせどこにも寄る辺のない、根無し草のような我が身です」
「従四位の官位を持つ方が、何を仰せになります」
「本当のことですよ。私には縛られるべき家も、後ろ盾となる妻の実家もない。だからこそ」

僕はほんの悪戯で、手に持っていた扇の先を御簾の下に潜り込ませた。

「こうしてこのような夜更けにも、あなたに逢いに来ることが出来る」
「……頭中将」

扇を使って僅かに御簾を持ち上げてみせると、彼女は自分の持っていた檜扇で僕の手を軽く叩いた。

「痛っ」
「悪ふざけはそこまでになさいませ。いくらあなた様でも、こんな夜更けに妻でもない女と直に顔を合わせるのはよろしくないのでは?」
「私の評判を気にしてくださっているのですか?でしたら先に申し上げた通り、私に今更傷付く名声などありませんから、あなたが気にすることはありませんよ」
「では言い方を変えましょう。―――わたくしの評判に関わりますので、度を越した冗談はおよしになってくださいませ」
「はは。これは手厳しい」

軽口を叩きつつも、僕は拒絶された手を大人しく引っ込めた。

「昼間はあんなに至近距離で額を突き合わせていても、誰にも咎められることなどないというのに。上達部も、他の女房たちも、主上でさえも文句を言ってこないでしょう」
「主上のお傍近くに侍って執務の手助けをすることが、わたくしとあなた様の職務ですもの。直に顔を合わせたからと言って、何も疚しいことなどありませぬ」
「では今は?」
「今は昼間ではありませんわ。いくらわたくしが帝の女御ではないと言っても、主上以外の殿方と顔を合わせる訳がないでしょう」

彼女はつんと取り澄ました声でつれないことを言った。しかし、その言葉が半分本当で、半分は嘘であることを僕はとっくに知っていた。
僕は御簾の向こうの彼女の室をじっと見つめた。暗闇に包まれた室内を、燭台の灯りがぼうっと照らし出す。
やんごとない身分の姫君の室であれば、通常必ずお付きの女房が傍にいるものだが、今の彼女の部屋には他に誰も居なかった。
本当に疚しいことなどないのであれば、こんな夜更けにこそこそと会う必要はないはずだ。それをわざわざ人払いをしてまで、こうして二人きりで会いたがったのは、僕ではなく彼女の方である。

(本当に、素直じゃない)

と思いつつ、素直になることが許されない互いの身分を呪った。正式に入内していないとは言え、彼女が今上帝の寵愛を受けていることは傍目にも明らかで、そんな彼女に手を出そうものなら、たちまち帝への翻意を疑われてしまうことは必定だった。かの有名な光源氏は、兄・朱雀帝の寵愛する尚侍、朧月夜と密通した罪で京を追われ、須磨をさすらう羽目になったのだ。

「ところで、本題に入らせていただいてもよろしいかしら?真剣にご相談したいことがあるのです」

彼女は僕の挨拶代わりの冗談を見事に聞き流して、一歩僕のいる広廂へとにじり寄った。彼女の装束に焚き染めている薫衣の香が御簾の隙間から漂ってきて、どきりと胸が高鳴る。
よっぽど誰にも聞かれたくない話なのだろうか。彼女の方からこんなにも近寄ってくるのは珍しい。僕は余所行きに取り繕っていた“頭中将”の顔をはぎ棄てて、彼女のよく知る“降谷零”の声で語りかけた。

「心配するな、君の悩みは僕が全て解決してやる。だからそんなに不安そうな顔をするな」

そう言ってそっと御簾の表面をなぞると、小さく息を呑む音が聞こえた。

「……わたくしが今、どんな顔をしているというのです」
「道に迷った童のような顔だ。初めて君に会った時も、同じ顔をしていた」
「嘘吐き。あの時道に迷っていらしたのは、あなたの方でしょう―――」

おにいさま。と、彼女は久方ぶりに僕のことをそう呼んだ。

“姫君”と“月読のお兄さま”。それぞれ裳着も元服も迎えていなかった幼少の頃、僕たちは互いをそう呼び合って親しくしていた。それが今では、立場は違えど公に今上帝に使える身として、この内裏で顔を突き合わせている。何という運命の皮肉だろう、と僕は俯いたまま口端を吊り挙げた。

彼女が関白左大臣家の生まれでなかったら。きっと僕は己の全てを擲ってでも、彼女を我が物にしようとしただろう。
彼女が関白左大臣家の生まれでなかったら。きっと僕たちの人生は、一度も交わることがなかった。

「姫君―――」

胸の内に沸き起こる数々の言葉を、僕は瞬きをすることで飲み込んだ。

「君の相談事を当ててみせようか。近頃後宮を騒がせている、物の怪の噂のことだろう?」
「……っ、どうしてご存知なのですか?」
「陰陽寮の人間が噂しているのを聴いたんだ。自分たちがどれだけ手を尽くしても祓えないなんて、一体どれほどの恨みを持った怨霊なのかとね」

でも、と言って彼女は身を乗り出した。それを僕は片手で制して、扇の先でこめかみをつついた。

「解っている。陰陽師たちがこれほど手を尽くしても歯が立たないということは、恐らく前提から間違っているんだろうな」
「ええ。あれは怨霊の仕業などではありませんわ」

あれは生きた人間の仕業です、と彼女は広い袖で口元を隠しながら言い切った。

「君がそこまで言うんだから、確たる証拠があるんだろう?」
「ええ。私の考えを、聴いていただけますか」
「もちろんだ。実際に後宮の内情を知る君の意見は、男の僕よりも的を射ていることがままあるからな」

これまでも僕たちは、こうして互いに得た情報を交換しながら、宮中で起きた事件を解決に導いてきた。僕は蔵人頭と左近衛府の中将を兼ねる“頭中将”として、彼女は今上帝の執務を補佐する“尚侍”として、陰に日向に仕えてきたのだ。
彼女がそこまで心を砕いて仕える相手があの今上帝だというのが、実に腹立たしいことではあるが。

「それではお兄様、ちょっとお耳を貸してくださいませ」

御簾を一枚隔てた向こう、吐息の音さえ聞こえてきそうな距離で、彼女はもっと近寄れと指示をした。不用心なことこの上ない、と思いはすれども、彼女が僕に心を許してくれているのが嬉しくて、僕はその態度を咎めることなく彼女の求めに応じて身を屈めた。

紅を塗った唇から紡がれた言葉は、僕以外の誰に聴かれることもなく、そっと宵闇に溶けていった。


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