甘い毒で満たして






「甘い」

と、思ったことをそのまま口に出していた。僕の唇に自身のそれを押し付けていた女は、何を言われたのか解らないと言いたげにパチパチと目を瞬かせた。
彼女の長い艶やかな髪が、月の光を弾いて輝く。

「あなたの唇は、甘い味がしますね。病みつきになりそうだ」

そう言って女の薄くて柔らかい唇を親指の腹でなぞると、彼女は大きな瞳を猫のように細めて笑った。蠱惑的なその微笑みに、ぞくりと下腹が疼く。

今、僕の上に跨って濃厚な口付けをしてきたこの女は、今回の任務の報酬に“バーボン”に宛がわれた女である。いや、この表現には多少の語弊がある。というのも、元々この任務―――組織の化学班が開発した新薬を別の組織の人間に受け渡すだけの、ごく簡単な任務を任されていたのは、僕ではなくてジンだったのだ。つまり、彼女は元はと言えばジンに抱かれるために用意された女であり、その容姿は、なるほどジンが好みそうなゴージャス系の美女だった。白いブラウスと紺色のタイトスカートという清楚な恰好が、却ってその抜群のプロポーションを引き立たせている。

通常であれば、いくら相手が美人だからと言って、よく知りもしない女とほいほい関係を持つことはしなかっただろう。“降谷零”はもちろんのこと、“バーボン”も率先して女遊びをするような人間とは思われていないはずである。だが、今回ばかりは事情が違った。
この女を斡旋してきた相手は、黒ずくめの組織と協力関係にある組織の人間である。だが、今回の任務をラムから言い渡された時、僕はその組織の詳細を知らされていなかった。薬の受け渡しが完了した今でも、その正体はつかめていない。だからこうして女を自分の懐に招き入れ、少しでもそのバックグラウンドを探ろうとしたのである。簡単に言えば、女の背後にいるはずの人間が気になったのだ。

それはもはや“バーボン”としての仕事の範疇を超えていたが、それを突っ込むような人間は誰一人としてここには居なかった。

「考え事?」

女が甘ったれた声を発したことで、僕は思考の海に沈みかけていた意識を浮上させた。

「まさか。目の前にこんなに美しい女性がいるのに、他のことを考えている余裕なんてある訳がないじゃないですか」
「ふふ……。嘘ばっかり」

僕の答えを100パーセント信じたのではないだろうが、女はころころと笑って豊かなバストを僕の胸板に押し付けた。乱れたブラウスの下で、フリルの付いた下着と白い乳房がふにゃりと形を変える。
その柔らかさを堪能しながら、僕は女の背中から腰に掛けてのラインを掌でねっとりと撫で下ろした。「ん、」と小さな声を上げて、女の体がぴくりと震える。
女が零すあえかな声を心地よく聴きながら、僕は女の後頭部を片手で押さえつけた。うなじに舌を這わせてやわやわと甘噛みする。

「ぁっ、……痕は、付けないで……」
「そう言われると、逆に付けてやりたくなりますね」

僕がにやりと口端を吊り上げると、彼女は「いじわる」と言って僕の胸をぽかりと叩いた。これっぽっちも痛くないそれを鼻で笑いながら、僕は彼女のタイトスカートのポケットからある物を取り出した。それは、数枚の紙きれのようなものだった。チューインガムの包装紙やチョコレートの包み紙のようにも見える。
僕はそれらを無言のままぐしゃりと握りつぶして、腹筋を使って体を起こした。弾みで倒れそうになった女の体を、腕を掴んで支えてやる。

「きゃっ、……びっくりした」
「ああ、失礼。ですがやっぱり、自分が下というのは若干やりにくいと思いまして」

言いつつ僕は先ほどの紙を自分の尻ポケットに捻じ込んだ。体勢を変えて彼女の体を組み敷くと、長い髪がベッドの上に散らばってひどく扇情的に見えた。
長くて艶やかな髪が、月の光を弾いて輝く。
それからの時間は、あっという間に過ぎた。



