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安室さん×探偵の仕事の依頼人。×というより+。



明日は今日より幸せだ。そう信じて、私はこれまで生きてきた。
けれど、こんなに先行きが不安になる日が私の人生で訪れるなんて、ついこの間までは想像もしていなかった。

「ほぉー、ストーカー被害に悩まれているんですか」
「は、はい。初めは気のせいだろうと思っていたんですが、段々と同じ人を見かける機会が多くなってきて、これはもう偶然じゃないだろうなって思って……」

私は高校時代の友人である榎本梓から紹介してもらった、探偵とかいう男性を視界に入れないように俯いた。相手はそんな私の態度を咎めることなく、優しい口調でこれまでにあったことを教えてもらえませんか、と問いかけてきた。

彼の名前は安室透という。渡してもらった名刺に書かれていたから間違いない。これまでに探偵という職業の人間と関わり合いになることなんてなかったから、その名刺がどこまで信用できるものかはとんと解らなかったが、梓のことは信用している。だから今日も、安室さんに指定されたこのホテルのラウンジにやって来たのだ。
ここなら適度な開放感もあるし、人目も十分ある。例えストーカー男がどこからか私達を見張っていたとしても、何も仕掛けては来られないだろうという彼の配慮だった。

それから私は、ぽつぽつと最近身の回りで起こるようになったことについて語り始めた。帰り道の途中、電車を降りた所で男性に呼び止められ、「さっき盗撮されてましたよ」と親切ごかして話しかけられたこと。それから何度も同じ男性と、同じ車両で鉢合わせるようになったこと。帰りに寄ったコンビニで雑誌の立ち読みをしていたら、いつの間にか背後に立たれていたこと。マンションの郵便受けに、白い封筒が入っていたこと。中身は“いつでも君を見守っているよ”というシンプルなものだったが、宛名のないそれが、ストーカーが私の住むマンションを知っているのだと教えてくれた。

「これまでにされたことについては、何か記録は取っていますか?」
「い、一応、こんなことがあって気持ち悪かったって友達に送ったラインのトーク履歴ならあります。あと、送られてきた封筒は取っています」
「それならよかった。それも立派な犯罪の証拠となります」
「きちんとした記録じゃないんですけど、それでもいいんですか?」
「はい。手帳のメモ程度のものでも十分なんですよ」

その言葉に、私は知らず知らずのうちに強張っていた肩から力を抜いた。探偵さんに依頼だなんて、難しく考えすぎていたけれど案外気を張らなくてもいいのかと思ったのである。
私が思わずそう零すと、安室さんはそこで初めて頼んだコーヒーに手を付けた。

「そうですよね。女性の方で、特にこういう被害に遭われた方は、僕のような男相手に相談することは躊躇いがあるかと思います」

その柔らかい声音に、私は漸く逸らしていた視線を上げた。

「ですが、安心してください。僕はこれでも、あの眠りの小五郎の弟子なんです。あなたを悩ませている事件も、きっと解決してみせますから」
「……はい。心強いです」

眠りの小五郎に直に会ったことはないけれど、新聞の一面で名前を見たことは何度もある。難しい事件を何度も解決に導いてきた名探偵とのことで、その人の弟子ならきっと、安室さんも信用のおける探偵さんなのだろう。

私の緊張が僅かでも解れたことを察知したのか、安室さんはそこで私の手許を示した。

「あなたも、どうぞコーヒーを飲んでください。ああ、スイーツを付けた方がいいなら頼みますが」
「あ、いいえ。というか、ここは私がお出しします」
「いえいえ、ここにお呼びしたのは僕ですし。どうぞ気兼ねせずに」
「でも……」
「いいんですよ。その分、報酬の方を弾んでもらいますから」

茶目っ気たっぷりに言って、安室さんはにっこりと笑った。私はその笑顔を見て、釣られたようにくすりと笑みを零した。

「何だか、安室さんって不思議な人ですね」
「ん?どうしてですか?」
「だって、私みたいな警戒心の強い女にも、こんなに簡単に心を開かせちゃうんですから。私、あなたになら簡単に騙されてしまいそう」

くすくす笑いながら、私は勧められた通り、注文したまま手を付けていなかったコーヒーカップに角砂糖を入れてかき混ぜた。渦を巻くカップの中にミルクを入れ、茶色と白のマーブル模様を束の間見つめる。

「カフェオレがお好きなんですか?」
「……甘党なんです。この歳になってブラックも飲めないなんて、お恥ずかしい」
「いいえ、恥ずかしがることなんてありませんよ。コーヒーの楽しみ方は一通りじゃありませんからね。あなたの好きな飲み方で味わってもらえる方が、コーヒー豆も報われるでしょう」
「ふふ。それもそうですね」

梓の話によれば、彼は梓の働いている喫茶店でバイトをしているとのことだった。だからコーヒーの飲み方にもうるさいのかと思っていたけれど、それは杞憂だったらしい。

そんな会話をしながらこの日の顔合わせは終わった。安室さんに会う前に抱えていた不安は半分以上どこかへ飛んで行ってしまっていて、私は幾分弾んだ足取りでホテルのラウンジを後にした。

「ありがとうございました。安室さんに相談して、ちょっと心が晴れました」
「それならよかった。今日はこのまま、ご自宅に戻られますか?」
「はい、そのつもりです」
「それなら、僕が車でお送りしますよ」
「え?」

突然の申し出に、私は目を瞬かせた。コーヒー代を出してもらっておいて、車で家まで送ってもらうなんてさすがに図々しすぎる。
そう思って断ろうとした私の言葉を遮ったのは、誰あろう安室さんだった。

「僕があなたに接触したことで、犯人を刺激した可能性があります。1人になると危険です。ですから、今日はこのまま僕がご自宅まで送りますよ」
「……そういうことなら、お願いします。すみません、何から何まで」

私が恐縮して頭を下げると、安室さんは朗らかに笑って私の頭をぽんと叩いた。

「いいえ。依頼人の身の安全を保つのも、探偵の仕事の一環ですから」

駐車場はこちらです、と言って彼はきびきびと歩き出した。その後ろに雛鳥のようについて行きながら、私は久しぶりに心からの笑みを浮かべることが出来た。

ストーカー被害なんていう思いがけない災難に遭って、先行きが不安だと思っていた。けれど、 “助けて”と言えばこうして手を差し伸べてくれる人はたくさん居る。

明日は今日より幸せだ。そしてその先は、きっともっと幸せだ。そんな希望を再び抱けるようになったことに感謝しながら、私は前を歩く頼もしい背中をじっと見つめた。


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