ことが終わって互いに衣服を身に着けると、僕は初めて自分のコードネームを女に打ち明けた。

「バーボン……。そう、あなた、バーボンって言うのね」
「はい。あなたの名前をお聞きしても?」
「一夜だけの関係なのに、名前を知る必要があるの?」
「一夜だけにするつもりがない……と言ったら?」

僕の言葉を聴いて、ブラウスのボタンを掛ける女の手が一瞬止まった。彼女は真意を探るように僕の瞳をじっと覗き込むと、やがてくすりと声を立てて笑った。
女のしなやかな手が伸びて、僕の頬を両手で包む。可愛らしい催促に応じて身を屈めると、すぐに唇が重なった。やはり甘いキスだった。その甘さに夢中になって応えていると、

「本当にお知りになりたいのなら、ご自分で探してみなさいな」

そう言って、女は突き放すような素っ気なさで僕から体を離した。
その手には、さっき僕が女のポケットから没収したはずの銀紙が握られていた。

「これがあなたの狙いだったんでしょうけど、詰めが甘かったわね、色男さん?」

まるであなたのコードネームみたい、と小馬鹿にするように微笑んで、女は銀紙を持った手をひらひらと振ってみせた。僕がその手を掴もうと腕を伸ばすと、彼女はするりとその身を躱して出口へと近寄った。

「続きはまた今度ね、バーボン。そんな機会があれば、だけど」

女は乱れた服装を整えることもせず、カツカツとヒールの音を響かせながらホテルの廊下を足早に立ち去った。その後ろ姿を見送って、僕は小さく息を吐いた。
息を吐き終えたばかりの唇を、自分の指でなぞってみる。

(随分と、甘い唇だった)

あの甘さは、砂糖や蜂蜜のような甘味料のものではない。舌先から鼻腔に抜けた一瞬の感覚と、喉奥に纏わりつくような独特の刺激臭。その正体に、僕は確かに心当たりがあった。警察学校の初任科講習で学んだことがあったのだ。

(大麻か、アヘンか……。いずれにしても、銀紙をあんなに取り出しやすいポケットに入れているくらいだ。かなりの常習犯だな)

その甘いキスにうっかり酔いそうになったことを棚に上げて、僕はすっかり冷静な顔を取り戻していた。ポケットから取り出したスマホをタップして、女の下着に忍ばせた発信機の電源をオンにする。女は、僕が阿笠博士から譲り受けたシール型の発信機に気付くことなく、ホテルを出てからまっすぐに新宿を目指して移動していた。彼女を僕の元に斡旋してきたブローカーに会いに行くのだろう。

(新宿……、歌舞伎町の女か)

意外性の欠片もない展開ではあるが、彼女のバックについている人間が解れば、新宿署の署長と組対課長へ根回しをしておこうと判断した。新宿署は警視庁の管轄する所轄の中でもトップクラスの規模を持った警察署である。そこの副署長は警備畑の情報担当出身で、僕の所属する“ゼロ”の前身である“チヨダ”にも在籍していたことがあった。それだけに、警視庁公安部とのパイプも強い。
新宿署と隣接している戸塚署も公安閥だが、その分秘密主義者が多く、この件に関しては未だに報告が上がって来ていなかった。手柄を横取りされたと後から不満が出るかも知れないが、彼女のような女性が麻薬漬けにされ、美人局のような真似をさせられている現状を、このまま看過することはできない。

―――続きはまた今度ね、バーボン。

彼女は去り際、確かにそう言っていた。“また今度”があったなら、僕は一体どんな立場で彼女と見えることになるだろうか。少なくとも、今日の続きをするという魅力的な約束は、残念ながら果たせそうにない。

僕は小さく舌を出して自分の唇を舐めた。とっくに彼女の唇の味は薄れてしまったはずなのに、喉奥に纏わりつくような独特の甘さが、鼻腔にこびりついて離れなかった。



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